『隻眼の邪法師』 第12章の9

<第12章:修羅の洞窟 その9>

「捕縛の術だと? なめるな!」
 瞬時に相手の術を打ち消しつつ、矢継ぎばやに炎を放つ仮面の邪法師。からくも障壁の術を唱えはしたものの、茶色の髪の男は顔を引きつらせつつ後じさるのがやっとだ。そんな相手を憤怒の鬼神と化したローブの男は右に左に火線を繰り出し追いつめる。かつて邪悪なイルジーが無力だった自分を翻弄したように。
「さあ吐け! きさまどこで俺と同じ術を……っ」
 鉄の味の塊がその声を断ち、歪んだ背が苦悶に捩れたとたん、光の網目がその身を絡め取りぎりぎりと締め上げる。声も出せず膝を落とした男の仮面の裏からぬらりとした感触が喉元を伝う。その場を支配する異様な沈黙。ややあって、こわばったような嘲りの声が耳朶を打つ。

「ふ……はは、そんなざまだったとはな。散々重ねた悪行の報いか? 魔道の徒よ」
 思わず顔を上げたその喉元に突きつけられる右手の短刀。
「動くな! 下手な真似をすれば容赦はせぬ!」
 言い放つ相手の左手が仮面にかかる。
「さしずめこれも呪具であろう。外させてもらうぞ」
 暴かれた隻眼が、嫌悪に歪む相手の顔を捉える。
「……なんたる悪相。どれだけ罪を犯し裁きを受ければこうなるのだ。流れ着いた仲間もひどいものだったが、さすが魔道の徒としかいいようがないな」
「仲間だと? あいつが? ふざけるな!」
「ほう? さては仲間割れのあげく殺し合ったか?」

 あからさまな嘲りが口を突きそうになった言葉を封じ、隻眼の邪法師は行き場を無くした憤りに歯噛みする。おまえになど何がわかるとの憤怒が言葉になり損ねた激情のまま、病み果てた胸の奥で憎悪の嵐と化して荒れ狂う。そんな彼に、だが冷ややかな声がさらなる追い打ちをかける!
「貴様らのような輩のせいで、人間に栄光をもたらすはずの尊い術式までが魔道などと貶められるのだ。吸血鬼を滅殺する解呪の技さえ、元は呪殺の邪法だったという。正しき心と叡智を忘れぬ限り、この世に人間のためにならぬ術などない。さあ白状せよ。貴様は水源の村の人々を不死の探求の実験台にしたはずだ。その研究の記録はどこだ!」
 灼熱の憤怒が瞬時に凍る。それは殺意だった。炎がそのままの形で氷の刃に転じたかのごとき、抜き身の殺意だった。
「奪う気か、あれを……っ」
 新たな吐血に身を折るその胸の中、断たれた言葉が渦を巻く。この身から絞られた血で、抉られた目や肉で、なにより呪わしきこの生涯に渡る歳月で購われたあの術式。俺の全てを奪いつつ、何一つ返そうとせぬ不死の呪文。それを俺から奪うだと? 俺の骸を踏み台に届かなかったものを掴むだと? 許せぬ! 断じて許せぬ! 渦巻く氷の刃に切り刻まれ魂が黒き血潮に濡れてゆくのを感じて身を震わせる隻眼の邪法師。その耳に陶酔に上擦った声が届く。
「奪うだと? 愚かな! 我欲と邪悪に汚れた手からその術式を救い出すのだ。貴様がそんなざまでいるからには研究は完成しておらぬのだろうが、外道に墜ちた悪党どもの目に見えぬものも、大義に導かれる私の前には明らかになろう。そして私は貴様らが歪めたその術式を正し、この世に新たな光をもたらすのだ。その時こそ歓呼の声が私を迎え、偉大なるミルチャの家名は再び輝くであろう!」

 思わず暴かれた顔を上げた男が、だがすぐその歪められた顔を背ける。己が隻眼にたぎる光を隠すため。そして無理やり興奮を押さえつけた声で、あえて嘲りを滲ませ獲物を挑発する。
「ふん、ミルチャの家名だと? たかが田舎貴族の裔が家名などひけらかすか。馬の骨の分際で救世主気取りとは片腹痛いわ」
「黙れ下郎!」
 激高した相手に殴り倒され、傾いだ背を足蹴にされてのたうつ邪法師。だが彼は聞いたのだった。悶絶寸前にまで追い込まれた意識を執念で繋いだその耳で。
「こんな辺境の洞窟を這いずり回る輩がなにをいう! 我こそはエルリア西部に誉れ高きミルチャ王家の嫡子にして第三一代の王たる星の元に生まれし者だ。だが私は星にのみ縋って王位に戻るのではないぞ。魔道の技と蔑まれ貶められた呪文を世の人のため編み直し、この世を人類の楽園となすのだ。その時こそ私の前に新たな玉座は輝き、人々の歓呼の中、オルト・フィーアハルム・ミルチャの名は永遠に栄光の歴史に刻まれよう!」

 石畳に伏した隻眼の邪法師の顔が歪む。とっさの罠にまんまとかかった相手への嘲りに。凄絶なまでの勝利の笑みに!


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「どうするグロスどの。二手に分かれるか?」
「いや、それは無謀であろう。分断されてはあまりに危険だ」
「だがここで道を誤れば、オルトを見出すことはかなわぬ」
 唇を噛み立ち尽くす二人だったが、ついにグロスが言葉を絞り出す。

「どのみち賭でしかないが、院長どのもとっさにゆく手を選んだはず。熟慮の上のことではあるまい。老師よ、院長どのの利き腕はいずれか?」
「右じゃ。右利きじゃ」
「ラーダの神よ。護りたまえ!」

 意を決するや右手の壁の水晶玉を目印に砕きたちまち駆け出す術者たち。再び現れた十字路はまたも真ん中の道を選んで駆けてゆく。そのわずか数分後、右の道から小さな人影が、黒髪の民の娘だった生ける死者がよろめきつつ姿を現す。大きく見開かれたうつろな目になにも映さず、喘ぐ口から細い牙をのぞかせて。

 だが無数の魔法陣の放つ魔力はつい今しがたそこにいた人間の気配さえかき乱し、亡者と化した少女は獲物を追うことができなかった。もはやエルゼでなくなった哀れな娘は十字路をそのまま右から左へ直進すると、その先の下り坂を地の底深く降りてゆくのだった。


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