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もっと馬鹿になりたかった

私には私のしんどいがあって、それは私にしか分からない。同時に、他人には他人が感じる程度のそれがあって、それはその人にしか分からない。

自分のそれが特別で被害者側だなんて、私は微塵も思っていない。絶対唯一の正義なんて法律以外には存在しなくて、それさえも解釈の余地がある。

障害が、身体なのか知的なのか精神なのかって区別されているのは、それは管理する側にとってその方が楽なのと、名前がつくことで受け入れられるようになる人が、私含め一定数、存在するから、そう言うシステムなだけ。

生きづらさなんて、私の人生はそんな綺麗な言葉じゃ、表せない。表したくないだけとも言える。

机上の座学は得意でも、人間関係は下手な私が思うのは、人間関係が得意な人の方が、今この世界では、よっぽど生きやすいんじゃないかということだ。

私が1を言われて、その1をそのまま受け取れなくなったのは、恐らく中学生の頃からか。裏の裏まで考え抜いて、結局ただの表であることに、気付いた時には既に手遅れ。そんなこと、ここまでの人生において一度や二度では無い。

言われたことをそのまま受け取ったら、"純粋だね"と貶されて、では考え込むと今度は、"考えすぎだよ"と笑われる。では私は、あの時どうすればよかったのか。

私の頭の振れ幅は両極端なんだなと、最近になって、ようやく気付いた。

周りを貶すとか、そう言う意味ではなくて。私はもっと、馬鹿になりたかった。単純な思考回路を持ちたかった。周りみたく、器用に生きたかった。要領よく生きたかった。愛想よく、誰にでも笑顔をふりまける人間になりたかった。そうすれば、生きるの、もっと楽だったのかな。

でも、精神病んだからこそ、人の苦しさとか生きづらさに、共感しやすくなれたのかもしれない。

それに今後、もしかしたら、ゴッホの星月夜を生で見られることがあったなら、その時には想いを巡らせることが、出来るのかもしれない。星月夜は、ゴッホが精神病んで、精神病院に入院していた時、それを題材に描いたものらしいから。




殴り書きを読んでくださって、ありがとうございます。






P.S.
写真は、Insta Miniと言う、チェキ風カメラアプリで撮影したうちの1枚。最近このアプリ使うのにハマってる‪🫶🏻‪

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