転換点の交響曲 「宗教改革」小論 後編(MUSE2018年3月号)

 メンデルスゾーンはこの交響曲「宗教改革」を書いた時期に、その後の彼の創作を考える上で注目すべき活動を見せています。一つはバッハの「マタイ受難曲」の蘇演。もう一つが幼い頃から親交のあったゲーテのバラードに基づく「最初のワルプルギスの夜」の作曲です。
 メンデルスゾーンの時代、バッハは完全に時代遅れの作曲家とみなされ「マタイ受難曲」も顧みる人はいないまま長く埋もれていた状態だったようですが、メンデルスゾーンはこの曲の蘇演を慈善演奏会として企画することで実現させ、後のバッハ復興の嚆矢となる大きな成功をもたらしたのでした。それは1829年のことでしたが「宗教改革」はその年の末に着手されており、「マタイ」蘇演の成功が作曲の大きなきっかけでもあったことを窺わせています。そして6月の宗教改革記念式典に採用されなかった同じ1830年の10月に「最初のワルプルギスの夜」の作曲が始められ、1832年には完成されたもののジンクアカデミーに応募の件を優先させたためかその年のうちは初演されず、翌年になってから同じジンクアカデミーにて初演されているのです。
 ゲーテがこのバラードを書いたのは1799年のことですが、その内容が新興のキリスト教徒に追われゆく土着のドルイド教徒たちが最後の隠れ家となった岩山を守るべく、悪魔の宴の怪異に見せかけることで敵を恐れさせ近づけまいとした姿を描くものであることを思えば、最初の打撃を受けたメンデルスゾーンがその直後に着手し、完成させたものの応募の前には初演せず、第二の痛手を受けた翌年に舞台となったジンクアカデミーで初演という経緯にも、彼の胸中を想わずにいられぬものがあります。そしてこの曲の次に彼が書いた交響曲がベートーヴェンの「合唱」よりはるかに声楽の占める比重が高いものになったことやその交響曲2番「賛歌」がグーテンベルクの印刷技術発明四百周年記念式典のために書かれたものでありながら、内容はルターによるドイツ語版聖書の詩句に基づく神を讃える歌というまるで「宗教改革」の捲土重来をもくろんだかのようなものになっていることを考え合わせると「宗教改革」と「最初のワルプルギスの夜」の2曲がここで合流しているのを目の当たりにするような感慨を覚えずにいられないのです。
 それにしても器楽のみの3つの楽章と声楽付きの終楽章という「合唱」の二番煎じめいて受け取られそうなこの2番。終楽章は器楽のみの3曲からなる第1部よりもはるかに長くなっており、むしろこの曲がマーラーの交響曲8番の雛形だとみなしたほうがいいのではとさえ思うほどです。その一方で古典的な4楽章制の器楽交響曲は「宗教改革」「イタリア」が改訂を経つつも生前は出版されず、長い歳月を経た第3番「スコットランド」の完成も「賛歌」より遅れることになったわけで、ワーグナー以来延々といわれ続けてきたメンデルスゾーンは音楽の発展に全く寄与せず古い規範に安住した保守的な音楽家などという言説の浅はかさに嘆ずるばかりです。

 そしてこれら3曲の改訂のプロセスは、たとえばシベリウスが5番で見せたような改訂とはずいぶん対照的です。シベリウスは当時フィンランド政府からそれまでの功績に対し年金をもらえる身となっており、実家が銀行だったメンデルスゾーンと同様経済的には安定していました。彼らの改訂は生活のために書きまくり売りまくらなくてよい身の上だからこそ可能という点で共通していたのです。けれど録音で追えるようになった両者の改訂作業は正反対としか見えぬ方向性のものでした。
 シベリウスの5番の改訂は元来4楽章として発想されたものが3楽章に圧縮されるプロセスを見せており、彼はその作業を通じ伝統的な形式からより自由になろうとしています。すでに3番で手がけたことのある3楽章制をさらに独自性の強い形に錬磨することが目指されているのがうかがえます。それに対しメンデルスゾーンの場合、発想したときのアイデアを切り捨ててゆくことでより伝統的な形へと回帰してゆく方向性の作業に見えてしかたがありません。しかも5番でのシベリウスのようなペースでそれを完遂することができず3曲のうち2曲まで出版しなかったことを思えば、そこに葛藤の影を感じないわけにいかないのです。より自由たらんとするベクトルとそれを否定する呪縛めいたものとの容易ならざる戦いを。
「宗教改革」をめぐる一連の出来事は、交響曲作家としての彼に自己否定の呪いをもたらしたような気がしてなりません。そして「最初のワルプルギスの夜」から交響曲2番「賛歌」への流れが「パウロ」「エリヤ」そして未完に終わった「キリスト」のオラトリオ3部作に受け継がれたとき、メンデルスゾーンは交響曲というものを自分の中でどう位置づけるべきかを見失ってしまい、再び見つけ直すよりも早く心身をすり減らした果ての短い生涯を閉じてしまったのではないかとも。それを思うと最後の交響曲となった交響曲3番「スコットランド」はどこへゆこうとしていたのか。それがまがりなりにも出版された曲だからこそ、その先に彼には新たな道が見えかけていたのかもしれないと思うと無念で無念でならないのです。まこと「宗教改革」こそは彼メンデルスゾーンの運命を変えた1曲だったと聴けば聴くほど、知れば知るほど思いがつのるばかりです。

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