『狭間の沼地にて』 第2章

<第2章:廃墟の塔>

 大地を覆い尽くした魔の森の光も雨も漏らさぬ天蓋の下、緑の闇の中を漂うように闇姫と呼ばれる乙女は歩いていた。眠ることのないその目は、しかし己の心の奥深くへと向けられていた。

 乙女の姿は仄かな燐光に包まれ、緑の濃淡だけで彩られた虚像のようであったが、ある意味それは乙女の心象そのものだった。なぜなら彼女は我が身に対する支えを欠いたまま、途方もなく長い時を過ごしてきてしまったのだったから。

 だが、かつては長きにわたり失われたものを空しく追い求めていたそのまなざしは、いまや別のものへと向けられていた。心の中で新たに形を取ろうとしている思いへと。


 闇姫の一番古い記憶は、森のはずれに迷い込んだ旅人を捕らえたときのものだった。意識の網目が人間の存在を捕捉した瞬間、森の魔力がその身を獲物のそばへ送り込んだ。風の中から現れた己の姿に驚く旅人の顔を彼女は覚えていたが、自分の心になんの波立ちもなかったこともはっきりと覚えていた。あの時の自分は我が身に対する疑念など何一つ持っていなかった。ただ吸血鬼としての本能の命じるままに振舞っただけだった。

 それ以前の記憶をなに一つ持っていなかったゆえに、生まれた時から自分はこうなのだと思っていただけだった。心には一点の疑念もなく、だからなにも考えなかった。緑の闇に身を心地よく浸し、梢のざわめきを交わしあう樹々の言葉なき語りに耳を傾けるだけで満ち足りていたのだった。


 永遠に続くかとさえ思われた無垢なる日々は、だがただ一輪の花によって脆くも崩れ去った。森の拡大により近づいた新たな村で、打ち捨てられた家の中に放置された一輪挿しの花を闇姫は見つけた。しおれ始めながらもいまだ開いていたその花は、夜には決して開くはずのないものだったにもかかわらず、彼女の記憶に留められていたものだった。

 その記憶が、いまだ人間だった自分が太陽の光の下、その花を摘んだことがあったという記憶を呼び起こした。自分がかつては人間だったという記憶が、本当の自分はこうではなかったのだという圧倒的な確信だけが、それ以外のことは何も思い出せぬまま突きつけられた。

 そしてその何も思い出せぬということが、乙女の魂を無垢なる楽園から永遠に追放した。私は誰だったのか、私は何者だったのかという問いかけが、答えを見いだせぬまま、見いだすすべさえ得られぬまま、不滅とさえ呼びうる存在を支えていたものを根底から否定し、代わるものも与えないまま突き崩したのだった。


 気がつけば自分は光も漏らさぬ緑の闇の、そして滅びぬ肉体の二重の牢獄に囚われたまま、時の流れに置き去りにされた虜囚に他ならなかった。語り継がれた森の恐怖にもはや訪れる者がいるはずもなく、百年に一人来るかどうかの迷い人に問いかけても、答えどころか忘れ去られたその言葉が相手に届くことすらないのだった。

 しかも自分が人間だったという確信ゆえに、乙女は吸血鬼として振舞うことさえできなくなっていた。森の癒しの魔力により大きく減じられ理性を突き崩すだけの力こそ削がれていたものの、魂への呪縛に由来する渇きもまた肉体よりはむしろ魂を蝕むものだったから、それらは拠りどころをなくした自我を両面から同時に苛んだ。


 ついに耐えられなくなった乙女は、あるとき緑の闇から真昼の光の下へと逃れ出た。灼熱の白い闇の中瞬時にその身は焼き尽くされたが、日が沈むと同時に再生が始まり夜半には復活をとげてしまった。焼け付く苦痛と激しい渇きに身もだえしながら彼女は立ち上がり、伸びた牙を隠すこともできぬ我が身を嫌悪しつつも獲物の気配を探らずにはいられなかった。そして空しく時を費やしたあげく、夜明けの空の白む曙光に闇の森へと追い戻された。そして癒しの魔力が苦痛と渇きを鎮めるまでの決して短くはない時間を、乙女は惨めな思いで過ごしたのだった。森から離れることなどできはしない、我が身はとうに化け物としかいえぬものになり果てているという事実に打ちひしがれて。


