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新しい目、新しい夢


1、右目のこと

右目、危険、衝撃

2023年5月中旬。
数ヶ月に一度の眼科の定期検査で、小さい時からお世話になっているA先生から衝撃的なことを告げられた。
「あなたの右目は、白目が一部溶けて破裂しそうになっています」
いつもは親戚のおばさんのように気さくに話すA先生。そのA先生のうろたえたような声が、事態の深刻さを物語っていた。
私はショックで血の気が引いて座っていられなくなった。

少しの間、待合室の椅子で横になって休ませてもらって、気分が落ち着いてから改めて詳しい話を聞いた。
私の右目はこの数ヶ月で状態が悪くなった可能性が高いこと、眼圧 (目の硬さの数値) が急激に上がっていること、頭をぶつけたり目を掻いたりしてしまうと衝撃で破裂する危険性があること、もともと目の作りが弱すぎて修復手術には耐えられないため衝撃とばい菌に気をつけて生活するか眼球を摘出するしかないこと、急に悪化した原因は不明であることがわかった。
付き添いで来ていた母がA先生に
「たとえば、本土の病院で最新の治療を受けることはできないですか?  治る可能性があるなら県外にも連れて行きます」
と言うと、
「それも難しいです。それに、今はちょっとした刺激で何が起こるかわからない状態なので、飛行機には乗らない方がいいです」
とA先生は答えた。
飛行機に乗れないくらい深刻な状況なのか。

まず、「白目が溶ける?  破裂?  何その病気!?」と思った。自分の肉体ながら、意味不明である。
発覚した時の自覚症状は、ものもらいのような痛痒い感じだけだったので本当に驚いた。A先生も「前回の検査では特に変わりなしだったのに」と驚いていた。
だけど思い返してみると、数ヶ月前から月に1、2回の頻度で痛み止めが効かない頭痛が起きて吐いていた。あの痛み方と頻度は今思えば異常だった。
視力が極端に悪いため子供の時から頭痛はよく起こるし、吐く頻度が増えたのは寒暖差で体調が不安定になってるのだと思っていて、そんな酷い状態になっていることには気付けなかった。
もっと早く気付いていたとしても、できることは限られていただろうけど。

ちなみに、この診断を受けた日の夜、父は高熱を出して寝込んでしまった。
「おいおい、なんで私じゃなくてお父さんが熱を出すんだよ!?」と、大変な状況なのに少し笑えた。
こういう時は、女性の方が冷静なのかもしれない。

いろんな思い

生まれてから30年、視覚障害とともに生きてきた。
私は、ピータース奇形という病気で目が正常に作られていない状態で生まれてきた。眼鏡や手術で目を良くすることはできないものの、目薬を使って病気をコントロールして左目のわずかな視力を維持してきたし、光のみを感じる右目も体の一部として存在していた。
子供の時と比べると視力は落ちたとはいえ、病気の急激な悪化を防げていただけでも恵まれていたのだと実感した。
それに、破裂しそうになっていたのは右目だったので、左目の視力は失わずに済んだ。それは不幸中の幸いだった。
そう思うしかなかった。

すぐに入院が必要になるかもしれないということで、定期検査の翌日、入院病棟担当のB先生にも診てもらった。
その日は朝から大雨で、まるで私の心を映しているような空模様だった。
B先生からは「まだそれほど痛くないのであれば、急いで摘出する必要はないのでは?」と言われた。
もしも激痛が襲ってきたら、救急外来に来るようにとも。
もう少し考えたいと思ったし、もし摘出しないで済むならそれに越したことはないので様子を見ることにした。
衝撃と雑菌に気をつければ普通に生活していいということだったので、気分転換に出かけたりもした。
だけどやっぱり目のことは気になるし、痛痒い症状はずっと続いていた。もちろん、目が脆くなっているから掻いてはいけない。
起きてる時は触らないように我慢できても、寝ている間はコントロールできない。

決断

診断から2週間が経過したある日、酷い目の痛みと吐き気が襲ってきた。痛み止めは効かず、食欲もなくなった。頭から目にかけて鉄板が刺さっているような痛みだった。
「やっぱりこの状態でずっと生きるのはつらい」と思い、摘出を決断した。
親は何度も「本当にいいの? もう少し考えてみない?」と聞いてきた。
私は、「ずっと爆弾を抱えて生きるのは嫌だ」と言った。
救急外来で眼圧を下げる飲み薬も出してもらったけど、その薬は副作用が強くて飲み続けるのは無理そうだという理由も大きかった。
最終的には親も「自然に治るわけではないし、痛みで衰弱してから手術するよりいいかもしれないね」 と言ってくれた。
片目が義眼になることについては戸惑いはあったけど、視覚障害を持つ友人には義眼を使っている人も何人かいるし、慣れれば大丈夫だと思えた。
「むしろ、見た目は両目が揃って今までよりよくなるかもしれない」と、前向きに捉えることにした。(もとの右目は、左目よりも小さくてあまり開かなかった)

