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【ネタバレ注意】ゴジラ-1.0を哲学かぶれの東大文系志望浪人生が考察!!!

はじめに

 はじめまして皆さん。僕は東京大学教養学部文科一類志望の勉強しない浪人生こと霞ヶ関京と申します。
 本日(2023年11月5日)現役時代の友人2名と共に、TOHOシネマズ川崎にて、山崎貴監督の最新作映画「ゴジラ-1.0」をMX4Dで鑑賞しましたので、その内容についての感想及び考察を垂れ流したいと思います。駄文かつ冗長になると思いますが、最後まで読んで頂ければ幸いです。
 さて、東大現代文で培った僕の文才を遺憾なく発揮するとしますか。駿台名古屋校の松本孝子先生、北予備東京校の森澤友一朗先生、見てますかぁ???あと駿台お茶の水校3号館の福井伸一先生にも読まれていたら嬉しいです。

※ごめんなさいあまりにも文量が多すぎて飽きてきたので、まだ途中ですが公開しようと思います。更新をお待ち下さい

11時集合のはずなのに11時に起床したADHDです
コンサータとストラテラを早く処方して下さい担当医

1.「ゴジラ-1.0」の概要

 本作は、誰もが知る国民的映画作品「ゴジラシリーズ」の最新作。その初代作品「ゴジラ」は、終戦から10年も経っていない1954年に制作されています。

1954年公開の初代「ゴジラ」 圧倒的迫力に国民は一億総恐怖した

 そんな「ゴジラ」のことを単なる怪獣映画の嚆矢くらいにしか考えていない方々は多いと思われます。
 しかしこの作品は(少なくとも初代には)「反戦」と「反核兵器」のメッセージが込められた、極めて社会批判的な意味を孕む側面もあるのです。
 制作当時の国民の大半は、やっと平和な社会に一息つけるようになって安心していた戦争体験者たちで占められていました。しかしビキニ環礁の核実験に伴う第五福竜丸事件やソ連の核実験成功等により、市民はかつての「戦争」の暗い時代がまた戻ってくるのではないかと動揺していました。

第五福竜丸事件は冷戦の恐怖を日本国民に知らしめる
最も身近な機会となった

 国家安全保障戦略の中核手段としての「核」と、人間を傷つける毒としての「核」が、葛藤していた時代に、ゴジラはそれらを総合した「核」のメタファーとして、日本人一億人の眼前に最大の迫力を持って現れたのです。

核兵器に振り回される冷戦下の大国の狂気を
シニカル且つ滑稽に社会風刺したキューブリックの名作
「博士の異常な愛情」

 本作はそんな「初代ゴジラ」の社会批判的なメッセージ性を踏襲しつつ、「初代ゴジラ」以前の、戦争体験者たちの心がまだ癒えてすらいない終戦直後の何もかもが失われた日本にゴジラが出現し、彼らが如何にして「ゴジラ」に立ち向かっていくのかという作品です。

【警告】ネタバレ注意!


※注意:これ以降の記述は殆ど全部分が作品(前作「シン・ゴジラ」を含む)の重大なネタバレに繋がります!未鑑賞の方はブラウザバックを推奨いたします!

またこれ以降の感想及び考察につきましては、本作及び庵野秀明監督作品「シン・ゴジラ」及び山崎貴監督「永遠の0」を鑑賞した前提で語らせて頂きますので、予めご了承願います。


2.主人公 敷島浩一について

「ゴジラ-1.0」の主人公 敷島浩一海軍少尉

2-1.敷島浩一海軍少尉の出自及び軍歴

 本作の主人公である敷島少尉は、硫黄島方面への特攻任務を放棄して機体不調を装い大戸島海軍飛行場に不時着した戦闘機搭乗員です。戦時中の所属は海軍第601航空隊。推定配属先は1945年2月時点では恐らく海軍館山飛行場(現在は海上自衛隊航空部隊の基地となっています)。

某キモおたく御用達ブラウザゲーでも登場するくらい有名な航空隊

 この部隊は数ある海軍航空隊の中でも、厚木の302空や横須賀の252空等と共に東京湾及び南関東一帯の防空を担当しており(海軍航空隊は本土防空戦に於いて港湾地帯及び海軍飛行場周辺の防空を担当しておりました。殊更に東京湾は軍関係施設が非常に多く、港湾部も発達していた為に、他地域に比べて重点的に海軍戦闘機が配備されていました)、熟練搭乗員が枯渇した末期でも、信頼性の高い機体や、比較的技量の高い搭乗員が優先的に補充されていました。

政治的中枢、経済的中枢、複数の主要港や工場が軍民用共に密集する
東京湾一帯は明治時代より徹底的に要塞化されており最優先の防衛目標
多数の防空戦闘機隊や対空砲部隊が配備された

 また元々は艦上機部隊(空母に載せられる部隊)だった為に爆撃機隊や攻撃機隊も含まれており、いざ敵の機動部隊がやってきたらば、飛行場から出撃してそれに打撃を与える能力も有しておりました。

エセックス級空母に対抗すべく最新鋭の技術が盛り込まれ建造された
海軍第601航空隊の配属先航空母艦「大鳳」 期待値だけは高かった
初陣のマリアナ沖海戦で気化ガソリンが爆発しろくに活躍せず沈没した

 そんな敷島少尉、筑波海軍航空隊(この部隊は教導隊であり、学徒出陣で大量に入隊した海軍予備学生たちの主要な訓練部隊となりました)時代から彼を知っている大戸島整備分遣隊長橘少尉の話によると、技量が非常に高く、模擬空戦では負け無しだったようです。しかし実戦経験はどうも無いらしい。それならば特務士官(下士官兵からの叩き上げのベテラン、山崎貴監督の「永遠の0」の主人公の宮部久蔵みたいな人)になっているのはあり得ない。かと言って海軍兵学校出身者にしては余りにも非軍人的過ぎる。
 このことから敷島少尉は、一般学徒出身の海軍予備少尉であると思われます。
 予備士官制度というのは簡単に言うと、下級士官(少尉とか中尉とかの下っ端将校のこと、下士官とは混同しないように)の損耗率が激しく、正規ルートで確保出来る士官(海軍兵学校出身者、戦前は1期辺り200人前後の狭き門だったが、戦争末期になるにつれて定員が増え、最末期には3000名も入学者がいた。1988年の山田洋次監督の「ダウンタウン・ヒーローズ」では終戦で廃校になって行き場を失った大量の元海軍兵学校生たちが戦後の旧制松山高等学校で青春を謳歌する光景が描かれている)

山田洋次監督「ダウンタウンヒーローズ」
原作は脚本家の早坂暁氏の同名タイトルの自伝的小説
最期の旧制高校世代が貧しい戦後にバンカラを気取り青春を謳歌する

だけでは現場指揮官の定員が圧倒的に不足してしまうため、一般の高等教育機関出身者(当時は進学率が数%であり超エリート)を1年ちょっと訓練させて、即席の少尉(少尉は将校の中では一番下の階級だが、軍隊全体の中ではかなり偉い階級)にさせちゃうよ!インテリのみんな海軍に来てね〜!海軍は高学歴に優しいんだよ〜!って制度です。海軍は一般社会からは陸軍よりもスマートでカッコよく、食糧を始めとする物資も豊富なイメージがあったので、学徒出陣の際には「どうせ兵隊に取られるなら陸軍より海軍の方がマシだ!」(実際には真逆)と高学歴者からの応募者が殺到しました。ちなみに陸軍は海軍より遥かに古くから幹部候補生制度を実施して高学歴者の確保に努めていましたが、学徒出陣時の学徒たちには相手にされませんでした。

