『夜想曲』『ボレロ』雑感(MUSE2022年8月号)

 今回はドビュッシーの『夜想曲』とラヴェルの『ボレロ』についての雑感めいたお話です。
 ドビュッシーの管弦楽の中でも、それぞれ3つの曲を組み合わせた『夜想曲』と『海』は代表作と目されていますが、特に後者は交響組曲と呼ばれることも多く、作者自身がはっきり交響曲と呼ぶ曲種を残さなかったドビュッシーの管弦楽分野において最も交響曲に近づいた曲とみなされているように思います。それに対し『海』に先立つ『夜想曲』の場合、曲自体に交響曲的な要素がより希薄なせいか、演奏サイドで外から形を固めることで過度に形式感をもたらす傾向があるように感じるのです。
 この曲は純器楽である『海』とは異なり3曲目の『シレーヌ』において女声合唱による歌詞を持たぬヴォカリーズが加わるのが最大の特徴ですが、ドビュッシーの最初の発想ではこれは弦楽、管楽、声楽による3つの曲からなる組曲として着想されたともいわれており、その痕跡が完成した作品に留められているともみなせるようです。早い段階で放棄されたとはいえ、それだけ編成が異なる3つの曲をドビュッシーがどう纏めるつもりだったのか、演奏陣としては想像をかきたてられるせいもあるのか、この曲に堅固な形式をついつい当てはめる誘惑にかられる面もあるのかもしれません。
 僕がこの『夜想曲』の解釈において最も引っかかるのは、両端に配された『雲』と『シレーヌ』のテンポ感を極力近づけることで全3曲にあたかも3部形式めいたものとして演奏するケースが多すぎることです。特にクラシック音楽の分野において、より遅いテンポが好まれる傾向が1つの極点に達した70年代に、この解釈はこの曲におけるスタンダードの位置を占めてしまったのが残念でなりません。
 そのことはその70年代において3部形式派に反旗を翻し続けた最後の演奏として記憶されるべきマルティノン/フランス国立放送OによるEMI盤を聴けば一目(一耳?)瞭然です。オーケストレーションこそ異なるものの『雲』に合わせて過度に遅く演奏されたせいで水の流れの流動性を削がれてしまった3部形式派の演奏に比べ、第1曲『雲』よりは速く第2曲『祭り』よりは遅く設定されたマルティノンの解釈はこれら3曲それぞれの特徴を最大限に描き出すと共に、その充足感でこれこそ組曲全体のあるべき姿と得心させるだけの説得力も感じさせてくれるのです。風の弱い空、祭りの喧噪に揺れる地、波立ち渦巻く海のいわば世界の3つの相をドビュッシーが弦楽、管楽、声楽の3曲を着想した時にすでにイメージしていたのかは永遠の謎のようですが、彼マルティノンは少なくともこの3曲に、堅固な形式に頼らなくてすむ絶妙なバランスをもたらすことに成功していると僕は信じるのです。

 そんなドビュッシーとほぼ同時代人ながら、類似点よりむしろ対照的な存在だったゆえに引き合いに出されることの多かったのがラヴェルですが、ファンタジーの流転をなにより尊んだ前者に対し、ラヴェルの音楽は自身のファンタジーに明晰かつ堅固な形式という殻を被せることを好みました。また作曲の才に比してピアノ演奏や指揮の腕前はさほどではなかったらしいラヴェルは、どうも演奏しないとつかの間ですらこの世に存在しえない音楽それ自体にも、なにか思うところがあったのではないか。そんなことを聴くたびに思わせられてしまうのが代表作たる『ボレロ』です。
 なにしろラヴェル自身が残した数少ないSP録音の僅かな曲の1つにこれが含まれている時点で、単に作者自身だけでなく当時の人々にも代表作と目されていたことは確実なわけですが、この演奏、普通の意味では名演奏とは呼び難いものです。テクニシャンとはお世辞にもいえないラヴェルが、規律を軽視しがちで有名だった往時のフランスの楽団を振るわけですから、音量が増大しオーケストレーションが移ろう音楽を一定のテンポを堅持することで外から締め上げるというコンセプトそのものさえこの自演盤では成立していないのですから。むしろこの演奏はだからこそ、この曲に秘められていたかもしれぬ演奏という行為への悪意めいた皮肉の源泉を傍証するものとして後世に遺されたのかもしれないとさえ思ってしまうほどなのです。
 取り直しや編集でいくらでもミスのない完璧な演奏を作れてしまうレコード録音では窺い知れないこの曲最大かもしれない特徴が、実演ではノーミスを貫き通すのが難しいらしいこと。相当な腕前の組み合わせでも、延々と不変のテンポで何回繰り返したか分からなくなる中で僅かずつ音量を増大させつつ各楽器が入れ替わり立ち替わり出入りするというのは、端から見ればラヴェルが自分でできもしない苦行をオーケストラに強いているとしかいいようのないことで、こうすれば自分にもオケにも予想もつかない時にほころびが出てくると確信していたに違いないとさえ感じるのです。そして僕が耳にした実演のいずれもが、どこで生じたかはバラバラながら必ずどこかにミスが生じていて、それがまるで巨大で精密な機械のどこかでネジが飛んだかなにかしたようなハプニングとして感じられ、時にはそれがさらなるミスを呼びつつ破滅的崩壊のコーダへなだれ込んでゆく。それらがそのきっかけとさえ感じられる一種の現象としての説得力ゆえ僕はそのとき、この音楽は演奏中にミスが生じることも織り込んだ上で書かれたのではないか、ならばこれは演奏が下手だからこそ発想しえた曲だったと同時に、後の現代音楽における偶然性追求の試みの最も早い一例だったのではとも思うようになったのです。

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