手術、病室、痛み

右目の摘出手術を受けたのは、2023年6月中旬。
入院期間は手術前日からの5泊6日。日曜日に入院して月曜日に手術を受けて、金曜日に退院した。
退院の時に、手術を担当したC先生から病院で貸し出されている仮義眼 (かりぎがん) を渡された。自分の目と顔立ちに合わせた本義眼 (ほんぎがん) ができたのは、その数ヶ月後だった。(義眼については後ほど記載する)

手術当日。
朝の8時半に看護師が迎えにきて、病室から手術室まで車椅子で連れて行かれた。
エレベーターホールでは両親が待っていた。
入院前の説明で、コロナウイルスの影響でこの病院では入院患者の付き添いはできず、手術当日も家族は手術が終わった後の面会時間に来るようにと伝えられていた。
手術の前日にナースステーションで入院手続きを済ませた時に両親には「決まりだから仕方ない。看護師さん達もいるし、来なくて大丈夫だよ」と言ったのだけど、両親は「手術前にちょっとだけでも会えませんか?」と無理を言って、手術室に行く時に通る場所を教えてもらったようだ。
母は、「頑張ってね」と言っていた。私は、全身麻酔で意識がなくなるので頑張るも何もないんだけど。
両親はこの時のことを、「車椅子に乗せられてあなたが運ばれていく様子は、まるでドラマのワンシーンみたいでウルッときたよ」と語っていた。
親バカだなぁ。別に一生の別れじゃないのに。
とはいえ、先天性の障害を持って生まれたにもかかわらず初めての手術だったから、そういう反応も無理はなかったと思う。

全身麻酔、あれはすごい。本当に意識がない間に終わっていた。
ドラマみたいな手術室に連れて行かれて、手術台に寝かされて「ピッ、ピッ、ピッ」という規則的な心電図の音が聞こえて当然すごく緊張していた。点滴をつけられて、口元にゴムのマスクをあてられて麻酔科のD先生から
「このマスクから酸素が出ます。焦らずゆっくり呼吸をしてください」
と言われて、
「ゆっくり呼吸?  できるかな」
と思いながら何回か呼吸をした。
そのすぐ後に「いづるさーん、終わりましたよー」と呼びかけられた。男性の声だったので、最初に声をかけてきたのはたぶんD先生。
右目には眼帯、鼻にはチューブが付けられていた。
「この方は意識がはっきりしてますが、意識がはっきりしない方もいます」と、先生が話している声が聞こえた。ここは大学病院だから、新人の医師や看護師も手術に立ち会っていたのかもしれない。
時間をワープしたような感覚だったけど、一瞬夢を見ていたような気もする。ポケモンが出てきていたから、きっと楽しい夢だったのだと思う。

呼びかけられて目を覚ました時に「取ったのは右目だよね?」と思いながら左目を開けると手術室の天井の電気が見えた。よかった、左目は見える。
でも、左目を開けてよく見ようとすると眼帯がつけられた右目に激痛が走って長く開けていられない。
(一時的なものならいいな)
と思いながら、ストレッチャーで病室まで運ばれるのを全身で感じ取っていた。
病室に行く時に手術を担当したC先生が「今、体の調子はどうですか?」と聞いてきた。「左目は見えます。目がすごく痛いです」と答えると、「そうですね、縫ってあるから痛いはず」と言っていた。C先生は、サバサバした若い女性の医師。
そうか、私、縫われたのかー。

食事を運ぶ物音が周りでしていたので、病室に着いたのは12時ごろだったと思う。
ひたすら痛みでうめいていた。
目だけではなく、なぜかお腹も痛くなっていた。
点滴から痛み止めも入れてもらったけどなかなか効かない。

当日の朝まではいなかった新しい患者さんが同じ病室に来ていたのはいいけど、ご機嫌大荒れなおばあさんで正直言って耳もつらかった。
なぜ自分が入院してるのかわからないようで、「早く部屋に戻して!!誰か来て!!」としゃがれた声で叫びながらベッドや机を叩いたり蹴ったりしていた。
おばあさんも術後で意識が朦朧としていたのかもしれないし、もともと脳や精神の病気だったのかもしれない。
翌日、おばあさんの家族が迎えにきて退院していった時はホッとした。

