何もかも憂鬱な気分にさせるのはいたも、他者と自分を比べ、自分が劣っていると感じる時である。ひしひしと感じる自分の安さ。価値の欠落。
何も出来ないと悔やんでいる自分がいるのではないだほうか?。
特に集団行動においてそれは垣間見れる。
学校生活。それは比べられることで満ちている。数学ができる出来ない。人より速く走れる。誰にも負けない音楽センスがある。
他人と比べられては、自分が虚しくなる。自分だけの何かなんてカッコつけた物はない。
才能という才能に恵まれたわけでも、努力してきたわけでもない。

ジャンプの主人公は、王になるため、家族を殺した鬼を殺すため、ヒーローになるため血の滲むような努力を行なっている。
友情、努力、勝利ー。
掲げられたのは少年の日の思い出ー。

しかし、現実にそんなものはない。バイタリティもない。せいぜい、イケメン俳優のドラマを見たり、美女のおっぱいでも見てる輩がほとんどだ。
それは、大きくなれば大きくなるほど、募っていく埃のように心を覆っていく。自分は劣等種であると。

もし、私がちょっとだけ綺麗なオムレツが作れるとして、それを特技だと言おう。この世の中にオムレツが私より綺麗にできる人が何人いるだろうか。私の存在のスペアなんてたくさんいるのだ。この世界は私が死んでしまったとしても、すぐさまスペアをはめ込んで世界を回し始める。神とは残酷だ。そもそも神様なんて存在するのかー。これは、またの機会に話そうと思う。

だが、私たちは無力感を感じているが無力ではないのだ。
無力とは、別に自分が感じるものではないのだ。あくまでも他者が私に対して感じるもののことを言う。私たちが感じるのは無力感であって無力ではない。無力と決めるのは私ではないのだ。
しかし、ここで一つ問題が発生する。それは、他者が感じると言うことだ。私たちには無力を決める立場がない。自分の価値を証明するのには必ず他者を必要とするということだ。

つまり、私たちは1人では生きていけないのだ。何かの価値を見出す時、それは他者を必要とし、他者によってのみ決められる。主観的価値観では、生産性はない。愛も愛されなくては成立しないのだ。

私達は≠と闘わなければいけない。
他観を通してのみ私は私であることを証明しているのだ。

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