『狭間の沼地にて』 第3章

<第3章:沼地の家>

 ルザの村の西に広がる沼地のほとりに、粗末なあばらやが建っていた。

 沼地の西には荒野が広がり、そのむこうに黒くわだかまるのが魔の森だった。そしてかの黒き森は、年々じりじりと荒野に侵食し、沼地へと迫り続けているのだ。

 沼地はぬかるみと道とが複雑に入り組み勝手のわからぬ者には見分けさえつかなかったから、野盗や敗残兵などは到底踏み込めなかった。しかし魔の森が沼に至れば、この地もまた闇の領土と化すのは誰の目にも明らかだった。まるで船の舳先のように沼地に大きく突き出た三角州。その上に建つあばらやは三角州をいっそう船そっくりに見せていた。海の墓場に迷い込んだ難破船が、最後の破滅をもたらす岩礁へと引き寄せられるように、三角州もまたじわじわと黒き森との距離をつめ続けているのだった。

 そして船のごとき三角州と陸地を結ぶのは、古びた板を渡しただけの粗末な橋にすぎなかった。


 その泥でできた船尾から船首へと、黒い稲妻が真横に疾った。舳先に立つ太い杭が音をたてて砕けた。うなる弓からほとんど同時に放たれた稲妻は、離れて立つ杭を残らず粉砕した。恐るべき技、凄まじい破壊力だった。

 だが、バドルの黒い目は満たされていなかった。まだ幼ささえ残した黒髪の少年の顔には焦燥の色さえうかがえた。村境の戦いから半月の間に三度、バドルは野盗の襲撃をほとんど独力で撃破した。襲撃がない日はひたすら弓の技を磨いた。それだけの力を身につけながら、だが彼自身が知っていた。こんな力をいくら身につけようと、夜ごとの戦いには決して勝てないと。

 それでも彼はひたすら力を求めた。力なき自分を、臆病な自分を決して許すことができなかったから。

 その顔が赤く染まった。西の地平に日が沈み、東の空が急速に光を失い始めた。それは少年のもう一つの戦いの始まりを、より恐ろしく絶望的な戦いの始まりを告げるものだった。

 そしてそんなバドルの姿を、あばらやの中から白い人影が一つ見つめていたのだった。

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 その夜も少年は、バドルは、あの日の戦いとさえ呼べぬ殺戮のさなかにいた。今度こそ、と念じ射かけた矢は、またも真紅の瞳を燃やす少女の胸をあやまたず射抜いた。

 しかし少女の手は、これまでとまったく同じ軌跡を描き矢羽を握りしめた。魔物たちの群もまた機械仕掛さながらの同じ動きで襲いかかってきた。いっせいに立ち向かい武器を突き立てた十人のうち、またあの六人が挑んだ敵に食い殺された。

 人面の獅子のごとき魔獣が跳びかかり、思わず背を向けた自分にガドルが体当たりした。自分をかばった兄の脇腹を、毛ほどの狂いもない軌跡を辿る魔獣の尾の毒針がかすめた。ばりばり音がした。またあの二人が噛み砕かれていた。

 踏み留まれ、と念じた脚は、今夜もいうことをきかなかった。そして自分に叫びかけた兄の言葉は聞き取れなかったのに、魔獣を呼び止めた少女の透きとおるような叫びが、いまも胸を苛んでやまぬあの言葉だけがまたも耳に届いた。

「戻って! 私から離れないで!」

 何もかもが同じだった。いくら矢を放つ手に力を込めようと、逃げようとする脚を留めようとしても、起こった出来事は何一つ変えられはしなかった。ただ一つ、逃げた自分が知り得なかった兄の最期だけが一夜ごとに変わっていた。少女に生き血を吸われながら、化け物たちに生きたまま手足や胴を食われながら、自分を見送る兄の死にゆく目に浮かぶ表情だけがじわじわと変わっていた。逃げ延びよとの願いがしだいに薄れ、臆病者、裏切り者と責め呪う昏い色にいまや染まり果てていたのだった。

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 同じ悪夢に苛まれ続ける目が今夜も見開かれた。とうに涙など涸れた目が昏い感情をにじませ天井を見上げた。バドルは自分でそれを見ることができなかった。だから、悪夢の中の兄の目が、自分の中で膨れ上がる黒々としたものを映しているとの自覚には未だ至れずにいたのだった。