その病室にいるのは、みんな大きな病院での入院が必要な重症患者だ。
「私は目を治すための手術じゃなくて危険を取り除くために片目を取った!  全身麻酔が切れたばっかりでめちゃくちゃ痛くて気分が悪いの!  配慮してよ!!」なんて言えるはずがない。
コロナ禍で家族の付き添いが認められなくて障害が重い人やせん妄の人を見る人手も足りず、病室も満員だから起こる問題なんだと思う。
おばあさんも病院のスタッフも悪くない。悪いのはコロナやインフルエンザなどの厄介なウイルス。そして、充分な予算を回さず公立病院の人手不足を放置している政治と、情報をろくに伝えないマスコミ。

ちょうど私が入院する少し前から、テレビでは「コロナは5類になりました!」なんて言って浮かれムードだったけど、コロナ禍は終わってなどいなかった。
もしも家族の付き添いが認められているか、病院のスタッフが余るくらいたくさんいて情緒不安定なお年寄りの話し相手をする余裕があれば、あのおばあさんも私も、もう少し心穏やかに過ごせたんじゃないだろうか。
病気の治療を受けられるだけでもありがたいけど、世知辛い。

手術から2、3時間が経過したころ、手についていた点滴が外された。
痛みに耐えながらウトウトしていると、両親が面会に来てくれた。目があまり開けられなくて時間は確かめていないけど、3時くらいだったと思う。
コロナの影響で、この病院での家族の面会は1日1回15分と決められていた。看護師から渡されたタイマーが鳴ったら帰らないといけない。
両親がいろいろ話しかけてきたけど、私はひたすら「うん、痛い」と言っていたような気がする。
よく覚えているのは
「今は痛くてあんまり開かないけど、左目はちゃんと見えるよ」
と話した時に安堵の様子が伝わってきたこと。
両親は、摘出する目を間違えられないかをとても心配していたから。

主治医からは夕食の許可が出ていたけど、気分も悪いしいつもよりさらに視界が悪くなっていたため食べなかった。
この日は、持参したスポーツ飲料と水とメイバランス (高齢者や病人用の栄養食品) だけを飲んだ。

次の日。
痛みと同室の人が立てる物音で夜は何回も目が覚めた。
左目はいつもみたいに開くようになっていたけど、頭痛と吐き気でぐったりしていた。
あの頭痛は首と肩の緊張からきてたような感じだった。手術中は全身麻酔でピクリとも動かずずっと同じ姿勢で寝ていたはずだから、無理もない。
そして、あくびが出そうになると右目に強い痛みが走るので困った。この症状は2日くらい続いた。
顔の神経や筋肉は繋がっているというのを文字通り「痛感」した。

主治医の朝の診察で眼帯を外してもらい、「目の出血や腫れもないので今日退院してもいいですよ」と言われたけど、あちこち痛くて体調が悪かったのでもう少し入院させてもらうことにした。
眼科の手術は私みたいに特殊な例以外は局所麻酔で行われるため、1日、2日で退院して行く人が多い。
人に話すと驚かれるのだが、5泊でも長い方だった。

朝は水分を多めに取って痛み止めを飲んで気絶するみたいに眠って、昼からはようやく食事を少し食べられるようになった。
看護師や配膳担当のスタッフは急いで大勢の患者の食事を配っているので、メニューの説明はお願いできない。
お皿の蓋をゆっくり外して、料理の匂いを頼りに「これはいけそうかな?」、「これはちょっと今は無理そう」と判断しながら食べやすそうなものを食べていた。
ご飯、汁物、酢の物、鶏肉、さっぱりした果物など癖が少ないものは食べやすかった。
5泊の入院生活の中で、一番のご馳走は面会の時に母がタッパーに入れて持ってきてくれた桃。猛暑の中で歩き回った後に食べるアイスと同じくらいおいしかった。
2番目のご馳走は、夕食の時に出た煮込まれた鶏肉。
超薄味で食感がフニャフニャした野菜ばかりの料理の中では贅沢なご馳走だった。
少し食欲が戻ってからは味が濃い食べ物を渇望していた。

2、新しい目ができるまで

退院、仮義眼

退院する時、私の手術を担当したC先生が病院で貸し出している仮義眼をいくつか持ってきてつけ方と洗い方を教えてくれた。
仮義眼というのは、残った目や瞼の形に合わせた自分専用の義眼ができるまでの間、慣らすために入れておく義眼のことである。
仮義眼というものがあることや、自分専用の本義眼はどんなふうに作るのかは義眼を使用している友人から教えてもらった。
初めてつけた感じは、少し違和感があったけど全く痛くなくて驚いた。
家に帰った後も自分でつけ外しの練習をした。水で濡らすとスムーズに出し入れできた。
ちなみに、義眼は毎日水で洗って清潔を保つ。アルコールで拭いてはいけない。