 最後に出会った人間は僧侶とおぼしき男だった。その手の錫杖が放つ霊光に我が身を滅ぼす力を感じたとき、だから乙女はただ目を閉じて従容と滅びを受け入れようとした。男の厳しいまなざしの奥に垣間見えた慈悲の心に全てをゆだねようとした。

 しかしたちまち魔風が渦を巻き、その身は魔の森の最奥に転移させられた。我が身の浄化される機会が失われた絶望ゆえの慟哭さえどこにも届かぬところへと。


 それらの記憶をひとつひとつ辿りながら、乙女は巨大な廃墟と化した古の魔法都市へとやってきた。その中央に立つ折れた塔は本来の高さの半分しかないにもかかわらず、緑の天蓋の上に広がる夜空を見ることができる唯一の場所だった。最後の記憶を振り返るのはこの場所がふさわしいと、彼女はここを訪れたのだった。なぜならそれが自我の迷宮に閉じ込められていた自分の思いもしなかった多くのことを見せてくれたものだったから。失われた過去にしがみつくしかすべのなかった己に新たな視座をもたらしてくれたものだったから。

 崩れた塔の螺旋階段を登りながら、乙女は最後に出会った人物を脳裏に思い浮かべた。それまでに出会った誰よりも小さく華奢な、少女の姿をしていた者を。

 少女は人間ではなかった。自分と同じ吸血鬼だった。自分以外の吸血鬼に会ったのは初めてだったが、つい5年前に転化したというその身がまとう妖気はまだ薄く、ほとんど人間と見誤りそうなほどだった。

 しかし、その少女は驚くべき存在だった。古の言葉を解しないにもかかわらず、少女は自分と思念を直接通わせる高い感応力を持っていた。そして自分の状態をたちどころに見て取ると、残された記憶の中の青空と同じ色をした瞳で自分を見上げていったのだった。

「人間だったときの自分のことが知りたいの? それはあなたをもっと苦しめるはずよ」

「私はあなたの望みを叶えられない。でも、あなたが自分のことを知ってしまえば感じるかもしれないことなら伝えられる」

 そして少女は、なに一つ欠けることのなかった記憶とそれらを全て残したまま堕ちてしまった自身の来し方を、意識の中に直接伝えてきたのだった。


 想像を絶するものだった。凄絶という他ないものだった。自分よりずっと小さな、か弱いとしか見えぬ華奢な少女が歩んできた地獄としか形容できないものは。驚くべきことに少女には渇きを癒す力の加護がなかった。自分がかつて白昼の光に身をさらしたときのあの凄まじい苦悶を、か細い少女は避けるすべさえなく、ただまともに受け続けていたのだった。

 しかも少女の持つ記憶は自分自身の支えになるどころか、己の所行に対する激しい罪悪感を狩り立てていた。それらは吸血鬼としてふるまうことを免れぬゆえに人間としての己を断念させるしかないところへ追い詰めながら、人間であったこと自体は片時も忘れることを許さないのだった。少女の心はぼろぼろだった。正気を保っているのが信じられないくらい魂を擦り切らせていた。そして自分のありさまを見たことで、忘却は転化した者にとって慈悲に他ならないと感じたことも率直に伝えてきたのだった。

 呆然とするばかりだった。記憶を留めることがかくも苛烈な、ぎりぎりの淵に立ち続けることを強いるものだったとは。しかし我が身の経験と照らし合わせたとき、それはもはや疑問の余地がないものだった。


 そして少女の姿に照り返されるように、今の自分の姿が浮かび上がるのを乙女は感じた。確かに記憶がないことはたとえようもなく不安な、存在の根底をゆるがすものだった。長い時をかけて存在を磨耗させ、削り取られるように感じてもいた。だが少女の歩みに比べれば、夢の中を歩いてきたも同然に思えた。たとえ悪夢に他ならなかったとしても、自分は少女のようにじかに苦痛に身をさらさずにすんでいたのだと感じざるをえなかった。

