『隻眼の邪法師』 第12章の11

<第12章:修羅の洞窟 その11>

「これでは無理じゃ。危険すぎる。引き返すぞグロスどの」

 狭い通路で思わず立ち尽くしたグロスだったが、背後から囁くアルバの言葉は一応意識されてこそいたものの、奇妙なほど心に響いてこなかった。ともすれば夢の中での声のごとく素通りしてゆく心地さえしていた。そんな様子を感じ取ったのか、老いたる修道士は焦りもあらわに急かしてきた。

「時間がないというたじゃろう! これ以上ここには……」

 だしぬけに途切れた言葉と入れ代わるように、弱々しい赤子の幻聴めいた泣き声が聞こえてきた。かすかな上に朧げな、方角も掴み難いその声に、アルバもまた呪縛されたかのように沈黙したが、もはやそんなことにグロスの意識は向いていなかった。その泣き声に滲む言葉なき訴えが、飢餓感としかいいようのないものが彼の知覚を鷲掴みしていた。その爪からなにかが染みるような感触とともに、現実味が薄れ始めた。背後の修道士の声が言葉の形を成さなくなった。

 白衣の神官は気づけなかった。自分が歩き出したことにさえ。光量を抑えた明かりの魔法の頼りない灯火にそのほとんどを闇に溶け込ませたまま、石の巨人のかがんだ姿が大きさと角度を変え始めた。視野の中でじわじわ膨らむその姿に、だがグロスは恐怖を覚えなかった。それが背中を向けているからというより、自分が危険に向けて歩を進めているという実感を感じられなくなっていた。地獄の怪物の顎のごとき空の牢屋の列の狭間にいることはからくも意識してはいたが、それも薄れゆく夢も同然の状態で、まるで他人事のようだった。そして巨人の背後の倒れた鉄格子を踏んだ瞬間、破られた牢獄の奥から響く頑是ない泣き声がついに最後の知覚を奪った。

 もはや彼にはなにも見えず、なにも聞こえていなかった。ただ心だけが感じていた。言葉なき訴えを。それがなにかもわからないのに、叶えねばとの思いに心乱す哀訴を。焦りともどかしさに突き動かされ、歩き方さえ忘れたもののごとく、グロスは手足を泳がせた。とたんに顔へ痛打を食らい、魂が叩き戻された。

 顔が岩肌にめり込んでいた。痛む鼻をさすりながら、グロスは再度の呪文を唱えた。おぼろな明かりが照らしたものに彼は目を見開いた。

 目の前は平らな石壁だった。そこに顔から突っ込んだのだ。そしていまや足元から、あの泣き声が、まごうことなき赤子の声が漏れ聞こえているのだった。床に向いた視界の端が鈍く光るものを捉えた。壁の右の隅っこに太い鎖の切れ端が見えた。腹這いになったグロスはようやく、石の壁が巨大な落とし戸であることを悟った。隅に鎖が挟まって床との間に隙間ができていたのだ。

 隙間があまりに細すぎて向こう側は窺えなかった。そしてあの泣き声もいつの間にかやんでいた。異様な沈黙が、その場を支配した。耐えきれなくなった神官は、おずおずと声をかけた。

「おるのか? ……そこに、おるのか?」

 たちまち鎖の音が疾り、柔らかいものがぶつかる気配がした。続いて爪らしきものが岩を引っ掻く、がりがりという音……。

 気が遠くなりかけた身を引きずり起こされ、蒼白の顔をグロスは見た。鏡と錯覚しかけた耳に押し殺した声が届いたが、それはあまりにも掠れていた。アルバの声と思えぬほどだった。

「しっかりするのじゃ! ここにおるのはそんなものではない。あなたが思っておるようなものはおりはせん。ほれ、入り口にもおったじゃろう。顔だけ人間めいた化け物どもが。だから」

 なおもいい募ろうとする老修道士を、わななく声が遮った。

「……老師よすまぬ。だが、おわかりであろう」

 矛盾した感情に軋む、自分のものとは信じられぬ声だった。

「ここにおるのは亡者なのだ。イルの村で見たではないか。鎖を付けたまま放たれ村々を襲った犠牲者を。この洞窟の悪魔めは、こんな赤子まで亡者にしたのだ。岩に、岩の中に押し込めて! ああ! なんという……っ」

