『狭間の沼地にて』 第9章

<第9章:月下の丘>

 ミランが沼地を抜けると背後から光がさしてきた。振り返ると東の大地に横たわる低い山の稜線の向こうから、驚くほど大きな満月が顔を出したところだった。闇夜だった昨晩とはまるで異なる冴えた白い光に照らされて、荒野もまたその様相を大きく変えていた。白き青年の赤い瞳をも月の光は苛まず、ゆるやかにうねる荒野の地形を淡く浮かび上がらせているのだった。

 ミランの視力では西の地平線に横たわるはずの闇の森の梢までは見分けることができなかった。しかし彼が荒野に足を踏み出したとたん、遥かな風が白い髪をなびかせた。姫もまた森を出たとミランは直感した。彼女が村へ近づかないよう、どこか目立つ場所で出迎えようと見回した白き青年の赤い目が、荒野を少し進んだ先の小高い丘を捉えた。


 丘に登ったミランの眼前には、さやけき月光にまどろむような夢幻的な光景が広がっていた。

 背後から低くさし込む淡い銀光のもと、昼の世界を彩る鮮麗な色彩はいっさい影を潜めていた。しかし、黒一色と見えた大地が実は精妙な影の濃淡に彩られていることが、夜空を満たした月光の下でほの見えた。ミラン自身が立つ丘の影は西に向けて大きな弧を描き、点在する岩や潅木もまた様々な形をした影を薄墨色の大地に投げかけているのだった。

 それら大小の影が伸びる先に、星のような光が一つ灯った。

 森に向けて伸びた影の橋にそって、まっすぐ近づいてきた。

 声を出す必要も、ことさら身振りで示す機会さえないままに、光はうねる髪持つ乙女の丈高き姿に変じた。登りゆく満月の光を正面から受けた白い顔がミランを見上げ、昨夜の別れ際と同じくほほ笑みかけた。ミランは息をのんだ。それほど美わしい姿だった。

 豊かな髪に散らされた月の光は金色のオーラのようにその姿を包み、闇の中で燐光を帯びていた瞳は緑の宝石さながらにきらめいた。墨を流したような大地の中、鮮やかな色彩をまとった乙女の姿は輝くようだった。色合いを変えた月光のオーラの中、その姿は陽光に包まれているようにさえ見えた。一瞬、ミランは遠い過去の世界を幻視したような錯覚を覚えた。

 だがミランを引きつけたのは、その笑みが示すものだった。

 昨夜荒野で出会ったときの思い詰めたこわばった顔と同じとは思えぬほど、そのほほ笑みは印象を一変させていた。そしてそれはバドルが村長に呼ばれたあの朝かいま見せたものに似ていた。ガドルがよく見せていた笑みにも似ていた。それは開かれた心を証しだてる笑みだった。

 けれど彼らには、彼女の笑みを彩るこの喜悦の光はなかった。閉ざされ続けていた心が解き放たれたときの、死にかけていた魂が息吹を取り戻したときの、あの忘れようのない歓喜。それが内なる柔らかな光となって、乙女のかんばせを照らしているのだった。それは淡い金色の光に混じりあい、取り戻された存在を祝福するかのようにさざめいていた。

 その意味するものがミランにはわかった。母親にさえ忌まれるばかりだった我が身ゆえ、引きつけられたのだと改めて感じた。かつて自分をとらわれなく見つめてくれたまなざしが、まっすぐ呼びかけてくれた声が、見捨てられ、ひからびかけていた魂に息を吹き込んでくれたとき、心を包んだのはこの光だった。そして薬を受け取ると逃げるように去っていく村人たちと違い、彼女はあのとき自分がガドルに向けたのと同じ喜びと感謝のまなざしで自分にほほ笑みかけているのだった。

 自分が存在する意味を初めて実感できた気がした。昨夜あの動揺のさなかにも心のどこかで感じていたものが確信を伴い戻ってきた。かつて受け入れられることで生きかえることができた自分が、いまここで別の誰かを同じように救うことができたのだと。その思いは二重の、そして無上の喜びを彼にもたらした。

 そのとき、乙女の白い手が彼を指し示した。緑の瞳はかすかにうるみ、抜けるような頬さえもほのかに上気したように見えた。そして赤い唇が、昨夜よりずっとなめらかに彼の名を紡いだ。

