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古代中国の宰相0004

孟嘗君田文


 このような春秋時代の菅仲と主君の桓公、あるいは晏嬰と主君の景公のような宰相と君主の信頼関係は、確立できていなかったようですが、菅仲や晏嬰などとは一味ちがった戦国時代の^斉の名宰相として、孟嘗君田文が挙げられます。
 戦国時代の諸国の重臣のなかでも、特に食客を大勢集めてその才能を愛でたことで有名な4人の公孫の名が挙がります。それは、斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君の戦国四君ですが、なかでも孟嘗君田文の名前はかならず、第一に挙がってきます。
 孟嘗君は薛の領主であった靖郭君田嬰の子どもでしたが、母の身分が低い生まれで、しかも誕生日が5月5日であったため(当時5月5日に生まれた男の子は成長してその背丈が門戸の高さになると親を殺すという言い伝えがあったそうです)、父親の靖郭君は「この子は殺せ」と命令しました。しかしながら、孟嘗君の母は密かに我が子を匿って育てました。
 そして孟嘗君が成人したときに、いよいよ母親が連れてきて、父親の靖郭君と面会することになりました。靖郭君は立腹して、言いました。
「わたしは汝が生まれたときに、殺すようにいったはずだ」
「それはまたどういった理由からなのですか?」
「昔から5月5日に生まれた男の子はその背丈が門戸の高さになると親を殺すという言い伝えがあるのだ」
「父上、人間の運命を決めるのは、天なのでしょうか?それとも門なのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
「もし人間の運命を決めるのが天なのであれば、父上のおっしゃる言い伝えなど、無視すればよろしい。もし門の高さが人間の運命を決めるということなら、門を高くしてしまえば、それですむ話かと存じます」
ある日、孟嘗君がまた、靖郭君に質問をします。
「父上におききします。父上は御自分のひ孫の孫の名前をご存知でしょうか?」
「知らぬ」
「そうですか」
「それがどうかしたか?」
「わが斉国の領土は増えているわけではありません。それなのに、一方では、父上の財産は日増しに増えて、我が家はリッチになってきているのです」
「よいではないか」
「その財産を名前も知らないひ孫やその子どもにのこしてやるのですか」
「それでは、もったいないというのか。それならどうすれば?」
「諸国には才能のある人材がおおぜいいます。ぜひ食客としてそのような逸材を広く集めることです」
 靖郭君は広く食客を集めて屋敷に招き、孟嘗君にその面倒をみるように命じました。父親の期待にたがわず、孟嘗君が多くの人材を諸国から集めて世話をしたため、食客たちの間でも、田文の評判はうなぎのぼりとなり、さらにそのうわさが諸国にひろまっていきました。ついに靖郭君は孟嘗君を自分の跡継ぎに立てることにしました。
 このような孟嘗君のすぐれた資質は、父君の靖郭君のDNAによるところも多かったようです。
 靖郭君もいくつか逸話を残しています。
 彼は斉の君主に疎まれていた時期がありました。
斉の宰相の靖郭君を薛の領主にしようとしたとき、靖郭君を憎んでいた楚の王様がよこやりをいれようとしました。靖郭君の食客のひとりが、
「わたしが楚の国に行って、王様を説得してみましょう」
「よろしくたのむ」
楚王に面会して
「王様が魯や宋の国を従わせることができるのに、なぜ斉の国を従わせることができないのでしょうか」
「それは、国力がちがう」
「そのとおりです。魯や宋は小国、斉は大国です。その斉がみずからの領地をけずって薛の領主に靖郭君をあてようとしています。これはわざわざ自分でその大国としての国力を弱めようとしている行為です」