 やがて黒い炎のゆらぐその目が、自分に向けられているはずのまなざしを探した。そして、水差しを持って歩み寄る白い人影を捉えた。かすれた声がその名を呼んだ。

「ミラン……」「飲みなさい、バドル」

 女のようなほっそりした手が水差しからの水を受けた器を差し出した。器からは微かに薬草の香りが立ち昇っていた。

 やせた青年だった。線の細い虚弱な印象の漂う中性的な顔も、少し離れれば女と見誤りかねないものだった。見方によれば日陰の花のごとき美しさとさえ取れなくもない容姿だった。

 しかし、彼は忌み子だった。どれほど離れていようと目にとまる色素を欠くがゆえの白い髪と赤い瞳は、この世界では忌まれた者であることを示す烙印に他ならなかった。渇きに狂う吸血鬼の目と始祖が持つと伝えられる白い髪を持って生まれる者。それは吸血鬼への恐怖ゆえ、その場で殺されることさえ少なくないほど呪わしい存在と見なされていたのだった。

 闇の森が間近に迫るルザの村において、彼が殺されずにすんだのも皮肉なことに恐怖ゆえのことだった。忌み子が生まれたとの知らせに駆けつけた村の占師は、この子は闇姫と何らかの係りを持つ宿命にあるとの卦を出した。それがどんな係りなのかが卦に出なかったこともあり、多くの憶測が流れた果てにこの子を害すれば闇姫の怒りに触れるとの見解が大勢を占めるに至った。その結果、ミランと名づけられた忌み子は村の西の端、最も森に近い沼のほとりの粗末な家でひっそりと暮らしてきたのだった。そんなミランの扱いに意義を唱えたのがバドルの兄ガドルだった。ミランとほぼ同じ年齢だったガドルはいつしか彼と交流を深め、ミランはあくまで人間だと主張した。そしてバドルや仲間たちとしばしばミランの家を訪れ、ついにそこで暮らすようになったのだ。

 だが1年前にガドルと仲間たちが全滅して以来、今ではバドルだけがミランとともに暮らしていた。

 あれからバドルはミランの赤い瞳を直視できなくなっていた。差し出された器から一口水を飲むと、少年は器に視線を落として黙っていたが、ついにその口から呻きが漏れた。

「あいつ、なぜ俺を逃がした……」

 それは何度も繰り返された問いだった。しかもバドルの声にはそのたびに、より暗い、押さえつけられた激したものがにじむようになっていた。とっくに気づいているミランが口を開こうとしたが、バドルの言葉が先行した。

「俺が弱かったから、臆病だったから、取るに足らない奴だったから!」

「バドル! そんなふうに自分を責めてはいけない」

 ミランの静かな、だが思いのこもった声にバドルは沈黙した。だが、ふたたびよじるような声が呻いた。

「どうすれば強くなれる? どうすればあいつを倒せる? どこまで強くなれば……」

「吸血鬼は剣や弓矢では倒せない。わかっているでしょう? 君が弱いんじゃないんです」

 ミランの穏やかな声と調合された薬草が、バドルのささくれた神経を和らげたようだった。短い沈黙のあと、少年は微かに寝息をたて始めた。いつものように、悪夢に乱されない二度目の眠りがバドルを包み込んだのだった。

 ミランはしばらく寝息に耳を傾けたあと、自分よりまだ背の低い少年の肩へ毛布を引き上げた。そして空になった器を洗おうと立ち上がった。

 だしぬけに風が吹いた。隙間だらけで閂がきかなくなった窓が軋みながら開いた。窓辺に歩み寄り窓を閉めようとしたミランの体が凍りついた。

 窓の外に、中州から陸に渡された板の橋の向こうに人影が一つ立っていた。冴えた月から注ぐ月光がうねる黄金の髪に散乱し、冠にはめられた赤い宝玉をきらめかせた。見上げる緑の瞳には、驚いたような、おののくような、うかがい知れぬ表情が浮かんでいた。

 ゆっくりと、相手は数歩近づき、板の橋の側で立ち止まった。視力の良くないミランの赤い目にも、もはやその表情がはっきり見て取れる距離だった。小さな唇が、かすかに震えた。白い手が胸の前で、祈るように組まれた。赤い唇が引き結ばれた。

 そしてそれが、ゆっくりと開いた。


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