義眼は球体ではなく大きなコンタクトレンズのような、または小さな目玉焼きのような形をしている。
ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父みたいな形じゃないし、アニメや映画みたいにコロコロと転がらない。入れ歯みたいに粘膜部分にきちんと納めるので、簡単に落ちてしまうこともない。(ただし目に対して大きさが小さすぎると落ちやすくなる)
借りてきた義眼を見た家族は「なるほど!目が描かれたコンタクトみたいなものだね」と言った。
やっぱり、目を取り出して洗ったりするというと、目玉親父みたいなのがゴロっと出てくるイメージで「もっと怖いものなんじゃないか?」と思っていたようだ。
普段見る機会がないから、無理もない。


友人から聞いた話で、薄い義眼、半球に近い形の義眼があることは知っていたけど、実は私もこの時までは球体の義眼も存在すると思っていた。人によって違うのだと。
でも、目を摘出することが決まって義眼のことを調べて製作業者のホームページなどを見てみると、「義眼は球体ではありません」と書いてあった。人体の構造上、眼球があった部分は綺麗な空洞にはならず、球体の義眼は入れられないのである。
言われてみれば確かにそうだ。

実際、私みたいに目を取った人の義眼もやっぱり目玉焼きみたいな形だった。 (もとの目が残っていても、極端に小さかったり傷ついていたりしている眼球の上にかぶせるタイプの義眼を使ってる人もいる)

小学生の時、盲学校の友達が義眼を見せてくれたことがあったけど、私は目がよく見えないし友達の目をあんまりベタベタ触るのはマナー違反だとなんとなく分かっていたので、球体だったか目玉焼きの形だったかまでは覚えていなかった。
目の色が塗られていて大きさがちっちゃかったのはなんとなく覚えていたから、義眼に対してグロテスクなイメージなどは特になかった。
義眼に限らないけど、ホラー映画など人を怖がらせる目的で作られた映像で恐怖や偏見を植え付けられる前に見ていれば、怖くないのである。


義眼をつけて家に帰ってきた時の家族の反応は、好評だった。
私の場合はもともと光の感覚しかなくてあまり開かない、濁りが強い方の目を取ってしまったので、義眼を入れることで左目と同じように瞼が開いて顔の見た目は以前より整ったためだ。
手術跡の腫れもほとんどなく、言われないとわからないと言われた。
自分でも、スマホのカメラで顔を撮った時に両目がちゃんと開いて黒目があるのを新鮮に感じた。これからはメイクが楽しくなりそうだ。
でも、こうやって捉えられるのは珍しいケースだと思う。人生の途中で目を失った場合はもっとショックを受けたり落ち込んだりするだろうし、義眼に慣れるまで目が痛かったりするはず。
それに私は、視力がある方の目を残せたと言うのが何より大きい。

義眼、動かせる!?

術後初めての外来で、嬉しいことが分かった。

手術を担当したC先生の話によると、私は手術で右の眼球を取ったが、目を動かす筋肉などは残せたようだ。
どういう仕組みか詳しくはわからないけど、残った筋肉と人工の小さなボールを埋め込んで、残った目に連動して義眼も動くようにしたのだという。

手術前に、「もしも目の筋肉を残せたら義眼を動かせて、見た目がリアルになる」という説明はあったけど、私の目はもともと作りが弱いから筋肉が残せなくても仕方ないと思ってあまり期待していなかった。
だから、診察のときに「ちゃんと左目と一緒に動いてますね」とC先生から言われた時は驚いたし、とても嬉しかった。
実は退院した時に母から「あなたの右目、もしかして動いてない?」と言われていた。でも、その時は半信半疑だった。
右目も開いて動かせるようになったことで、かえって今までよりも表情が豊かになったかも?

