『隻眼の邪法師』 第12章の6

<第12章:修羅の洞窟 その6>

 真紅の光に呑まれた瞬間、それが銀色に転じた。リアの体は月光に満ちた大空高く浮かんでいた。魔法陣の力で吹き飛ばされたと悟ったとたん、浮力を失った体が落下を始めた。

 見る間に加速度がつき、遠すぎて定かでなかった眼下の景色が急速に拡大を始めた。それでも地表の様子はまだ窺えない。それほど高く吹き飛ばされたのだ! 暴風のごとき風を巻き墜落するリアを恐怖が鷲掴みする。

 このまま大地に激突すれば、この身は形すら留めないだろう。それでもやがて、肉体は復活を遂げるに違いない。だが精神は、消耗しつくした心は、未曾有の衝撃に耐えられるのか?

 もし自我が、魂が砕けてしまったら、甦った自分は亡者たちと同じになってしまう。見境なく人間を襲い、牙の呪いの連鎖へと片端から引き込む存在に。そうなるまいと思えばこそ、あのとき白髪の乙女が申し出た忘却の安らぎさえ拒んだはずの忌むべき怪物に! 顔を打つ暴風にもはや盲いた魔少女は狂乱の態で絶叫する!

「助けて! 誰か助けてぇえーーーーっ!」

 すると気配が追いすがってきて、鉤爪のあるごつい脚が華奢な少女を抱え込んだ。分厚い胸を覆う剛毛が顔を埋め、風切り音を縫うように声が唸る。

「勢イガ過ギル。急ニハ止マレヌ」

 革の翼を徐々に広げ減速を試み向きを変えようとするガルム。だがその巨体は猛る風を貫き破滅へ真一文字に突っ込んでゆく。永遠ともまがう一瞬の後ようやくその身が引き起こされたとき、地面をかすめた尾が小石を巻き上げる音がした。思わず太い首にしがみついたリアの言葉に嗚咽が混じる。

「ありがとう、ガルム……っ」

「ナゼコウナッタ? 丸半日モドコデナニヲ」

「少し休ませてやってくれ。ひどい戦いだったのだ……」

 唸る人面の獅子に返す玲瓏たる声は、けれど消耗の色を隠せぬものだった。上空に舞う妖鳥の細面は翳りを帯びやつれていた。リアは悟った。感応力の高いこのセイレーンが、自分の体験したものを感じ取っていたことを。

 セイレーンはガルムのように強くなく、直接助けてくれることはない。だが種族固有の能力として備えたその感応力はリア自身のものよりさらに高く、それを自在に使うことができた。そしてリアとは微妙に距離をおき、容易に心を明かさなかった。そんな妖鳥をリアは自分より格上の存在と感じ、天の高みから森羅万象を見下ろす群青の翼持つ虹色の魔物に、賢者に対するものにさえ似た崇敬の念を抱いていた。それだけの相手が気づかぬうちに、自分の心に寄り添い続けてくれていたのだ。

 全く異なる二頭の魔物が、自分の身も心も支えてくれている。その思いが胸に迫り、空色の目からこぼれたしずくが銀光に浄化された天と地の狭間に散った。感謝の言葉を紡ごうとしたリアの知覚が、けれどそのとき何かを感じた。

 思念だった。大地の底深くただ一人残された隻眼の邪法師の、虚脱した心が切れ切れに伝わってくるのだった。岩盤に阻まれたせいかもはや映像と呼べるほどのものは伝わってこなかったが、それはかえって魔道師に堕ちるしかなかった男の心のあり様を、心ならずも魔性の身と化した娘に見せつけてやまなかった。


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 終わりだ……。石畳にへたり込み呆然と魔法陣を眺める男の脳裏に、その思いばかりがこだましていた。

 手掛かりのはずだった。死を免れ生き延びるための無二の機会のはずだった。なのに俺は手放した。この手で投げ捨ててしまったのだ。黒髪の民をどれほど犠牲にしても見い出せなかった不死の生命の秘密。探求の道の誤りにようやく気づいた矢先、奇跡のように訪れたチャンス。それを俺は文字通り、魔法陣に叩き込んでしまった……。