楚王は、この説明にうなずいて、靖郭君が薛の領主になることを黙認したそうです。
その薛の領地に靖郭君が城を築く計画をたてました。食客たちは、みな反対しましたが、靖郭君は断固としてかれらの意見を退けてしまいます。最後にやっと、食客のひとりが、機転をきかせて、靖郭君のかたくななシャットアウトのシールドを、突破することに成功して、「みのほど知らずの行為はみずからの墓穴を掘る結果をもたらす。薛がやっていけるのは斉の国があるからにほかならない」という理屈で、靖郭君を諌めることができたそうです。
このような話の類似のエピソードはけっこう歴史書にみられるようです。唇亡歯寒といわれるようなものですが、むかし、晋がを討伐するのに虞の国の中を通らせて欲しいと願い出たそうです。 虞の君主が強大な晋の要請であったため、しかも以前にも通過をゆるしたことがあることもあって、OKをだそうとすると、これを聞いた虞の臣である宮之奇が諫めて云いました。「虢は虞の表のようなものであります。 虢が滅んだとすれば、虞もこれに続いて滅ぶこととなりましょう。 晋に通過を許すべきではありません。以前に一度、通過を許したということでさえ甚だしいというのに、再び許すなどは愚の骨頂です。諺の「輔と車は互いに助け合い、唇がなくなれば歯は寒くなる」というのは当に虞と虢の関係のことをいうのです」と。
 ほかにも、春秋時代もおわりのころ、やはり晋の国のエピソードですが、晋の君主の権力がまったく形骸化してしまって、六卿と呼ばれる貴族の家系(趙氏、魏氏、韓氏、氾氏、中行氏、智氏の6氏族)が実権をにぎり、そのなかでも、智氏が強大となっていき、氾氏、中行氏がまず脱落したあとに、趙の当主であった趙襄子は智伯瑶と韓康子、魏桓子の連合軍のためにつらい長期間の籠城を余儀なくされたため、韓康子、魏桓子の両者に、趙が倒されたら、次は魏と韓だぞ、という理屈で説得して、寝返りをさせ、このために智伯瑶が滅びる結果になります。
 戦国時代に、楚の攻撃ために韓が秦に援軍を要請したときにも、なかなか動かなかった秦の重い腰をあげさせたのも、説客の説く「いまは韓が緩衝地域として存在しているが、これがなくなってしまうと、直接対決になりますぞ」という理屈でした。
 古代チャイナのころからこの唇亡歯寒の理は有名であったようです。
 靖郭君は、斉貌弁という食客がお気に入りで、とてもよく面倒をみてあげたそうです。ところがこいつが欠点の多い男で、孟嘗君でさえも、「あいつにそこまでしてやる必要があるんですか」と諌める始末でした。すると靖郭君の態度はさらに硬化して、「うるさい。つべこべいうな。おまえたちがどんなにヤツのことを非難しても、わたしはあいつの面倒をみてやる」
そういって、斉貌弁を最高の待遇の食客としてもてなしました。斉の君主が威王から宣王に代替わりしますと、靖郭君はあたらしい君主とそりがあわず、大臣をやめて領地の薛に帰ることになり、斉貌弁も同行しました。
 ある日、この状況を憂えた斉貌弁が、
  「閣下、わたしは一度斉の都にいって、新しい君主の宣王様におめにかかってまいります」
  「やめておけ、彼はわたしのことをきらっている。下手をすれば殺されてしまうぞ」
  「それは覚悟のうえのことです」
 斉貌弁は都の臨淄に到着して、すぐに新しい君主の宣王を訪問しました。王様は、怒りを押し殺していいました。
  「靖郭君は君のことを可愛がっていて、よく意見をきくそうだが」
  「とんでもありません。たしかにわたしを気に入ってくださっていますが、わたしのいうことをきいてくださることなど、まったくありませんでした」
  「ほう、そうなのか?」
  「じつは、閣下がまだ太子でいらしたころ、わたしは、『あの太子の人相はよろしくありません。謀反の相です。すぐに廃太子として、別のかたを太子にたてるべきです』ともうしあげました。ところが靖郭君は『とんでもないことだ』と反対されました。もしあのときわたしのいうことをきいていれば、こんなことにならないですんだはずなんです」