 だから乙女は願わずにいられなかった。いつかはあの少女にも安らぎがくるようにと。

 そのとき螺旋階段が途切れ、月の光が乙女の姿を照らした。緑一色の濃淡に塗り潰されたようだった姿が鮮やかな色彩を取り戻した。大きくうねる黄金のような髪が、簡素な冠にはめ込まれた赤い宝玉がきらめいた。

 夜空を見上げた緑の瞳が、天空をまたぐ銀河を捉えた。少女もどこかでこの空を見上げているのだろうかと思い、乙女は銀河に思いを乗せて再び祈った。いつかはあの少女にも安らぎが訪れるようにと。

 だが、その思いがはるか南のゆるやかにうねる平原で、少女に告げられたことを知るすべはなかった。


 祈りを終えたあとも、乙女の目は銀河を見上げていた。ここでなら口に出せるのではないかと思っていた言葉を、けれど震える唇はなかなか紡ぐことができずにいた。

 少女との出会いは乙女を変えた。自分のことしか知らずにいたゆえに陥っていた自我の迷宮から、その目をひとつ高い視座へと引き上げた。過去を失くした哀しみは消えることがなかったが、答えの得られぬ問いかけの呪縛からは解放された。

 そして乙女は思ったのだった。自分をまず捉え直そうと。少女と自分は違うところも多い。少女と自分を比べることで、何かが掴めるのではないだろうかと。

 その考えに至るまでには時間はかからなかった。だがそれは、乙女自身にさえ気の迷いとしか思えないものだった。だから忘れようとした。

 けれど一度思いついた考えは、もう消えなかった。

 あたかも魔の森が大地を覆ってゆくように、当惑する己が心の中でじわじわと大きくなってきたのだった。

 少女と自分との最も大きな違いに基づく、その考えは。


「……私は、森の魔力の中にいる……」

 解する者がいなくなった言葉を紡ぐその声はあまりに小さく、本当に自分が口にしたものなのかさえ判じられぬほどだった。

「……私は確かに牙持つ身。けれどもう長い間、そういうふうにふるまえないでいる……」

 人を殺めずにいられぬ我が身にぼろぼろに擦り切れていた少女の苦悶がよみがえり、言葉が途切れた。沈黙の後、ようやく出た声は震えていた。

「牙持つ身でありながらそうふるまえずにいるのなら、そうふるまわずにすむのなら……」

 にじむ銀河に手を差し伸べた。か細い、しかし抑えきれぬ声が訴えた。

「ならば、せめていま一度、人としてふるまってみたい……」

 ざあっと風が吹き上げてきた。思わず身を固くした乙女の立つ塔のはるか下で、木々がざわめいていた。梢のうねりが塔を中心として、波紋のように広がっていった。

 塔から見下ろした魔の森の姿に乙女はおののいた。黒々とした木々が大地を覆い尽くし、波紋のようなうねりははるか地平線の彼方まで、どこまでも広がり続けていた。あたかも塔に立つ我が身の妖気が、森の隅々まで行き渡るのを見る思いだった。それは自分の存在が、存在すること自体が、この森を育んでいることを容赦なく見せつけた。

 少女の最後の叫びが、世界が滅びるという言葉が、かつてない実感とともに迫ってきた。緑の闇の天蓋の下では、これほどまで感じたことがなかったものだった。

 たとえどうふるまおうと、自分の存在はいつか人間を大陸から駆逐してしまう。その事実を突きつけられながら、絶望に呑まれそうになりながら、ついに白み始めた空に向けて、か細い叫びが放たれた。

「私はもう人としてふるまうこともできないの? そんなことは許されないの?」

 しかし叫びは虚空に消え、曙光さえ吸い込む黒き森はうねりの波紋を果てしなく描き続けるばかりだった。


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