1943年10月21日に神宮外苑で行われた東京出陣学徒壮行会

 学徒出陣時には数万人の学徒が海軍に入隊したと言われています。さて海軍はこの予備士官制度で集めた若き雄たちをどうしたか?あらゆる兵科で最も戦死率が激しい航空機搭乗員にさせようとしました。
 当時海軍艦船は敗戦に次ぐ敗戦や損耗で、戦闘経験もなく同世代が戦地に行く中で呑気にキャンパスライフを謳歌していたヒヨッコに悠長に教育なんてさせてる余裕は無かったのです。それ故に艦隊勤務が出来る一般兵科の内部倍率は熾烈となりました。学徒たちは自分たちが純白の海軍の制服を着て太平洋を駆け回って大活躍する未来を期待していたのでガッカリだったでしょう。

帝国海軍将校のイメージ ガンルーム(士官室)には専用従兵までついた

 その多くは実際には僻地の飛行場に送られ、前線帰りで学徒たちに敵意剥き出しのベテラン下士官にいびられながら操縦技術を学ばされました。しかも運が悪く丁度そのくらいの時期にレイテ沖海戦にて初の神風特別攻撃隊が大戦果を上げてしまいましたから、航空兵科に回された全予備士官は、海軍上層部からは特攻要員と見做されるような状況に至りました。

特攻の生みの親(諸説あり)と言われる大西瀧治郎中将
終戦時には軍令部次長の立場におり、最期まで本土決戦を主張した
終戦直後に官舎にて自決した

 このような経緯で海軍予備士官=特攻隊員というイメージが結びつけられるようになりました。この辺は同監督の映画「永遠の0」を見た方が理解が早いと思われます。
 ちなみに陸軍も海軍に対抗して似たような航空士官即席調達制度を開始しており、そちらは「陸軍特別甲種幹部候補生制度(厳密にはその中でも特別操縦見習士官制度)」と言います(ベテランからは天ぷら少尉とバカにされていました)。陸軍の方は最末期は海軍と大して変わらぬ総特攻方針でしたが、途中まではマトモな搭乗員として養成していたので、幾分かマシではないでしょうか(それでも空対空特攻をやらせようとしましたが)。

 多数の陸軍特別操縦見習士官が配属された飛行第53戦隊(松戸飛行場)
二式複戦屠龍に派手な塗装がされているがB29の体当たり専用機
上昇力向上の為に武装は外され、複座なのに搭乗員は1人だった

 ところで彼ら「高学歴層」というのは具体的にはどこから来たのかわかりますか?東京帝大?京都帝大?東京商科大(現:一橋)?東京文理科大(現:筑波大)?いいえ違います!彼らの大半は私立文系の大学生や、旧制専門学生(或いは大学附属の文系専門部)です。
 特に早稲田、慶應、明治、中央、立教、日大、法政、國學院、同志社、立命館等の専門部を併設している都会のマンモス大学の学生が多かったと言われています。また師範学校出身者も多く見受けられる印象です。
 では東京帝大を始めとするガチインテリ層はどこへ行っていたのでしょうか?勿論ちゃんとした兵科将校になれる課程を進んだ人も大勢いましたが、大部分は陸海軍の経理将校、シンクタンク機関の研究員、高級司令部要員や、陸軍中野学校に流れてしまい、上記の方々に比べると比較的安全な戦時を過ごしました。これは若手の高級官僚なども同様で、「短期現役士官制度」等、国にとって有能な人材を殺さない為のエッジ制度は用意されておりました。この制度を使った代表者が元首相の中曽根康弘や、「官僚たちの夏」のモデルとして有名になった佐橋滋元通産省事務次官です。

短期現役士官時代の中曽根康弘海軍中尉 例に漏れず主計将校だった

 また理系に至ってはそもそも学徒出陣になっても徴兵猶予が停止されず、愛国心の強い高学歴理系人材が軍隊に志願しても、本土の工場や技術開発研究所や整備部や築城部工兵部等、適材適所が活かせる場所を中心に配備されました。戦争で最も犠牲になったのは私立文系の大学生たちです。

Twitterで一時期話題になった東京帝大の学部別戦死率
早慶文系学部の戦死率はこんなものでは済まない
いざとなりゃ割を食うのは僕たち文系だ

 これまた余談ですが、第二次世界大戦中の米海軍の戦闘機パイロットも、日本の予備士官制度や特操制度の様なものを大々的に導入しており、高学歴の大学生をパイロット候補生として大量採用して短期の訓練で少尉に任官させていました。日本軍の捕虜収容所関係の記録を読めば分かるのですが、艦上機からパラシュート脱出して日本の捕虜になったパイロットは、殆ど全てが少尉以上の階級で占められています。その多くは東海岸のアイビー・リーグ等からやってきた中間階級以上の裕福なインテリ大学生だったと言われています。

後のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュ(父)も米海軍パイロット
主に太平洋戦線で戦いアベンジャー雷撃機を操った
父島守備隊の引き起こしたヤベェ事件(小笠原事件)にニアミスする
BC級戦犯や小笠原事件(ヤベェ事件)の闇を取り扱った
柳広司のミステリー小説「トーキョー・プリズン」

 日米航空決戦は日米私文学生決戦であったと言っても過言では無いでしょう。
 さて敷島少尉は憶測の域を出ませんが、恐らくそんな私立文系出身の大学生だったのではないでしょうか。焼け跡の描写的に東京近郊の上位中産階級で生まれ育った一人っ子であると思うので、それらしきモデルケースの経歴を想定してみます。

1922年 東京市生まれ
1929年 東京市立尋常小学校尋常科 入学
1935年 東京府立第n中学校尋常科 入学
1939年 早稲田大学政経学部合格(四修) 早稲田大学第一学院(大学予科、3年制) 入学
1942年 早稲田大学政経学部本科 入学
1943年 横須賀武山海兵団入隊 海軍三等水兵
1944年 第14期飛行専修予備学生合格 大学繰り上げ卒業 筑波海軍航空隊配属→谷田部海軍航空隊→神ノ池海軍航空隊 海軍少尉任官 第601海軍航空隊配属(館山基地)
1945年 米軍第58機動部隊のジャンボリー作戦によって搭乗機が破壊され迎撃戦闘に出撃出来ず 戦況が逼迫しつつある硫黄島方面の敵艦隊に打撃を与える為に601空には特攻命令を下令され、第二御楯隊直掩隊として八丈島を経由しつつ出撃し攻撃機及び爆撃機護衛任務を全う 帰投翌日爆装零戦による特攻が再度命令され出撃するが機体不調により大戸島海軍飛行場に不時着 大戸島守備隊玉砕の混乱によって司令部に把握されず戦死扱い 海軍大尉に昇進 終戦後二等輸送艦に乗艦して本土に帰還し復員し二階級特進取り消し ポツダム進級により最終階級は海軍中尉

