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人に助けてもらってばかりの私にできること

家から徒歩10分のところにモノレールの駅ができてから、1人で歩くことが増えた。
実際に街中を歩き、さらにネットのSNSでいろんな話を見聞きする中でこんなことを考えるようになった。
車椅子やベビーカーの人達、杖をついてる人達、その他にも「困ってる人」に気付いた時に私ができることってなんだろう?

私は視覚障害を持っている。
左目の視力は0.03で、生まれつきの目の奇形なので眼鏡やコンタクトでの矯正はできない。また、目が勝手に動くせいで正確な視野 (見える範囲) は測定はできてないけれど、90%以上欠損している。
顔を前に向けていたら前方の一部しか見えない。
外を歩く時は白杖が必須だし、スマホは文字を大きくしたり画面の色を変えたりして見ている。
だから周囲にどんな人がいるか気付くのは遅くなるし、ぶつかったり足を踏んでしまったりすることもある。
さらに、体格も小柄で痩せていていかにも体力がなさそうな外見なので、少しの間荷物を持つのを手伝うのも電車で席を変わるのもわざわざ頼みたくならないはず。

でも、いろんな人の話を見聞きする中で直接関わる、直接手伝う以外にもできることはあると思った。
歩き疲れて足がふらついてない時はエレベーターではなく階段を使うとか、多目的トイレではなく通常のトイレを使うとか。
トイレは通常のトイレのほうが狭くて物の位置が把握しやすいから、自分にとってもそのほうが便利だし。
杖やベビーカーの音が近くでしたら、一旦立ち止まって「どうぞ」とか「すみません、通りますね」と声を発してから動くとか。

そういうことでいいんだと思う。

モノレールで出かけたある日、こんなことがあった。
普段は人が少ない家の最寄駅でICカードにお金をチャージしようと思って窓口に行ったところ、駅員さんは急いでいる様子。「すみません、2階に行ってきますので、券売機を使うのが難しければ少々お待ちください」と言って階段を上がって行った。
きっとサポートが必要な方がいるんだな、田舎の駅だけど私以外にもいろんな事情の人が利用するのはいいことだ!と嬉しく思いながら窓口で待っていた。

駅員さんと行き違いで、高齢の女性と男性が降りてきた。
会話を聞いていると、どうも切符を間違えて買ったようで、料金の調整が必要のようだった。
私は「駅員さん、今2階に行ってます。もう少ししたら戻ってくると思います」と伝えた。
すると女性が「そうですか。そしたら私は、待ってる間にトイレに行ってこようかね」と男性に言っていた。

障害者が普段人の手を借りることが多いのは悪いことではないし、必要以上にヘコヘコする必要もないと思っている。だけど、たまにこういうことがあると私はとても嬉しくなる。

国内の都市部よりも人が温かいとかフレンドリーと言われる沖縄も、車のドライバーは渋滞にイライラしているし、優先駐車場は取り合いになってしまうし、仕事で疲れている人も多いし、スマホばかり見て周りを見てない人もいる。
だけど、知らない人と必要な会話をするとか、出かけた先で見知らぬ人と助け合うとか、そういう空気もまだ残ってると思う。

外を歩いて、困った時に勇気を出して知らない人と言葉を交わしてみることで良い空気を残すのにちょっとだけ協力できるかもしれないし、1回でも多く階段を使うようにすれば「杖ついてる人も階段使ってるから自分も」と思う人が増えて歩けない人がエレベーターに乗りやすくなるかもしれない。
(もちろん、足が丈夫な視覚障害者だって転落が不安な時はエレベーターを使ったほうがいい。私も不安な時はそうする)

人に助けてもらうことが多い身だけど、ちょっとした選択で間接的に誰かを助けてることになるんじゃないかと思った。
善意も悪意も無関心も巡っているし、人はどこかでつながっている。

私がこういうこと言うのはおこがましいけれど、「自分は助けられてばかりで申し訳ない」と思いながら生きている人と、健康な体だけど周りが見えてない・あえて見ないようにしてる人達に共有したくて、この考えを書いてみた。

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