『狭間の沼地にて』 第7章

<第7章:天蓋の下で>

 朝の曙光の一筋さえ射し込まぬ魔の森の天蓋の下、緑の常闇に身を沈めた乙女は何度もこの二夜の出来事を思い返していた。


 あの夜塔から森を見下ろしたときの絶望に打ちひしがれつつ、あれから乙女は闇の中を果てしなくさまよっていた。闇の眷属と化した身でなにを夢見るか、憧れるのか。愚かなことよと自分にいいきかせながら。
 けれど、心にくすぶる火種を消すことはできなかった。むしろその孤独なさすらいのうちに、彼女は確信するに至った。もしもこのまま一人でい続けたなら、この世の終わりまでこうしているしかないのだと。緑の闇に沈みもはや誰もいなくなった大地を、永遠に闇に溶け込んだままさまよい歩くばかりなのだと。

 その確信は乙女を脅かした。広大な緑の闇と不滅の肉体に囚われた脆い魂は永遠の虚無を前に震撼し、そして駆り立てられたのだった。誰かに出会わなければならない。自分のなにかを変えてくれる誰かに。かつて人でありながら闇の森の妖魔になり果てたこの身を、いま一度人として振舞わせてくれる誰かに! たとえそれが一場の夢にすぎずとも!
 あがく魂に突き動かされて、乙女は荒野を渡り村をめざした。それが昨夜のことだった。


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 沼地の中州に人間の存在を感じて、乙女はあばらやを訪れた。そこには白い青年がいた。驚愕に見開かれた瞳は真紅だった。

 なぜかその姿に、乙女は異様な衝撃を覚えた。

 印象的な姿だった。乙女の目には美しいとさえ見えた。だが、それ以上にその姿は記憶の奥の定かならざるものをかきたてた。それは彼女を転化させ、人としての記憶の欠片に苦しむその身を憐れみ記憶を消した始祖たる白き吸血鬼との結びつきゆえのことだったが、彼女自身はそうと認識することができなかった。森の加護の力ゆえに記憶の完全な消去を免れたとはいえ、意識の表面に浮かぶだけのものが残っていたわけではなかったから。

 ただ彼の姿を一目見た瞬間に、得体の知れぬ衝撃が意識の最奥を内から突き抜けたことだけが自覚されたのみだった。しかも、乙女はそこになにか宿命的なものを感じた。


 衝撃の呪縛がゆるんだとき、だから彼女は必死で語りかけた。この相手なら何かが通じるのではないかと思って。彼にこそ自分の思いが伝わることを願って。

 だが、はるか昔に滅びた言葉が彼に届いた手応えはなく、そのこわばった表情一つ変えることができなかった。時間がなくなり乙女はむなしく森に戻った。そして悟った。死に絶えた言葉しか語れぬ以上、いかに一人でがんばってもなに一つ伝わりはしないのだと。言葉そのものが無力な状況下では、聞く側に真意を汲み取ろうとする意思がなければどうにもなりはしないのだと。


 ならば、自分が相手のいうことやすることの意味を汲み取る側にまわるしかない。そう決心して森を出た乙女の前に彼はいた。潅木の下をなにやら必死に探しているようだった。少し離れていた所で自分が見ていることにさえ気づかなかったほど夢中で。
 そして自分を見たその赤い目の隠しようもない怯えにもかかわらず、彼はひどく切羽つまった様子でなにごとかを叫び、自分に手にした草の葉を突きつけたのだった。

 とにかく相手の怯えをなんとかしたかった。あるいは相手と同じ事をすれば自分に害意がないことだけでも伝わらないだろうかと思い、ひたすら同じ形の葉を集めてみた。だが、それはむしろ相手を混乱させたようだった。落胆を覚えながらも、集めた葉を置いてみた。少なくともその葉が重要なものだったのは間違いでなかったらしく、相手はそれを掴むやいなや村のほうへと戻っていった。
 後を追うべきかしばし迷った。かえって怯えさせることになるのではとも思った。けれど、あの葉をなぜあれほど必死に集めていたのかを知りたい気持ちが抑えられず、結局ついていくことにした。


 白き青年はやはり怯えを見せた。だが、どういうつもりだったのか、これ見よがしに窓を開け放ったのだった。そこには黒い髪の少年が横たわっていた。彼が昨日感じた気配のうちの一方の主だったことを乙女は悟った。

 少年の纏う生命の光はひどくかすれ、弱まっていた。しかも、その顔に見覚えがあった。1年前、あの少女から伝えられた記憶の中に彼はいた。少女の胸を射抜いた少年に追いすがろうとした人面の魔獣を、しかし少女は呼び止めた。村へ逃げ戻ろうとする少年を追わせれば魔物たちは村へ暴れ込んで全滅させてしまう。それだけは避けようと少女が魔獣を呼び戻したために、あのとき少年も村も破滅を免れたのだった。

 記憶の中の姿よりいくらか大きくなっていたが、今や明らかに死にかけている少年に、青年は集めた葉を煮立てたりすり潰したりして作ったものを飲ませたり塗りつけたりした。そして一心に寄り添い消えかけた灯火のような命を守ろうとしていた。

 人間たちが集まって暮らすものであることを、乙女はもう長い間自らの目で見た憶えがなかった。森が近づくと人々は村や街を捨て、乙女が訪れたときは廃墟と化しているのが常だったから。人のいた僅かな気配も荒廃の訪れとともにたちまち霧散し、緑の闇の底でただ枯骨のような姿に朽ち果てるばかりだったから。