第二御楯隊出撃の様子
実は攻撃第一段階の零戦隊は直掩任務のみで特攻は想定されなかった
第二御楯隊の特攻を受けて撃沈された米護衛空母ビスマーク・シー

 こんな感じではないでしょうか???親から充分に愛されて育ったであろう兄弟なし(この時代一人っ子というのは相当に珍しかった)の都会っ子が、丁度戦前のモダニズム文化の全盛期に人格形成を行って、漠然としたヒューマニズムみたいたものを受容しながらそこそこ楽しく生きていたら、戦争が始まってしまった。周りに合わせて海軍に志願し、周りに合わせて飛行科を選んだ。親からの「生きて帰ってきなさい」という愛情たっぷりの手紙を心の拠り所にして、過酷な訓練の日々を耐え抜き、幸いにも搭乗員としての才能は抜群だった。しかし彼自身は本気で戦争とか家族とかに向き合っているとは言えず、ただ与えられたものに縋り、置かれた環境の中になんとなく存在しているだけ。実際の戦争も観たことがない。なんとなくそれが怖くて、でも未だに死ぬ覚悟も定まっていなくて、だからこそ1人で特攻任務を放棄してなんとなく逃げてしまった。大戸島で不時着後に橘整備班長にそれを追求されたとき、どこかバツが悪そうな顔をして、不誠実な対応によって逃れようとした。
 その時の彼は別に生に執着していたわけではないのだろう。家族を守りたかったわけでも、平和を愛していたわけでも、死にたくなかったわけでもない。ただなんとなく怖かった。そしてそんな自分とも向き合う覚悟は無かった。
 僕はそんな敷島少尉の弱さが自分の弱さと重なってとても嫌な気持ちになりました。
 そしてそれと同時に、同じく有名な学徒出身予備士官である吉田満氏の「戦艦大和丿最期」のガンルーム(正確には士官次室)でのシーンを思い出すのです。

 海軍兵学校出身士官「国の為に、君(天皇或いは各々にとっての大切な人)の為に死ぬ。それで良いじゃないか。それ以上に何が必要だというのだ」
 学徒出身士官「国の為に死ぬということ、それはわかっている。しかしそれ以上に、自分の死に果たして何の意義が、何の役割を果たしうるのか、そしてそれが世界や歴史の中でどう関連しているのか、それを知りたいんだ!」
 海軍兵学校出身士官「それは理屈だ!地に足ついていない無用の、いやむしろ有害な屁理屈だ。貴様は特攻隊の菊水のマークを付けて、天皇陛下万歳と死ねて、それで嬉しくはないのか?」
 学徒出身士官「それだけでは嫌だ。もっと何か、何か大義が必要なのだ!」
 海軍兵学校出身士官「貴様!思い上がるのもいい加減にしろ!!!大学上がりのその腐った根性!叩き直す!!!」

吉田満著「戦艦ノ最期」より(原文から相当改変)

 一言一句正確な台詞ではありませんが概ね趣旨は合っていると思います。このシーンは大変有名で、戦艦大和が天号作戦で艦隊ごと沖縄に向けて特攻出撃する前夜に、大和乗組員の下級士官たちが交わした、特攻の意義についての論争です。戦艦大和が登場する作品では必ずと言っていいほど描かれます(岡本喜八監督「激動の昭和史 沖縄決戦(1971年)」や「男たちの大和(2005年)」「日本独立(2020年)」等)

沖縄戦を描いた岡本喜八監督の名作「激動の昭和史 沖縄決戦」
「シン・ゴジラ」の監督庵野秀明もファンだという

 この世代の学徒出身予備士官たちというのは、戦前の教養主義の全盛期に人格形成期の大部分を過ごし、アメリカ流のジャズや映画に幼少期から親しみ、中学時代は吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」に感銘を受け、高校時代には毎晩の様にヴィンデルバント、リッケルト、ヘーゲル、西田幾多郎なんかを読み耽っていた世代です。

1930年代に大流行した白人ジャズの代表的奏者 ベニー・グッドマン
代表曲に「sing!sing!sing!」や「in the mood」等
京都学派は新カント学派と並び大正・昭和教養主義の中心だった
西田幾多郎著「善の研究」は旧制高校生の必読書の1つであった

 彼らは自らの人生の価値をただ国家から一方的に与えられるものとしてそれを甘受するのではなく、自ら決定付けて、そして掴み取ろうと足掻いたのです。彼らは生に対して真摯に、誠実に向き合って、そして死の恐怖を克服しようとしたのです。
 別に海軍兵学校出身の士官を悪く言いたいわけではありません。多感な思春期をも含む期間を軍国主義の渦の中心で過ごした彼らは、国家に与えられた自らの生命の価値をも内面に教条化することで、自分は国に身を捧げ、その為に散った、少なくともそれだけの価値ある人間だし、国や後世の人間はその価値を担保してくれるのだと安心することで、死への恐怖を克服しているのです。その前提が学徒に否定されることを見過ごすということは、自己否定に繋がりかねません。兵学校出身者が仮に反天皇制論者だったとしても、彼らは学徒出身士官たちを殴っていたでしょう。
 彼らの暴行を含む熾烈な対立は、直後に士官次室長の臼淵磐大尉の仲裁と助言によって止揚され、それによって戦艦大和が海上特攻に出撃する哲学的な意義が見出されます。有名な「破れて目覚めるのだ」という文言です。

臼淵大尉「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚める事が最上の道だ 日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか」

吉田満著「戦艦大和ノ最期」より
臼淵磐海軍大尉(海軍兵学校出身者)
教養深く聡明な文学青年であったそうだ

 大和の下級士官たちはこの言葉に納得し、自らの生と死の意義を確認し、その為に自分の身を捧げることを受け入れ、海上特攻に臨みました。
 大義を持って死ねた彼らは、果たして幸福であったかは分かりませんが、少なくとも不幸であったとは思わないでしょう。
 だって敷島少尉の様に、何の為に死ぬのかも、何の為に生きるのかも分からず、生を自覚出来ぬまま死んでいった特攻隊員たちの方が、多数派だったのですから。