「ミラン……」

 そんなふうに名を呼ばれたことがなかった白き青年の胸を、甘美な疼痛とでもいうほかないものが突き抜けた。その呼びかけに応えたいという思いが瞬時に像を結んだ。自分も名を呼びたい、呼び返したいという衝動に圧倒されそうになった。

 だがその瞬間、昨夜の記憶の一こまがそれを禁じた。彼女に名を問いかけたときのあの変化、至福に輝いていた顔が一瞬にして翳り、涙さえたたえたことに動揺したまま自分は彼女が去るのを呆然と見送ったのではなかったかと。

 名前に関するなんらかの思いが彼女を苦しめているらしいとは悟られたものの、どんなものかまではわからなかった。あるいは人間だったときの名前につらい記憶でもあるのだろうか。人外のものと化したわが身の現状を際立たせるばかりなのかもしれないとの想像が頭をよぎったが、もちろん確証はなかった。あれからとりとめなく考えてはいたものの、そのことにどう向き合うべきなのかについてはなんの答えも得られてはいなかった。

 そんなミランのとまどいを、乙女はわずかに首をかしげたまま見つめていた。そのことがミランにいいようのないもどかしさを痛感させた。せめて言葉が通じたら!

 すると相手の白い手がもう一度彼を指し、小さな唇がまた彼の名を呼んだ。そして今度はその手がかたわらの潅木を指し示し、その瞳が彼の口元を見つめた。

 彼女の意図をミランは察した。ものの名を知ろうと、言葉を覚えようとしている! 潅木の名を告げると彼女はそれをなんども繰り返した。根元の薬草が、そして月が、星が、はるかな天空を流れる銀河がそれに続き、やがて乙女の額の簡素な冠をはじめとする互いの身に着けたものの名にも及んだ。それらの名を二人で呼び合うごとに、別々だった世界が重なり合っていくような感覚をミランは覚えた。眩暈にも似た感動が彼を押し包んだ。そんな彼の一挙手一投足から乙女も一瞬たりとも目を離さなかった。

 だから丘の麓から自分たちを見上げる視線になど乙女は注意を払わなかったし、ミランに至ってはそんなものが存在することにさえ気づくことがなかった。


----------


 両腕に抱えた子ヤギが身じろぎして、幼い少女は我に返った。危うくバランスを崩しそうになったものの、なんとか踏みとどまることができた。

 上の二人まではいくらか距離もあったので、詳しい様子まではわからなかった。けれどとても夢中で、しかも幸せそうな様子にそれは見えた。だから邪魔をしてはいけないと幼いなりに思った。

 鳴いちゃだめよと子ヤギに囁きかけると、幼い少女はもう一度丘を仰ぎ見た。月の光をいっぱいに浴びたとても美しく、そして幸せそうな人影を目に焼き付けた。抱え上げた子ヤギの暖かさとあいまって、少女はなんだか嬉しい心持ちでその場を離れ村へと急いだ。

 村の大人たちの様子は変だった。だから番をしていた群れから子ヤギがいなくなっていることにも気づいていないようだった。この調子なら誰にも気づかれないうちに連れて帰れそうだった。叱られずにすむだろうと思った。

 けれど村の裏門のところで少女は母親に見つかった。たちまち駆け寄った母親は叫んだ。

「ラロワ! 夜は外へ出ちゃいけないって、怖いものがいるってあれほど!」

「でもこの子を探してたんだもん。怖いものだっていなかった。きれいな人を見ただけだもん!」

 自分を抱きしめた母の両腕が急にこわばったのに少女は驚き、どぎまぎしながらも懸命に訴えた。

「怖いものなんかいなかったもん。きらきらした髪の女の人と、きれいな白い男の人……」

 母があげた悲鳴に少女は言葉を失った。

「ラダン! 大変だよ、ラダン!」

 駆けつけた父や大人たちの様子がみるみる変わった。そして、怯えたラロワを連れ帰った母ミロワは寝室に閂を下ろし、娘を固く抱きしめた。だがそれはラロワを落ち着かせるどころか、その腕にこもる異様な力に母の恐怖を敏感に感じた少女をむしろ動転させたのだった。

 家の外を走る足音。あちこちで上がる叫び。自分の話が引き起こした騒動に、そしてなにか恐ろしい予感に、少女の不安はただかきたてられ、禍々しい恐怖へと形を変えるばかりだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?