『隻眼の邪法師』 第12章の2

<第12章:修羅の洞窟 その2>

「なにを、泣く……?」

 掠れた、疲弊しきった声がそう呻くのが聞こえ、リアは相手に目を向けた。石の拳に握られ涙を拭うこともできぬ魔性の少女の視野は滲み、仮面の男の姿は潤んでいた。断続的な発作にもはや折れたままの身を岩壁まで下がってかろうじて支えている隻眼の邪法師。その姿は二人の間に口を開けた魔法陣から明滅する赤い光に染まり、血まみれのように見えた。しばしば喀血を伴う男の発作は吸血鬼に堕ちた娘の嗅覚を通じ、その感覚を血のイメージ一色に塗り固めて久しかった。
 それが掻き立てずにおかぬ血への渇望と紅き狂気への誘いを、最初は石の拳による拷問の苦痛がからくも阻んだのだった。だが責め苦が果てしなく繰り返されるうちに不死の肉体に宿る痛覚は鈍麻してゆき、当初の衝撃をもう保てなくなっていた。それでもリアの意識はもう狂気に圧倒されることがなかった。半日以上も続いた拷問の間、相手の心身の苦しみに感応し続けたリアの心に浮かび上がった邪法師になるしかなかった男の生涯のあらまし。その記憶が魔性の身に残された心を深く悲しませたがために。

 出会ったときにかけられたのとまったく同じその言葉。けれどその声は、いまや消耗を隠せぬ掠れ声でしかなかった。尽きゆく命を継ぐ最後の手段とたのむ吸血鬼の不死の秘密を知るために、自分を拷問しているはずの男。だが本人が自覚できないところで彼を支え、そして呪縛してきた奪われし者たちへの思いゆえに、食い縛った牙の間から漏れる苦鳴が、石の拳に砕かれる骨の音が彼を苛まずにおかぬのだった。そして男の心が軋むたび、それが感応力を通じてリアの心にも逆流してくるのだ。
 確かにイルジーへの憎しみも大きかった。嗜虐的な悦びのまま自分を痛めつけた唾棄すべき仇敵を憎むあまり、彼はイルジーと似たことを自分がするのに抵抗を覚えずにいられないのだ。だがリアにはわかっていた。男が心の奥底に封じることで守り抜いた本来の心根。たとえ小石のかけらも同然のちっぽけなものでしかなくても、それあればこそ彼はここまで苦しむのだ。そんな心のまま、決して吸血鬼になどならせてはいけない。それが意味することを身をもって知っていればこその、それは思いだった。

 そんな応酬が延々と続いた結果、リアは自分が感じているのが誰の苦しみなのか、判別できなくなっていた。人間だったときも含めこれほど長く誰かの心に触れ続けていたことはなく、いまや感応の深さは彼女自身さえ未体験の域に達して久しかったから。そのときリアの心が激しい苛立ちに乱され、同じ焦燥に染まった掠れ声が耳に届いた。
「……苦しいか。ならばいいかげん白状しろ。強情など張るからそんな目に……っ」

 発作が嗄れた声を断ち切り、悲しみが相手の苦痛とないまぜになり魔性の身に封じられた魂を軋ませた。相手の思いはこれほど自分に伝わってくるのに、なぜ自分の思いは相手に届かないのかとの悲嘆が、空色の瞳を新たな涙に潤ませた。
 どれほど男に繰り返しただろう。吸血鬼になっても苦しむだけだと。もとから目指していたわけではない彼に、拷問する相手の苦しみに揺らぐような心の持ち主に、忌むべき魔性の生はなんの喜びももたらしはしないと。だが死に追い詰められた男は頑なになるばかりだった。自分の言葉に真実の響きを聞き取りながら、それが顔を思い出せなくなった妹の面影をより強く自分に重ねる事態に至りながら、偽りの名のもとで歪められた生を重ねるしかなかった男は決してそのことを認めようとしなかった。わかったふうな口をきくなと激してはさらなる責め苦をゴーレムに命じ、それがもたらす自分の苦しみを見て重ねた妹の面影ゆえに自身も苦しむ。それがまたリアにはねかえってくるという悪循環に陥るばかりだったのだ。

 そうして相手の心身の苦痛を自分のものとして感じ続けた果てに、魔性の魂を持ちえなかった少女は悟った。もはや男が限界であると。これ以上こんな状態に耐えられないと。破局が迫るのをひしひしと感じながら、にもかかわらずそれが男や自分になにをもたらすのか、リアは全く予想もできずにいた。
 そのとき男の声がした。けれど自分がそれを耳で聞いたのか、それとも内心の声を心に感じたのかさえ、彼我の苦痛と悲しみに苛まれつくした娘にはもう判じられなかった。


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