吉田満著「戦艦大和ノ最期」
日本随一の評論家小林秀雄に勧められて戦後直ぐに出版を試みるが
GHQの言論統制で発禁となる

 ここで「永遠の0」の主人公である宮部久蔵を思い出します。10年前(小学三年生でした)に初めて劇場で見た頃は、宮部が特攻に志願した理由がどうしてもわかりませんでしたが、今なら少し理解る気がするのです。
 宮部は一貫して生に固執していました。それも敷島少尉の様に曖昧な漠然とした「なんとなくまだ生きたいな」という中途半端な感情ではなく、「なんとしてでも生き抜いてやる!」という明確な執念、強迫観念。戦時下の、それも航空兵の中では、余りにも異質でした。
 そんな彼が自ら特攻に志願した理由とは何か?日米開戦前から歴戦の航空兵として戦績を積み上げ、国土も精神も荒廃しつつある中でどうしても見つけられなかった「大義」が、宮部の中に見つかったからでは無いでしょうか。
 それまでは「家族が帰りを待っている」という消極的な理由でしか生への執念を肯定するものがなかった。しかし実のところ、自らの生と死に価値を与える「大義」が定まっていなかったからこそ、死を避けていたのではないかと思うのです。
 そして宮部が、周りの戦友や教え子たちが次から次へと死んでいくのを悲しんだのは、「人が死んだら悲しい!」みたいな安易なお気持ち表明とかではなく、「ろくに大義も見つけられないまま戦場で死んでいった彼ら」を哀れんでいたのでしょう。
 「永遠の0」のラストシーン、米空母タイコンデロガに突っ込む寸前で宮部が最期に「ニヤッ」と笑ったのも、それならば整合性が取れます。宮部は何らかの大義の為に自らの生と死を捧げることに喜びを見出したのです。
 そういう意味で大和の学徒出身士官と宮部久蔵が共通していると考えるのは、考えすぎでしょうか?
 ここに軍隊と反知性主義の関係が見出されます
 ところで敷島少尉ですが、もし本当に機体不調で、本土か三宅島や八丈島辺りの飛行場に不時着していれば、一生特攻に行かずに済んだ可能性があります。
 彼が所属した601空の戦闘機隊は、第二御楯隊が硫黄島方面に出撃して以降(敷島少尉の本来の任務)、特攻任務が命ぜられることはほぼなく、主に本土防空戦や菊水作戦(沖縄方面防衛の為の航空作戦)で特攻機を守る為の直掩機隊の任務を果たしています。
 運悪く大戸島なんかに降りなければ、ただの優秀な予備学生出身の戦闘機パイロットとして終われたのにね。

2-2.敷島少尉vs大戸島ゴジラ

 さて敷島少尉が大戸島飛行場に不時着した夜、偶然大戸島にゴジラが襲来します。
 当然のことながら敷島を含む大戸島守備隊は恐怖して為す術もなく大混乱に陥り、ろくな対処もならぬまま、ほぼ全滅します。
 恐らく守備隊側も直ちに上級司令部に緊急連絡したでしょうが、荒唐無稽過ぎて信じてもらえなかったと思います。僕が上級司令部の通信員の立場なら、大戸島守備隊が集団狂気に陥ったと判断しますもの。或いは直ぐ目の前に得体の知れないバケモンがいる恐怖でろくに内容も伝えられなかったでしょうし、1人の通信員が戦争神経症によって統合失調症にかかり発狂したと判断されたかもしれません。
 いずれにせよ後の様子からして、政府及び陸海軍がゴジラについて適切な情報を全く把握できていなかったのは言うまでもありません。当時の軍の組織系統を使えばこんな重大な事件が起これば情報収集は難なく行えます。本土決戦の動向に多大な影響を与える可能性すら存在する得体の知れない怪物を無視するなんて考えられません。故に上級司令部は大戸島守備隊が米軍上陸によって玉砕したと判断してしまったのでしょう。情報統制された国民向けの発表ではなく、大本営ですら本当にそうだと思い込んだのだと考えます。
 この頃、開戦前から日本陸海軍情報部の常套手段であった欺瞞放送の手法が連合軍情報部に分析、応用されるという形で不本意ながら輸出され、逆に日本側が彼らの欺瞞放送に踊らされてデマ情報を掴まされまくる被害が現地部隊を中心に続出していました。当然大戸島守備隊からの情報も「敵の謀略か悪戯だろう」と見過ごされてしまったのでしょう。担当者の情報参謀は当たり前のことを当たり前に処理しただけなので責められるべきではないでしょう。
 この辺の経緯は「シン・ゴジラ」で首都高羽田線にゴジラが出現した時の日本国政府首脳部の対応や態度に似ていますね。
 本題の敷島少尉vs大戸島ゴジラですが、敷島はこの事件時に飛行場に駐機されていた零戦の翼中に搭載されている20mm機関砲で、ゴジラを攻撃する機会を与えられます。しかしポンコツ弱虫の敷島くんはまたしてもここで逃げてしまいました。ゴジラに一撃も与えないまま(撃てなかったであろう理由はまた後の章で考察します)。
 敷島が零戦の搭乗席から逃げ出した後で守備隊は全滅したので、特攻から逃げた弱さすら許容した橘整備班長も、流石に今回はガチギレして敷島に当たり散らします。攻撃した上で効かなかったのならば仕方ないが、攻撃すらしない状況で逃げ出す勇気の無さは、責められて当然でしょう。ちなみに当時の大戸島にあった最大威力の火器は、見た感じ零戦の20mm機関砲か零戦胴体に括り付けられた250kg爆弾のみです。
 この20mm機関砲というのは中々優秀で、スイスのエリコン社から日本海軍がライセンス権を買い、国内生産されていました。零戦の正式採用当時、通常の航空機向け機関砲は7.7mmか12.7mmだったので、大抵の飛行機に20mm向けの防弾は想定されておらず、命中すればほぼ一撃で撃墜することが可能でした。しかも20mmには数発に一発の割合で炸裂弾が仕込んであり、命中すると信管が作動して爆発する仕組みで、撃墜に至らずとも敵機体各部に深刻なダメージを与えられました。例えるなら手榴弾が大量に高速で飛んでくるようなものです。

九九式二〇粍機銃は零戦の強さの秘訣だった

 未だ外殻も柔らかく成長していない大戸島ゴジラにこれを全弾命中させていれば、退治するのは無理にしても、撃退くらいはできていたかもしれません。
 余談ですが「シン・ゴジラ」に於ける初期ゴジラ(通称:品川くん)が品川付近で陸上自衛隊のアパッチヘリに包囲された時、周辺住民の避難が完了していなかったが為に攻撃命令が降りず、20mm機関砲での射撃を断念するシーンがありますが、監督である庵野秀明へのインタビューによれば、この時点で自衛隊がゴジラに対する射撃を行っていれば退治が行えていたようです。このことを踏まえるならば、敷島くんが勇気を出してゴジラに20mmを撃っていれば、ゴジラに対抗できていた可能性は相当高いのでは無いでしょうか。

民間人数名への跳弾を恐れて自衛隊の攻撃が躊躇われた品川くん

2-3.敷島海軍大尉からポツダム中尉への降格(復員)

 敷島は終戦後、復員船(僕の記憶が正しければまず間違いなく第一〇一型輸送艦 通称:二等輸送艦)で本土に帰還します。

第一〇一型輸送艦(二等輸送艦)
前方の格納扉を開けば積載した戦車を直接陸揚げすることが可能だった
フィリピンや硫黄島をはじめとする末期戦の島嶼輸送で大活躍した

  復員船の甲板で敷島は橘整備班長から、大戸島ゴジラ事件で全滅した整備班員たちの家族写真を渡され、「お前だけが帰りたかったんじゃない!あいつらもみんな、家族の元に生きて帰りたかったんだ!」と告げられました。
 整備兵というのは通常戦闘には参加しません。ルンガ、小禄、千鳥各飛行場の玉砕や、エンガノ岬沖海戦に於ける瑞鶴や伊勢日向の整備兵等の例外もありますが、あれは状況が状況だけに(米機動部隊を誘き寄せる目的の囮作戦であるが故に航空母艦や航空戦艦にも関わらず艦載機を全て退避させ飛行甲板上に大量の対空兵器が設置された為)除外しましょう。