 けれど少女はその記憶を通じ、城塞都市に集い魔物との過酷な戦いの中で助け合って生きる仲間たちのイメージを伝えていた。そして、いま眼前に繰り広げられている光景も仲間の命を守ろうとする営みに他ならなかった。だから、ああ、そうだったのだと乙女は思った。人として生きるというのはこういうことだったのだ、と。

 そしてあの少女は、吸血鬼と化したことで仲間たちから切り離され、人として生きることができなくなった苦しみにぼろぼろに擦り切れていたのだった。記憶をなくした自分がからくも免れていたものがどんなものだったのか、それを知ったことで喪われたものの大きさがかえって身に迫ってきた。孤独の虚無にあれほど怯えた理由ももはや明らかだった。

 乙女は悟った。人間として生きたいとの願いは、孤独の中では決してかないはしないのだと。自分は少女との出会いによって、そのことに薄々気づいていたのだと。
 そして悟った。だからこそ願いはよりかきたてられ、胸の奥を苛んでいたのだと。

 こんな身に堕ちた自分が人間とあんなふうに寄り添っていけるはずがない。眼前の光景に感じたその思いは、だが憧れと羨望をかえってかきたてた。それらの思いがせめぎあう中、白き青年がついに手を止めた。見ると少年の生命の光は、弱々しいながらも安定を取り戻していた。そしてへたりこんだ青年がこちらを見た。窓から見ていた自分のことなど今まで忘れていたような、そんな驚きの表情が浮かんだ。
 受け入れてもらえるはずがない! その思いが渦巻く憧れを、羨望を圧倒した。


 もう戻らねばならない時だった。窓を離れ板の橋を渡る間も、いいようのない寂寥が心を吹き過ぎた。でも受け入れなければ、身をゆだねなければと思った。始めから無理なことを望んでいたことがこれほど明らかになったのだから、と。

 だから背後で青年の声がしたとき、乙女は自分の耳を疑った。願いのあまり幻聴を感じたのだろうか。振り返ろうとする動作が閉ざされた窓を見るだけではとの怯えに軋んだ。そんな彼女を、しかし白き青年はまっすぐ見つめていた。その赤い瞳にはもはや恐怖の影はなく、なにか決意とさえいえそうなものが込められていた。そして大きく息をした。なにかをいおうとしていた。彼自身の明確な意思で。

 彼女は悟った。自分のしてきたことに対する結果がいまここに出ようとしていると。瞬間が永遠と化し、期待と怖れに引き裂かれそうな魂を抱えた我が身が知らず祈りの形に手を組んだ。


 青年の手が彼自身を指した。そして、彼はたった一つの言葉を発した。

「ミラン」と。


 明らかに名乗りだとわかった。白き青年の名に違いなかった。彼は言葉の通じぬ相手に対し、少なくとも恐れていないことを、そして信頼していることを伝えようと、人外の自分にあえて己の名を教えたのだと悟られた。それは呪わしい肉体に囚われた魂への呼びかけだった。そうと認識していなければできるはずのない行いだった。そしてたった一つのその言葉は呪われた牢獄の壁を越え、死にかけていた心に確かに届いたのだった。

 名前にすぎぬその一言が奇跡をもたらす呪文と化した。全てのくびきがたちまち解かれ、魂は白い霊光の中に飛翔した。そして歓喜の光に包まれて、魂が一瞬姿を変えた。いまだ憂いの影一つなかったはるか昔の無垢なる姿へと。そして名を、呪文のごとき言葉を呼び交わした。

 だが白い手がこちらを指差すのを緑の瞳は捉え、聞こえた耳なれぬ言葉の意味が悟られた。名を問われたと。あなたは誰か、何者なのかと問われたと。幻はたちまち消えうせて、かつて魂を呪縛した問いが惨めな現実を突きつけた。自分には答えるべき名前がないことを。長い時の流砂の彼方に、誰の手も届かぬところに埋もれ、取り戻すすべもないことを。

 気がつけば、あたりはもとの沼だった。
 魂も肉体の牢獄に囚われたままだった。
 天空の彼方に去った光を見上げる瞳に涙があふれた。


 だが、その瞳がミランの姿を、たじろぐ様子を捉えた。自分の嘆きが彼を混乱させていると悟ったとたん、胸の奥から湧き上がった思いが悲しみを退けた。呼びかけることで、彼は自分を解き放ってくれた。たとえ瞬時のことであれ、それは自分一人では不可能なことだった。そして、いまや彼は自分の様子にあれほど心を動かしている。

 もう一人ではないという思いが、湧き上がる感謝が悲しみの影を払い、乙女は白き青年に微笑みかけた。そして、万感の思いを込めてもう一度、その名を呼んだのだった。

 ミラン、と。


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 あれからもう数え切れないほど、乙女は闇の中でその名を繰り返していた。呼ぶごとに自分の中になにか暖かい、それでいて力強いものが満たされる思いだった。あの一瞬の光に包まれた感じとどこか似ていた。受け入れられた存在が、ゆっくりと新しい姿に変容しつつある、それはそんな感触だった。

 そして、一つの願いが、希望が芽生えていた。

 彼に名前を呼ばれたいという願いが。
 新たな名を与えられたいという願いが。

 その時、なにかが決定的に変わるに違いないという希望が。

 青年の名を繰り返しつつ夜を待ち焦がれる乙女の中でそれらはますます膨れ上がり、しだいに確信めいたものへと形を変えゆくばかりだった。


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