『隻眼の邪法師』 第12章の15

<第12章:修羅の洞窟 その15>

「嘘……だ……」

 からくも紡ぎえたその声は、だが、あまりにも弱々しかった。そのことが、そんな声しか出せないことが、そんなことが起こるとは夢にも思わなかった事態に不意打ちされた心をかき乱した。生きてまみえるはずがなかった弟との再会に、赤子の頃の面影を窺いようもない白衣の神官が、それでもあのポールなのだという事実に混乱しつつ、彼は夜空の彼方から届く心になお抗った。
「違う。そんなものじゃない。俺の血はあいつに毒された。俺もあいつを殺してから、人間でなくなる研究を続けていた。だからこれは血なんだ。やっと人間でなくなれたから、もう色が抜けただけ……」

 その言葉は発作に断たれた。床に散った赤い染みを彼は呆然と見つめた。そんな自分に、気遣わしげに、おずおずと触れてきた魔少女の心を感じたとたん、頬を伝うものが煮え返った。不死の秘密を明かすのをついに拒み通しながら、この心に踏み込み魂をかき乱すあの小癪な小娘! 激しい怒りに、それすら突き抜ける悔しさに鷲掴みされ、彼は天を仰ぎ絶叫した!
「わかるだろう! 心を読めるなら。それほど俺に惨めな思いをさせたいか。死にかけた奴の思いを暴くのがそんなに楽しいか。なぜだ、貴様なぜ何十年もたった今になって俺の前に現れた! この呪わしき吸血鬼、氷の血の忌むべき魔女め! この……」

 激した声が突然やんだ。開けた口から、だが続く言葉は、訊くことのなかった、知りえなかった相手の名前は出なかった。杖に縋り立っていた傾いだ体の力が抜け、彼は床の上にくずおれた。迫り来る死にいかに追いつめられていたとはいえ、偶然によってイルジーから真の名を隠し通し、からくも掴んだ仇の名をよすがに勝利を掴んだこの俺がこんな失態を犯すとは! そんなふうに生きるしかなかった男にとってそれは致命的な敗北であり、その衝撃に心の奥の獄舎の壁がついに崩れたのを彼は感じた。まるで弟の、ポールの裂帛の気弾に割られたこの仮面のように。もはや肩の震えを抑えること能わず、邪法師に堕ちるしかなかった兄はやがて力なく笑い出した。
「なんたることだ! あれほど長く尋問していながら名前も訊かなかったとは。そんなざまでこっちの名をいい当てる相手に勝つつもりだったとは。喜べ、勝ち誇るがいい! 俺の、俺の……、負けだ……っ」

 最後まで心を覆っていた混迷の鎧が砕け散り、暴かれた思いにいまや彼は向き合っていた。あれほど焼けつくように思えた涙がぼろぼろの心にしみ渡り、あらゆる負の感情を溶かしてゆくその中で形を取り戻してゆくそれを半ば呆然と見つめていた。それは嬉しさに似ていたが、そんな言葉では追いつかないものであるのもあまりにも自明だった。するとなぜか、遠い遠い記憶が浮かび上がってきた。それはもう思い出せないのに懐かしい狭い家での夕餉の祈り。父と母が自分やメリーに教えつつ、食事の前に必ず神に捧げていたものだった。それはあまりにおぼろげで、両親の顔も失われたままだった。幼かった自分にも決して実感があったわけではなく、だから自分の思いの呼び名としての言葉をそこに見出すまでには至らなかった。それでもなぜか感じたのだった。父母からあのとき受け取れなかったその何かにこそ、この思いはどこかで通じているのだと。弟が、ポールが生きていてくれたということは、それほど自分にとって大きなことだったのだと。

 そのとき地面が一瞬揺らいだ。小さな、だが奥深い、明らかに地の底から伝わってきた振動だった。兄は、ヨシュアは思い出した。この火の山の底のあの装置を、イルジーが上古の魔法文明の遺産だと漏らした炎の精霊力を制御するあの装置をこの手で暴走させたことを。このままでは火の山が噴火し溶岩がこの地を埋め尽くし、弟も、ポールも生き延びることなどできないのを!


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「老師よ、これは……」
 絶句するグロスに、アルバは身をわななかせつつ応えた。
「失敗したのじゃ、蘇生が。だが、ああ、なんという……」
 その場にくずおれる老修道士の肩をからくも支えた白衣の神官に、血の気をなくした唇が告げた。

「オルトは神に拒まれたのじゃ。おそらくなにかが、肉体か血が根こそぎ変質させられたに違いない。ゆえに術が正常に働かず、神の力は呪いに穢されたオルトを焼き尽くしてしもうた……」
「では。ああ! まさか……」
 グロスも呻いた。顔から一気に血の気が引くのを覚えつつ。
「これも私のせいなのか? 私があんな声に惑わされたせいで、オルト殿はかくも無惨な最期を遂げられたのか? 私は、ならば私はまた取り返しのつかぬことを!」
 顔を覆った神官の肩を、今度は修道士の手が掴んだ。
「……グロス殿、それをいうならわしも同罪じゃ」

 おずおずと顔をあげたグロスの目が、アルバの沈痛な面持ちを捉えた。
「わしがもっと強く引き留めておれば、こんなことにならなんだやもしれぬ。だが、あのときわしも感じたのじゃ。あの泣き声にあなたが感じたものを。あれはおそらく村を襲った亡者のごとき出来損ないではあるまい。さもなくばかくも強き惑わしの魔力を振るうことなどできなんだはずじゃ。かの悪党はあそこで泣いておったものを捕らえたことで、憎むべき探求を続けていたに違いない。なすべきことを見失われるな! オルトのためにもこんなことはもう終わりにせねば。そうじゃろう?」

 そのとき背後の通路から駆けてくる足音が聞こえ、振り向いた彼らに声が呼びかけた。
「師父! アルバ師!」
「二人とも無事かっ!」
 安堵もあらわに駆け寄ってきたアラードとボルドフだったが、応じた二人の様子と床に散った黒い灰に彼らも顔をこわばらせて立ち尽くす。そんな一同をそのとき見舞う地の底からの不気味な振動!


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