エンガノ岬沖海戦で沈没寸前の空母「瑞鶴」、稀代の幸運艦である
飛行甲板上に多数の対空機関銃が設置されているのを確認できる
 捷一号作戦の囮部隊たる「小沢艦隊」の旗艦であった

 飛行兵というのは死ぬ兵科です。しかし整備兵が死ぬ兵科だとは誰も考えません。恐らく整備班員たちは命を賭けて戦うというよりは、サラリーマン的な仕事のつもりで、軍務に励んでいたわけです。当然ながら戦う役割は整備兵には全く期待されていませんし、その能力もありません。戦う役割は、あくまで「戦士」である、敷島の様な存在に求められていたのです。
 敷島は恐らく甲板上でその写真を見せられ、その事を自覚したのでしょう。バツが悪いというわけではなく、自己嫌悪のような、責任から逃れてしまいたいと逃避するような表情になります。

丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」(岩波文庫)
戦争指導者の行き当たりばったりな政策意思決定と戦後の無反省とを
「無責任の体系」だとして批判した

 しかしそんなことは言っても、もう戦争は終わっています。逃げてしまえば済む話だし、戦時中の記憶は一切合切忘れて、自分を愛してくれる家族が待っている東京のおうちで、明日から明るく幸せな日常を生きていけば良いのです!でもそうは問屋が卸しません!敷島くんはさらなる絶望へと叩きつけられることとなります。
 なんと東京の生家に戻ってみると、空襲で家は跡形もなく焼け崩れ、両親は空襲時に死亡し、唯一の知り合いは近所に住んでいた太田澄子というおばさんだけ。
 しかも彼女は戦災で未亡人となっており、戦死公報によって特攻で死んだことが近所に知られていたと思われる敷島くんを見て全てを察し、「お前のように戦わずして逃げて生き残った臆病者のせいでこの国も、私の人生も無茶苦茶だ!」と怒りをぶつけます。
 唯一の知り合いからすら拒絶された敷島は絶望のどん底へと落とされ、戦時中の自分を恥じて、後悔の念に駆られます。しかしそうは言っても戦争が既に終わってしまった今、彼に出来ることは何もありません。
 この時彼は、自分が戦時中に囚われているままであることを消極的ながら実感します。

「もしあの時特攻から逃げずに、憂国の士として華々しく散っていれば…」

という言葉が脳内を何周も反復したことでしょう。同時に

「自分は何処にも居場所がない、これから何の為に生きていけば良いのだろうか」

という、初めて「生」への意義を求める心理が芽生えたことを自覚したのです。
 この時、2つの映画作品が僕の中で想起されました。

片渕須直監督「この世界の片隅に」
広島市江波町出身の少女が軍港のある呉市の海軍一家の倅に嫁ぎ
 戦時下の「日常」を過ごしていく作品

 1つは片渕須直監督のアニメ映画「この世界の片隅に(2016年)」の終盤。米軍の原爆投下で壊滅し焦土と化した広島市内で、行方不明の家族を探し彷徨う復員兵たち。主人公のすずを見て感嘆とした表情で声を掛けたかと思えば、直ぐに人違いだと気づいて落胆し去っていきます。彼らだって内心、広島の状況を目前にして、家族が見つかることなんて期待していなかったでしょう。

原爆投下前までは栄華を極めた広島市中心部(特徴的な橋は相生橋)
日清戦争時には広島大本営が置かれ事実上の臨時首都にもなった
神戸以西最大の文教都市であり、商業都市、工業都市でもあった
第二総軍総司令部や陸軍船舶司令部も置かれ陸軍の中枢機能が集中した

 それでも彼らが家族を探し続けたのは何故でしょうか?再開の希望を捨ててしまうということは、「復員船の中で徐々に希望になりつつあった終戦」が八月十五日その日の「絶望の終戦」へと瞬時に押し戻され、その瞬間それが一気に襲い掛かることです。
 「彼らの戦争」の意義への懐疑は「戦後」の無意味化です。「戦争」という「非日常」を「非日常」と自覚した瞬間、彼らは「戦後」を「日常」として受容せざるを得ないのです。そんな無意味な「戦後」に真摯に向き合う程の勇気は、疲弊した彼らの心にはもう残っていなかったでしょう。彼らが諦められなかった理由はそこにあるのだと思います。

岡本喜八監督「激動の昭和史 沖縄決戦」(二回目)

 もう1つは先程も名前を上げた岡本喜八監督の「激動の昭和史 沖縄決戦(1971年)」の学徒隊のシーンです。
 沖縄戦では、男子中学生(師範学校や実業学校も含む)が鉄血勤皇隊として陸軍部隊に(他にも沖縄本島北部の中学校は「護郷隊」として陸軍中野学校二俣分校出身者に指揮され遊撃戦にあたっていました)、女学生(師範学校女子部も含む)がひめゆり学徒隊として日本赤十字社に動員されたことは、修学旅行の平和学習等の機会で世の中に広く知られていますが、映画で描かれるその最期は壮絶です。

鉄血勤皇隊員として沖縄戦を戦った沖縄県立第一中学校の学徒兵たち
ひめゆり学徒隊として南風原陸軍病院等で従軍看護婦業務を担った
沖縄県立第一高等女学校の女学生達。最期が自決だった者も少なくない

 沖縄の防衛を担当する日本軍(第23軍)もとうとう米軍に追い詰められ、鉄血勤皇隊に解散命令が出た時のことです。これまで死ぬ気で戦ってきた学徒たちは「今更何を言っているんだ」と軍の解散命令に怒りをあらわにします。

学徒A「軍は解散してそれで良いでしょう!しかし僕たちはっ.…」
学徒B「この沖縄は、どうなるんですか!!!」
野田校長(沖縄師範学校)「生きるんだ…自分の為にっ…生きるんだ!沖縄の為にっ…生きるんだッッ!!!」
学徒A「軍は死ねと言いましたッ!沖縄の為に死ねと言いましたッ!僕たちは本当にそう思っていたんですよ!!!」

岡本喜八監督「激動の昭和史 沖縄決戦」より

 学徒たちは純粋な心で軍に自らの運命を任せて戦ってきたのです。自分たちの戦いが故郷沖縄や家族を守る為にあり、その使命の為に命を落とすのならば本望だ!と。
 彼らが特攻隊員たちと決定的に違うのは、故郷が眼前の敵によって蹂躙され、家族が直接的な命の危険に晒されていたということです。「国の為に死ぬ」なんてバカらしいと考える特攻隊員はいたにしても、「生まれ育った故郷や家族の為に死ぬ」ことをバカらしいと考えた鉄血勤皇隊員は、1人もいなかったでしょう。
 野田校長はそんな教え子たちに「死に大義を求めるな。生に大義を持ち、これからの日々を真摯に生き抜いていくしか無いんだ」と諌めます。
 しかし野田校長の言葉は響かず(或いは跳ね除けられ)、後に学徒たちは最期の突撃を行いほぼ全滅します。解散命令が出ていましたから、彼らは逃げるなり投降するなり生きる選択は選ぼうと思えば出来たはずです。それでも彼らは沖縄を一時的にでも見放して自分だけ生き長らえようとはしなかった。
 彼らは国や軍に与られた使命としてではなく、自らの選択によって、大義に死を捧げたのです。