自分の身でこういうことを体験すると、もしかして何十年後にはコンタクトみたいに視力が補える義眼なんていうものも出てくるんじゃないかと希望が出てくる。
もちろん、見えるようにならないからと言って卑屈になるつもりはないし、楽しいことを見つけながら生きていくつもりだ。
目が見えなくても見えても、どちらでも幸せに生きていける。それが一番。

新しい目、模様

大学病院の義眼外来に通い始めたのは2023年7月のこと。本義眼が完成したのは9月、最終的な調整を終えたのは11月だった。
義眼は義眼士という専門職の人によって作られるのだが、沖縄には義眼士がいないため福岡県の製作所から出張で月に一度大学病院に来てくれる。
私の義眼を作ってくれたのは50代か60代くらいの男性。ここではE先生としておく。
外来では、目の型を取ったり、残った目と顔全体の写真を撮ってデザインを相談したり、装着感を伝えながら形を微調整したりする。
退院した時に病院から借りたのとは別で、義眼の製作所からも仮義眼を貸してもらった。手術をしたばかりの目の中は形が変わっていくので、1個目の仮義眼→2個目の仮義眼→本義眼→調整した本義眼というように徐々にサイズを大きくして、最終的に残った目と同じ大きさになった。目の粘膜と皮膚は意外と柔軟だ。
「新しい目」ができる過程はとても繊細で面白いと思った。

仮義眼には、茶色や黒の健康的な瞳が描かれていた。
でも私の本義眼は一味違う。黒目の部分に白くてモヤモヤした模様が入っている。
私の場合、残った目の黒目の部分が白っぽく濁っているのでそのことをE先生に相談して、再現してもらうことにした。そのほうが全体的な違和感が少ないと思ったし、もやがかかっている方が私らしいと思ったから。


写真1枚目が本義眼。
写真2枚目は、仮義眼と本義眼を並べたところ。よく見ると白目の色も少し違う。

本義眼をつけて見せたら、母からは「どっち側が義眼だった?  違和感がないね」と言われた。

大きめの義眼を使うようになってからは指で外すのが難しくなったので、取り外す時はスポイトという道具を使うようになった。
義眼用のスポイトは、持ち手がついた小さな吸盤だ。吸盤を濡らして義眼の表面にくっつけて、ピッと引っ張って取り出す。
慣れてくると指で外せるようになると聞くけど、大きめの義眼を使い始めて10ヶ月くらい経った今も指で外すのは難しい。

義眼の大きさが変わるたびに義眼外来で着脱の練習をした。E先生からは「大きさが変わると出し入れを怖がる人もいるけど、いづるさんはすぐ慣れていてすごいですね」と言われた。
私の場合は、盲学校で出会った友人達が義眼を使っていたから、比較的早く慣れることができたのだと思う。
あと、右目が寿命を迎えそうな時すごく痛かったし怖かったから、いろいろ鈍感になっていたのかもしれない。

義眼はそうそう壊れるものではないけど、使っているうちに劣化したり、加齢で残ってる方の目の外見が変わったりするので、2年前後で作り替える人が多いようだ。
もともと普通と違う色をしている私の目も、加齢とともに変わっていくのだろうか?

片目を失くさなければ考えもしなかったことがいろいろ分かった。

3、新しい目、新しい夢

片目が義眼になってから新しい夢ができた。それは、天然石や宝石みたいなカラフルな義眼を手に入れること!

ちょうど義眼を使い始めた頃、ある義眼ユーザーの女性がネット上で話題になっていた。リブさんという20代後半の女性だ。
彼女はなんと、自分でデザインして製作した義眼をつけてネットで写真を公開している。
写真を見ると、星空の模様のもの、鮮やかなオレンジに「EYE」という文字が書かれたもの、白菜をかざすとピカッと光るものなど、どれも斬新で個性的なデザイン。
自費で作っているからたくさんのお金がかかるはずだけど、彼女はメディアのインタビューの中で「宝石を集めるような感覚」と語っていた。
とても素敵だと思ったし、新たな希望になった。
調べてみると、日本ではまだカラーコンタクトのような個性的な義眼を作ってくれる製作所はほとんどないが、海外にはリブさんのようにカラフルな義眼をつけてファッションを楽しんでいる義眼ユーザーが何人もいるようだ。(リブさんが最初にデザイン義眼の製作を依頼した義眼士は、残念ながら現在休業中らしい)
日本でも、カラフルなデザインの、宝石みたいな義眼を作ってくれる製作所が出てきたら私も作りたい。
おしゃれ用の義眼は障害者の補装具の補助金は降りないだろうし、製作所は沖縄県外にしかないため渡航費、滞在費もかかる。それでも作りたい。
私は天然石でアクセサリーを作るのが好きなので、天然石のような義眼が欲しい。深い青に金と白の模様が美しいラピスラズリとか、金茶色をした虎の目のようなタイガーアイをモデルに作ったらすごくカッコいいかもしれない。
人体に溶け込む義肢も素晴らしいけど、ユーザーの個性や感性を全面に出した義肢もとてもいいと思う。

大好きな天然石みたいな右目を手に入れる。これが私の今の夢。右目を失ったことで新しく生まれた夢である。

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