【第20回】消費税が導入された経緯は何か 個人コード導入が最善の策だった

 10月にインボイス制度が導入されて、消費税に注目が集まっている。消費税はどのように導入されたのか。

 消費税が導入される前、税金をごまかす事業者がたくさんいた。この当時、盛んに言われたのが「クロヨン」だ。クロヨンとは、サラリーマンなどの給与所得者は9割の所得を捕捉されるのに、自営業者などの事業所得捕捉は6割、農林水産業を営む事業者の所得捕捉は4割という意味だ。

 また、銀行や郵便貯金で仮名口座を作ることができたため、税務署が資産を正しく捕捉できず、税金の徴収漏れが多かった。

 このため、第3次佐藤栄作内閣は「各省庁統一コード研究連絡会議」を設置し、税金の捕捉率の不公平さを解消するために省庁統一の個人コードを1975年から導入しようとした。これは、今でいうマイナンバーのようなものだ。しかし、当時の社会党などが「国民総背番号制だ」「徴兵制導入につながる」などと反発が強く、この動きは潰された。

 捕捉率を高めて徴収漏れをなくせば、増税しなくてすむため、国民総背番号制の導入が最善の選択だった。しかし、それに挫折したため、その代わりとして捕捉率の高い消費税の導入が検討され始めたのだ。

 消費税の導入をすべく奮闘したのが、大平正芳首相だ。1975年にオイルショックの後遺症もあり、税収減を補うため当時の三木武夫内閣では、大規模な赤字国債を発行した。その時の大蔵相が大平首相で、大蔵省(現:財務省)出身でもあった大平首相からすれば許されないことで「万死に値する」と言ったとされる。

 大平内閣当時、ロッキード事件の余波、三木内閣の混迷、角福戦争、大福戦争もあり、自民党内が大きく分断された。また、日本鉄道建設公団のカラ出張問題もあって、大平首相は増税断念を発表せざるを得なくなる。

 大平内閣の下、1980年3月に大蔵省はグリーンカード制度(少額貯蓄等利用者カード)の法案を可決させている。個人コードの導入が見送られたため、大蔵省はせめて資産だけは正確に捕捉しようとして、グリーンカードというものを考案した。

 グリーンカードは、金融機関の口座に納税者番号をつけるものだ。これにより、マル優制度(少額貯蓄非課税制度)や郵便貯金の仮名口座などによる税逃れを防止しようとした。

 しかし、法案可決後も反対派が勢いを増し、特に金融業界が反対した。資産家が逃げてしまっては、金融機関は儲からなくなるからだ。また、自民党内でも反対派の巻き返しが強くなり、金丸信自民党幹事長の政治判断でグリーンカード制度は廃止された。

 大平首相の次に消費税導入を目指したのが、中曾根康弘首相だ。中曾根首相は、ここで嘘をついた。

 1986年7月に衆議院を解散し(死んだふり解散)、衆参同日選挙に打って出た。この時に「国民や自民党員が反対する大型間接税はやりません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言し、衆議院で300議席以上を獲得し、大勝利をした。しかし、翌1987年2月に「売上税法案」を国会に提出した。

 売上税は、大型間接税なので「嘘つき」という批判が満ち溢れ、結局、その年の地方選挙で敗北し、売上税は撤回に追い込まれた。

 1987年11月、中曾根首相が退任し、竹下登内閣が発足する。竹下内閣も消費税導入を目指し、野党の強い反発もあったが、衆議院において300議席以上の多数を握っていたこともあり、1988年に消費税法案が可決した。そして、1989年4月から税率3%の消費税導入されることになった。

 ここまでの歴史を振り返ると、やはり最初に個人コード(=マイナンバー)制度が導入されていたら、消費税の導入はなかったかもしれない。竹下内閣の時には比較的正当なロジックで消費税の導入がされるが、その後は増税のためには手段を選ばない」という発想で、なし崩し的になっていく。

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