 これまた余談ですが、特攻隊員は戦死判定されるとほぼ例外なく二階級特進の恩恵が与えられます。というのも軍隊には恩給制度(退役軍人や戦死者遺族の年金みたいなもの)というものがあり、その支給額は軍の最終階級によって決定されるのです。

真珠湾攻撃時に九軍神と崇められ二階級特進した特殊潜航艇隊員たち
数字が「9」と中途半端なのは酒巻和男少尉のみ米軍捕虜となった為
戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」が教条化された象徴エピソード

 未来ある若者に死んでこいと命令するのですから、当然ながら遺族の生活は安泰なものにしなければなりません。その為に軍は公式戦死者に対し階級を特進させ便宜を図りました。敷島くんは当初第二御楯隊隊員として硫黄島沖の海上で華々しく散ったと思われてるので、復員時までは海軍大尉の英霊だったことでしょう。
 ちなみにそこら辺の墓地にいくと、やったらと海軍大尉〇〇や陸軍大尉〇〇と掘られた墓石を見かけますが、これは大概地元の地主が倅を大学まで行かせたけど、学徒出陣とかで軍隊に行ってしまい、陸海軍少尉として戦死してしまって二階級特進で大尉っていう例が多いです。そうでなくとも下級士官の戦死率は非常に高く、特に少尉と中尉に戦死者が集中しました。子供を大学まで行かせられる裕福な地主なのでまぁそこそこ金はあり、せめて息子を立派な墓で弔ってやろうという親心の現れですね。

こんな官製の「墓」より、大切な息子の為に作られた墓の方が
余っ程戦死者に対する愛情に満ち溢れているのである

 敷島くんは復員時に当然ながら二階級特進は取り消されたでしょう。海軍少尉に降格です。しかしながら日本は終戦時、生き残った全軍人に1階級特進の措置を講じました。所謂ポツダム進級です。やったね敷島くん!最終階級は海軍中尉!!!
 またまた余談ですが、外地に1000万人近くの軍人を送り出していた旧日本軍の復員業務は膨大で、何もかも失った終戦直後の日本にとってとんでもない負担になりました。
 日本政府は旧陸軍省を第一復員省、旧海軍を第二復員省と改変し、復員業務を軍隊組織に引き継がせることで、機能不全を回避しました。本作では第二復員省が度々登場していましたね。

2-4.敷島くんと典子の闇市での出会い

 「生」への意義が自らに無いことを自覚させられ、ただ戦時中に取り残してきた後悔ばかりが襲う敷島。そうは言っても臆病者の彼に死ぬ勇気なんて全くありません。家の跡地にバラック小屋を立て、そこら辺で日銭を稼ぎながら、闇市で食糧を購入しては呆然と放浪するその日暮らしを始めます。

東京は上野駅周辺に存在した闇市 現在のアメヤ横丁
東京では他に新宿渋谷池袋中野吉祥寺新橋秋葉原に大闇市が存在した

 当時、敷島と同じ様な状況の「"元"特攻隊員」が闇市には沢山いました。その中には敷島と同じ学徒出身予備士官も少なからずいましたが、何より多かったのはハタチ前後の予科練出身下士官たちです。

予科練の募集広告 
「若鷺の歌」で歌われる「七つ釦は桜に錨」の制服は予科練の象徴で
軍国少年たちの憧れの対象だった

 彼らの大半は旧制中学校を卒業したり中退して、戦時期に大量募集された海軍予科飛行練習生に入隊し、特攻隊員になる為の訓練を受けています。しかし予科練を出ても、大卒の学徒出身予備士官たちと違い、少尉にはなれません。飛行科の一番下っ端からのスタートです。

旧制中学は現在の難関級の国私立中高一貫校に相当する
旧学制ては目的に応じて相当細分化された教育機関が整備されていたが
国民の大多数の最終学歴は尋常小学校または高等小学校卒業程度だった

 中卒といえども戦前の旧制中等教育学校は男子進学率が10%程度しかなく、大卒や専門卒には劣るものの、国民全体の中で見ればエリートの部類でした。しかしいざ憧れた予科練に入ってみれば、飛行科の一番下として蔑まれ、海軍兵学校出身の将校には偉そうにされ、予備士官たちからは学が無いとか小馬鹿にされ、予科練の先輩でもある前線帰りの教官からは半人前のヒヨッコと呼ばれ実戦経験でマウントを取られる日々。思春期もまだ後半に突入したばかりの時期にそんなことをされては、軍隊生活の中で歪んだ価値観や劣等感を抱いても仕方がありません。
 彼らは戦記小説なんかで読んだようなエースパイロットを目指し、日頃威張っている士官どもを操縦技術で見返してやろうと頑張りますが、末期の予科練に期待されていた役割もやはり予備士官たちと同じ特攻任務。所詮は同じ穴の狢でした。
 大卒の予備士官たちと中卒の予科練たちは若干世代が違い、後者は先程も説明したように、昭和モダニズムの大興隆期に最先端の都市文化を享受していましたが(また大学が集中する大都市部は戦時に突入してもある程度戦前の娯楽が存続していたし、学生にもそういうものを享受する余裕があった)、後者は中学に入る頃にはもう日米開戦ギリギリみたいな状況で、加えて彼らは上級学校への進学率が低い地方都市出身者が多かった為に余裕がなく、下手すりゃ物心ついた頃からずっと軍国少年で願い叶って軍隊入った!みたいな方々でした。

妹尾河童の幼少期から旧制中学3年生までを綴った自叙伝「少年H」
水谷豊主演で10年くらい前に映画化もされた。
 戦時下の神戸二中(現在の兵庫県立長田高校)の様子が描かれている
愛知一中(現在の旭丘高校)の様子
私の大叔父(祖父の兄)は愛知一中卒だが普通に学徒動員されてたそうだ
玉音放送は名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊で聞いたらしい

 そんな彼らの多くは純粋にも、特攻任務を自らが国に貢献できる最大の使命として能動的に受容していきます。ある程度特攻を相対化して、シニカルな目線で見れていた「知識青年たち」とは違い、未成熟なまま軍隊に入った「軍国少年たち」にとって、その使命はとても輝いた美しい希望に見えたのでしょう。
 しかしその希望は儚いかな、日本の終戦で打ち砕かれました。
 復員した彼らは、かつて彼らを送り出した故郷の人たちからは白い目で見られ、家族からは穀潰しだと厄介者にされ(1945年はただでさえ大凶作であり食糧不足が深刻だった為)、町を歩けば顔も知らない市民から「死に損ない」と陰口を叩かれ、元飛行兵は全員戦犯にされるという根も葉もない噂に怯えながら、行くあてもなく都会の闇市に出てきたのです。その日暮らしの為に闇商人の用心棒を努めたり、闇市を取り仕切っていたヤクザの鉄砲玉になることが多く、また誰にも承認されない寂しさの憂さ晴らしで乱暴狼藉を働くことが多かったことから、彼らは「特攻崩れ」として市民から蔑まれていました。