 なぜこうなった? どこでなにがおかしくなった? どうして俺は、これほど心乱した……。

 そんなに似ていたわけじゃない。せいぜい髪の色くらい。歳もずっと上だったのに、なぜあんな小娘に……。

 切れ切れに浮き上がってくるそんな問いに答えられずにいるうちに、虚脱した心がなにかを感じた。微かに、どこか遠くから。声とも呼びかけともつかぬものを。

 もはや言葉と呼べるほどのものは伝わってこなかった。けれど感じた。声音にも似た、心の色というべきものを。それは少女の姿のあの吸血鬼と向き合っていた間、ずっと感じていたものだった。

 だが彼は知らなかった。それをなんと呼ぶべきかを。怒りや憎しみに悲しみを塗り込め同情さえ知ることなく生きてきた彼に、そんな呼び名を知る機会などあろうはずがなかったから。

 だからいらだつことしかできなかった。自分を拒み通したにもかかわらず、なおも訴えかけてくる魔少女に。そんな訴えにさえゆらがずにおれぬ己が心に。

「……いいかげんにしろ。俺はそんな男じゃない……」

 呻くその顔に赤い光が射した。見上げた隻眼がかがんだままのゴーレムを、その顔面でちらちらと光る魔晶石を認めた。それは証だった。通路に残されたもう一体が異変を感知したことの。

 小娘の仲間か? それにしては遅すぎる。でも、もしそうならチャンスかも!

 震える手ももどかしく取り出した水晶玉。そこに映し出された一団の男たち。だが残された隻眼は最初に認めた巨漢に釘付けになった。他の者の容貌はおろか頭数さえ目に入っていなかった。剛剣と盾を構えた大男しか。白いものが混じる黒髪と、こちらをひたと見据える黒い目しか!

「黒髪の、民か……っ」

 語尾はぎりりと噛み締めた奥歯に砕け、疲弊した心に再び憎悪が燃え上がる。消耗しつくした肉体を気力だけで振るい立たせ、隻眼の邪法師はよろめきつつも戦士の虚像に叫ぶ!

「この期におよびなお俺に仇をなすというか。いいだろう。では貴様ら残らず俺の道連れにしてくれる。ゴーレムよ、そいつらを殺せ! 特に大男は絶対逃すな!」

 いいつつ印を結ぼうとしたとたん、また感じた。あの魔少女の心を。遠くかすかな、けれど心動かさずにおかぬ悲嘆めいた訴えを。ゆらぎかけた心を、しかし激しい憎しみが支える。これまでもずっとそうだったように。指をもがれた手でついに破滅を呼ぶ印を結び、黒衣の魔道師は捨て鉢の叫びを夜空の彼方の魔少女へ投げつける!

「小癪な娘よ見るがいい! 俺の本性を、死に様を!」

 ひび割れた仮面を拾い上げ再び素顔を隠しつつ、手負いの獣と化した男は赤い光を放つ魔法陣によろけ込む。たちまちその身は最下層へ、火の山の根元へと転じゆき、消耗戦が繰り広げられた地獄の獄舎は死よりも深き沈黙に閉ざされる。

 だが魔法陣の光が絶え、かがんだままのゴーレムの巨体を闇が呑み込んだとき、淀んだ闇の底の底から小さな影が身を起こす。見開かれた黒き瞳はいまや魂の抜けた無明の闇と化し、喘ぐように開いた唇から細く尖った牙が覗く。非業の死を遂げ牙に呪われた黒髪の民の少女が、死者の身のままついに甦ったのだ。エルゼという名の少女だったものは魂を砕かれ自我も記憶も全て失った抜け殻の状態で、忌むべき本能のみに導かれ無数の魔法陣の放つ魔力と昏迷ばかりが渦巻く洞窟の奥深くへとさまよい込んでゆくのだった。


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