 渦巻く恐れや嫌悪を突き上げたものが圧倒したとたん、熱い、ぬらりとしたものが頬を伝った。彼は悟った。内なる傷が、魂の奥底に刻みこまれた癒えぬ古傷が血を吹きつつ口を開け、恐れ、願い、乞い続けたものが暴かれたのを。かつてアラードに聞いた恐ろしい真相。自分が逃げたばかりに岩の中に閉じ込められ、生きたままじわじわと吸血鬼と化していったラルダ。激しい悔恨に突き動かされ、グロスはアルバに縋りついた。恐怖を圧したその感情がなんであるかさえ、自覚しきれぬままに。

「聞いたであろうあの声を。この子は助けを求めておるのだ! たとえ、たとえ血に渇いてのことであれ、それがこの子の罪なのか? ゆけぬ、見捨ててなどゆけはせぬ! 断じて、断じてこのままになどっ」

「わしらになにができるというのじゃ! こんな岩を破れとでもいうのか。いいかげん目を覚まされよ!」

 アルバの一喝に呆然とその顔を見返すグロスだったが、やがてその場に膝を屈し顔を覆った。心の奥底に秘められた思いが抉り出され、痛切きわまりない呻きと化した。

「なぜ私は、かくも無力なのか。いつも、いつも……っ」

 そのとき両の肩に手が置かれた。おずおずと上を向いた視線がアルバの顔を捉えた。深い共感のこもった声で老いたる修道士が語りかけてきた。

「……しっかりされよ。あなたには、いや、わしらにはなすべきことがあるはずじゃ。こんな非道をもはや続けさせてはならぬ。そうじゃろう?」

 立ち上がるアルバを、古武士のごときその姿に満ちる決意を、白衣の神官は仰ぎ見た。

「かくも無慈悲な所業により忌むべき禁術を編み、邪悪な我欲を満たさんとする邪法の徒。あの水源の村ごと焼き払われた人々がいかなるものへ貶められたかを知ったからには、ラーダの教えを奉ずる者はこの地の禍根を断つ責務を負う。立たれよ!」

 その一喝にグロスは身を震わせた。混迷渦巻く己が心に激震が走ったのを覚えて。

「わしらも破邪の教えに帰依した身。いかに恐るべき敵であれ、臆せず臨めば神のご加護もあろう。聖なる勤めを果たせてこそ、この岩戸を開くすべも見いだせるというもの。この子のためにも今はゆくべき道へ戻られよ!」

「……この子のために。老師よ、私は愚かだった……」

 グロスもまた立ち上がりつつ応じた。鼓舞された心が両足に、全身に新たな力を満たすのを覚えつつ。

「私はいつもこうだった。心深く焼き付けられた吸血鬼の恐怖に臆し、己が罪の重さに喘ぐあまり、いつしか道理を見失いかけていたのだ。だが、いまこそ私も心から思う。この子をこんな身に堕とした非道こそまず断たねばならぬと。導きに感謝する!」

 再び響く幻聴めいた泣き声に、もはやグロスは迷わなかった。かき立てられる哀れみを非道への怒りに変え、破邪の使徒たちは地獄の獄舎から十字路に戻り、そのままゆくべき道へと駆け込んだ。邪悪な魔道師よいずこと気がはやるあまり、目印を刻むのを忘れたことにさえ気づくことのないままに。

 けれど彼らは知りえなかった。想像さえもできなかった。その邪法師の正体はおろか、どこでどうしているかすら。


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「……これは、全身の血を、一気に転じる、ための呪文。だが、肝心の、不死の秘密、見いだせぬ。だから未だ、発動もできぬ、断片の、まま……」

 わざと絶え絶えの声で告げた言葉に、茶色の髪の男は得心したように頷いた。

「そんなことだろうと思った。もし完成しておったなら、貴様がそんな身のままでいるはずがないからな。では始めろ。少しずつ区切りながら唱えるのだぞ。こちらは書き写さなければならぬのだからな」

「……いわれるまでも、ない。あんな、長いもの、もう、一息になど……っ」

 この血で購われた秘術を奪わんとする相手の慢心を心中密かに嘲りつつ、いざ唱えようとしたその瞬間、まさにその心の中へとじかに届く言葉なき哀訴の声!


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