光人社「軍隊よもやま話シリーズ」より

 軍隊の中でも、軍隊から帰ってきた後でも、彼らは誰にも受け入れてもらえなかったのです。「永遠の0」の影浦や、「仁義なき戦い」の山中、「ダウンタウンヒーローズ」の松山ナントカ組の組員たち等、終戦直後の闇市を描いた映画作品の中で、特攻崩れの存在感は大きく描かれています。
 また多くの的屋系暴力団の起源は終戦直後の闇市から始まっておりますが、的屋系暴力団の代表格である極東会が戦後に勢力を増せた理由には、特攻崩れの頭脳と度胸が背景にあったと言われています。

戦後東京の闇市で天下を誇った関東松田組
他に戦前からの愚連隊勢力や台湾朝鮮人系ギャングたちと鎬を削った

 まぁそんなわけですが両親から惜しみない愛情を注がれて育った都会育ちのお坊ちゃまで大卒エリートの敷島くんは当然、ヤクザなんて恐ろしい世界に足を踏み入れられるわけがないので、闇市を徘徊しているだけの一般男性としてしばらくの時を過ごします。
 ある日いつもの如く闇市を徘徊していたら、ヤクザに追っかけ回されている小汚い女から赤ん坊を預けられます。断ることもできないお人好しで事なかれ主義者の敷島は赤ん坊を放置することなく預かりを全うし、彼が押しに弱いことを見抜いた小汚い女はそれにつけ込み、なんと赤ん坊共々敷島のバラック小屋に居候として寄生することに成功しました!
 いやぁダメだね敷島くんは!もしこれが韓国映画なら、次から次へと居候の家族に居着かれて、しまいには家庭崩壊するよ!君にはもう家庭がないけれど。

韓国映画「パラサイト 半地下の家族」
僕はこの作品と出会ってから韓国映画にどハマリしました
ネタバレは一切したくないので取り敢えずみんな見て下さい

 この小汚い居候女の名前は典子と言います。空襲で家族全員と死別し、空襲時に死にかけの女性から赤ん坊(女児)を任せられ、以来敷島と出会うまでの間、赤ん坊を育てながらもその日暮らしで生きてきた女性だと推測できます。

東京大空襲で焼け野原となった本所地域(現在の東京都墨田区)一帯
焼け残った両国国技館らしきものが見える

 敷島くんは典子が見抜いた通り、居候たちを追い払うことはせず、苦言を呈しに来た太田澄子という近所のおばさんにも「勝手に居着いてるだけだ」と他責的な言い訳をしましたが、結果的にはなんだかんだあって一緒に住むことになりました。
 小汚さを取っ払った彼女は、育ちの良さと芯の強さが隠しきれずにあらわになっていきます。戦争で焼け出されるまではそこそこの良家の子女で、高等女学校くらいは出てたのでは無いでしょうか。
 次第に居候が定着するにつれて、典子と赤ん坊の存在は敷島にとって日常化し、近所の人々にも受け入れられ始めました。彼もこの2人が居着いていることに悪い気はしなかったのでしょう。戦争で両親を失った彼はその日暮らしをするだけで生きる目的も見つからない生きる屍でしたから、自分を必要としてくれる存在に内心飢えていたのだと思います。良かったね敷島くん。

2-5.敷島くんの生き甲斐と苦しみ

 敷島くんは居候たちを養わねばならなくなった為、職を探し始めます。
 当時の都市部は空襲で工場等が破壊されたり地方に疎開してたりして雇用の受け皿がないにも関わらず、復員兵が外地から続々と帰ってきて町中に溢れかえっていましたので、誰も彼も職を探している状態でした。

B29の空襲で大打撃を受けた三菱重工業名古屋航空機製作所大江工場
栃木県宇都宮市にある大谷石資料館
 採石場跡地だが、戦時中は軍用機の秘密地下工場として稼働していた

 そんな中で敷島は破格の高給職を見つけてきます。その内容は機雷掃海の仕事。戦時中の負の遺産を一つ一つ処理していく仕事なので多大なる危険が伴います。高給にはそれなりの理由があるのです。
 この機雷というのがなかなか厄介で、劇中でも言われていましたが、戦時中日本も米軍も日本近海にアホみたいに機雷をばら撒いていたので、戦後になっても船舶の安全な航行路を確保するのが難しかったのです。

機雷敷設艦から機雷をバラ撒く様子
機雷とは海面から数メートル下にプカプカと沈めておいて
その上に通りかかった船を何らかの方法で感知して爆発させる兵器だ

 日本の場合、本土決戦で上陸してくる連合軍の輸送船を沿岸で撃沈し、少しでも敵上陸数を減らす為に、米軍の場合、物資が枯渇する日本に外地から一切輸入出来ないよう海上封鎖する為に、それぞれ機雷を撒いていました。

機雷を投下するB29

 米軍の機雷作戦は凄まじく、主要港湾や海峡部に数千個単位で投下し、日本船舶を苦しめていました。特に瀬戸内海や関門海峡なんかは機雷まみれで、戦艦大和が海上特攻に向かった理由の1つは、このまま呉軍港で温存してても、機雷封鎖されて全く動けず使い物にならなくなるのが時間の問題だったからです。日本は掃海特務艇を大量動員し機雷処理を急がせましたが、米軍は定期的に同一地点に機雷を投下する物量作戦で来た為に、とても処理できるキャパを超え、焼け石に水でした。

日本海軍の掃海特務艇
戦艦大和は偵察機によって概ね居場所が把握されており
特攻出撃せずとも海上封鎖された挙句撃沈されるのは時間の問題だった

 これら一連の機雷による海上封鎖は「飢餓作戦」と呼称されています。これは米軍が第二次世界大戦で日本を最も苦しめ、最も成功した作戦だとすら評価されています。
 さて敷島くんは典子に「死ぬ仕事はダメよ!」と折角見つけてきた機雷処理の仕事にケチをつけられますが、適当に言いくるめて初仕事に向かいます。
 港にあったのは最新鋭の掃海艇!かと思いきや、なんと船尾に単装機関銃が1つ付いてるだけの小さな木造船。磁気感応機雷対策で金属製の船は危険であるという事情を鑑みれば、大変合理的でした。このボロ船の名前は「新生丸」と言うらしいです。

本作の主要兵器「新生丸」 ボロ船で可愛いね

 新生丸の同僚たちは変な人が多く、恐らく歴戦の小型艇乗りだと思われる秋津(艇長)、戦時中は海軍の技術開発研究所のエンジニアだった野田(学者)、軍隊に憧れていたが戦争に間に合わなかった軍国少年水島の三名がいました。
 敷島は戦闘機乗り時代に培った見越し射撃の特技を活かしたりして彼らに受け入れられていきます。
 そして機雷掃海は戦時中のゴミ掃除という汚れ仕事とはいえ、間違いなく社会に必要とされている仕事であり、敷島もその仕事にやり甲斐を感じていたので、充実した毎日を過ごします。
 こうした1年半の月日が流れると、居候たちも無理せず養えるようになり、その姿は一家の大黒柱そのもの。居候もいつの間にか家族同然の存在となりました。居場所が無かった敷島にとっての「帰って来る場所」が与えられたのです。
 また高給職なので金が貯まるのも早く、当時は高級品で庶民にはなかなか手の届かなかったオートバイを買ったり、バラック小屋を潰して立派な一軒家に新築したりと、それなりに余裕のある生活を送っています。

 ハーレーやBMWのコピー品から始まった日本オートバイク産業
写真はパチモンハーレーの「陸王」(戦前の代表的車種で陸軍にも納入)
バイクが戦後日本の主要輸出品になると誰も思わなかっただろう
戦後に出現した「カミナリ族」 暴走族の起源だと言われている
高級品だったのでブルジョワの御子息たちの優雅な御遊戯だったそう
しかし低価格化するとたちまち貧困層御用達の暇潰しと成り果てた

 良かったね敷島くん幸せな戦後を過ごせて!ハッピーエンドだったね!!!チャンチャン!

