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「美咲はどっちがいい?」と聞かれることが怖かった。

例えば、選択権を自分に委ねられること、物事を自分で決めなければいけないことが。

過去の私は、自分の意見を言うことが怖かった。

過去の父親との葛藤から、私は、自分の意見は捻じ伏せられるものであること、尊重される価値のないものであること、否定される程度のものであることを、言わずもがな知っていたから。(この件に関しては和解済)

だからいつしか偽りの笑顔を貼り付けて、問うてくる人間すべてに対して、「何でもいいよ」を多用するようになった。そうすることで、自分を守っていた。また否定されて、心が傷付けられないようにと。

でもそれは心を守っているんじゃなくて。ただ私が、臆病なだけだったと気付いた。

例えば、道を誰かと歩いていた時のこと。その道は左右に分かれていて。

「美咲は右と左、どっちに行きたい?」

と尋ねられる。

言ってしまえばただそれだけのことで。その選択権を委ねられた時、私は自分の意思を相手に伝えようとすることを、放棄した。反射的に「どっちでもいいよ」と言ってしまった。相手はちょっと困ったような顔をして、じゃあこっちにしようかと、私に行く道を示してくれた。

誰かに道を示してもらわないと、当時の私は、前に進めなかった。誰かの意見に追随することで、自分の意思を相手に伝えることから、逃げていた。

今思えば、そんな気がする。

その時「どっちでもいいよ」を言ってしまった相手。それは私にとって、竹馬の友。昔からの、大切な人のうちの一人。

当時困らせてしまったその子に、今の私はちゃんと「こっちに行きたい!」を言えるようになった。成長したよね私。

今日、その友達と一緒に公園を散歩した。図らずも、いつかの時に私が「どっちでもいいよ」と言った、あの場所で。

昔から変わらない、私とその友達が織りなす、適度な距離感。とっても、居心地がいいんだ。無言の時間があっても気まずいと思うことがないって、まさにこういうことを言うんだろうなって。常々思う。これからも大切にしたい存在。


読んでくださってありがとうございます。

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