・・・とは行かないのがゴジラ映画です。ゴジラくんは一回登場したらしばらくして必ずまた現れるのが鉄則です。実はまだ書きたい内容の四分の一も書けていないのに執筆に飽きてきましたこれがADHDの悪いところですというかホンマに早く終わらせたい助けてもう文字見たくない言葉も考えたくない寝たい誰か俺の脳内を参照して代筆してくれ!!!逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ!!!
過集中魂沙汰💊ブースト🫵🤡❗大発狂モード(確変)突入❗❗
早く進撃の巨人の最終回見たいよおおお!!!東大合格したいよおおおお!!!!あああぁぁゆうううぅむてゃああん!!!ああああ!!!!チュインチュインチュイン7️⃣8️⃣7️⃣テレッテレ〜↓

 えー、実は敷島くんは幸せそうに見えてこの間、戦争神経症(ゴジラ神経症?)に苦しめられています。毎晩のように戦時中の嫌な記憶が夢に出ては発狂しています。特にゴジラで守備隊が全滅したシーンは頻繁にフラッシュバックしている模様。
 戦争神経症とは厄介なもので、出征した兵士たちが戦場での過酷な体験やトラウマによって精神を病んでしまい、断続的または恒常的なPTSDに襲われる心的外傷(精神障害)です。完全に治療するのは困難で、徐々に症状を和らげて行くという方法でしか対処することができません。
 沖縄戦や硫黄島戦では米軍兵士に戦争神経症患者が大量発生し、その多数が戦線離脱を余儀なくされました。彼らのケアにも軍はリソースを注がねばならないので、兵站に与える影響が極めて大きいのです。

 戦争神経症でイカれてしまった米軍兵士
沖縄戦シュガーローフの戦い(沖縄戦最大の激戦となった)にて

 というのも沖縄戦に於ける米軍の戦争神経症患者は比較的話題に上げられたり特筆されがちですが、戦争神経症に罹ることに肌の色も、大和魂もヤンキー魂も、魂の格も関係ありません。日本軍にも無視できない程の戦争神経症患者が発生していたのです。
 しかし日本軍の医療体制は貧弱で、主要野戦病院だった南風原陸軍病院は通常の戦傷患者の治療で常時逼迫しておりました。前線では軽症患者の治療が優先される為に(戦力復帰が早い為)診療は後回しにされ、しかも発狂して暴れたり騒ぎ出したりして負担を掛ける彼らは敵に包囲されてるせいで本土に後送するこもできません。

沖縄戦の野戦病院として稼働した南風原陸軍病院
ひめゆり学徒隊が看護隊として奉仕した

 故に部隊でも持て余され、キチガイとして無視され、脱走しても気にも止められませんでした。
 つい先日"ガチ"最終回が放送された「進撃の巨人ファイナルシーズン」でも、戦地から帰還したマーレ軍のエルディア人兵士たちが戦争神経症に悩まされている描写がありましたね(主人公エレン・イェーガーとファルコが初めて出会ったシーン)。

自分たちがこれ(巨人兵器)になる可能性を戦場で見せつけられたら
 誰だって戦争神経症になるよ

 日本軍は戦時中、国民の戦意低下を厭い、兵隊に戦争神経症患者が大量発生している事実を隠していましたが、一方で戦争神経症患者専門の陸軍病院を設置する等の措置をもって対応しました。その病院は国府台陸軍病院(現在の国立国際医療研究センター国府台病院)、そして傷痍軍人武蔵療養所と言います。我が国に於ける精神医療研究を大きく前進させました。

国府台陸軍病院の写真は見つけることができなかった
長年秘匿情報だったので研究も少なく記述量が物足りなくて申し訳無い

 戦争神経症患者が登場する映画作品は沢山ありますが、僕はそのうち3つを紹介しようと思います。
 まずクリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」。これは2007年に「硫黄島からの手紙」と同時制作された、硫黄島2部作のうちの1つです。
 「父親たちの星条旗」では米軍側の視点から、「硫黄島からの手紙」では日本軍からの視点から、硫黄島の戦いを描くことで、戦争というものは一方の国の論理だけで正当化できるものではないという批判を対比的に示しました。

2-6.進歩しない敷島くんと自立する典子

2-7.敷島浩一の憂鬱

2-8.「敷島少尉」の克服

2-9.「敷島」を何の象徴として見るべきか

2-10.敷島を演じ切った神木隆之介を称えたい

3.ヒロイン 大石典子について

3-1.典子と東京大空襲

3-2.典子と闇市

3-3.典子の主体性と自立心

3-4.典子の死生観

3-5.典子と原爆症

3-6.「典子」は何の象徴か

3-7.女たちの戦争

3-8.女たちの戦後

3-9.フェミニズム的に大石典子を評価する

4.新生丸の愉快な仲間たち

4-1.秋津淸治(艇長)

4-2.野田健治(学者)

4-3.水島四郎(軍国少年)

5.日本政府とGHQの怠慢

5-1.日本政府は占領下とはいえ何をやってるんだ

5-2.米軍はソ連を心配する前に進駐軍の機能維持を優先して考えろよ

5-3.ソ連、お前も一応進駐軍の一員なんだから協力しろよ

5-4.GHQ本部ビル(第一生命館)壊滅したけど何し天皇?

6.海神作戦について

6-1.旧海軍軍人大集結

6-2.たかが元軍人の寄せ集めに何が出来るんだ

6-3.海神作戦は本土決戦のメタファーか

6-4.戦後日本人たちはどう生きるか

6-5.旧陸軍勢力はゴジラに対して何したのか妄想

7.主役ゴジラについて

7-1.「戦争の現実」の象徴としてのゴジラ

7-2.「戦争の狂気」の象徴としてのゴジラ

7-3.「国家」(交換様式B)の象徴としてのゴジラ

7-4.「観念論的存在」としてのゴジラ

7-5.「意志を持った総体」としてのゴジラ

7-6.「ゴジラ」は共同幻想ではないか

7-7.「ゴジラ」はまたやってくる

8.終わりに

8-1.「戦中派の死生観」と「戦後人の主体性」

8-2.我々Z世代は学徒兵になれるか

8-3.我々Z世代たちはどう生きるか

8-4.神風特攻隊と東大受験と私

8-5.山崎貴監督に愛を込めて

8-6.終わりに(ガチ) YouTubeチャンネルの宣伝

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