  「はじめてきいた」
  「こんなこともありました。楚の国の大臣から、薛の数倍の面積の土地と薛の領地を交換なませんか、と提案されたときには、わたしはぜひそうしなさいとおすすめしたのに、靖郭君は斉の王様からいただいた領地で宗廟もありますから、できません、と拒絶されました」
  「ふう、わたしは全く知らなかった」
  斉の新しい君主の宣王はこのことをきいて、嘆息して、いいました。そして、靖郭君を宰相に招くことにしました。
 人づてにきいたことはインパクトが強いものですが、この場合も絶大な効果を発揮したようです。
 さて、父の靖郭君の跡を継いだ孟嘗君は、一芸があれば食客をこばまずに受け入れたために、その数は数千人に及んだそうです。あるとき、孟嘗君が食事のときに、食客との間に衝立をおいたところ、その一人が、クレームをつけてきました。
 「衝立をおいたのは、食事に差をつけているのが、わからないようにそうしたのにちがいない」
「これがわたしの食事だ」
孟嘗君が自分のお膳を示して、全く同じであることをみせたため、くだんの食客は、疑ったことを恥じ入って、自分のクビをはねておわびしたそうです。
 こうして孟嘗君の評判が高まったため、秦の国の君主である昭襄王からのお招きで秦にでかけていきました。ところが昭襄王が、もともと斉の出身である孟嘗君のことを信頼できないと判断したらしいと知り、函谷関をやっと通過して秦の国から脱出するときに、この一芸食客たちの活躍があったことは、鶏鳴狗盗の故事としてたいへん有名になりました。すなわち、食客の一人はニワトリの鳴き声が上手、また別の人物はイヌのまねがうまいという一芸を持っていました。
 犬の鳴声の名人で、こそ泥を得意とする人物には、白狐の皮衣を盗みださせ王の寵姫に献上して釈放に。さらに函谷関にのがれた際、関門が深夜で閉ざされていて窮地に立たされました。そこで鶏の鳴声の名人に一番鶏の鳴き真似をさせたのです。すると、本物の鶏がそれにつられて鳴きだし、門番は朝と感ちがいして開門してしまい、孟嘗君はまんまと逃れ去ったというものです。
 斉にもどった孟嘗君は宣王のもとで宰相として、斉の国力を高め、宣王の子の湣王にもひきつづき登用されていました。しかしながら、この湣王は暗愚の君主の典型ともいうべき人物(後に北方の隣国である燕の楽毅将軍の攻撃にあって、あわや斉の国を滅亡させそうにならしめた責任者といえるようです)であったらしく、孟嘗君の評判が高まることをきらってとうとう罷免してしまったそうです。
 孟嘗君が密かにその母親に育てられていたころ、斉の国の片隅に、馮向という若者が住んでいました。もともと身分が低い出自であったうえに、額に汗して働くことがだいきらいで、毎日金持ちの知人にたかっては、賭博ですってんてんになってしまうという生活を繰り返していました。
馮向は不思議なことに、そんな定職をもたない暮らしをしていても、まわりにいる人々には、好かれていて、ある日、金持ちの知人から、縁談をもちこまれるほどでした。
 馮向自身は、はじめはあまり気が進みませんでしたが、いつもたかっている手前、無視するわけにもいかず、一度顔合わせをするということになりました。ところが会ってみますと、一見してそれほどのきわめて目立つ美人というわけではないものの、よくよくみると目鼻立ちが地味ながら整っていて、話をしても、うけこたえに共感を覚えることが多く、いっぺんに気に入ってしまいました。娘のサイドでも、両親は、あんな身分の低い無職の男には大反対でしたが、本人は「あのかたには、ふつうのひとにはわからない良さがあるの」と、たいへん乗り気で、結局ゴールインする結果になりました。
 夫婦はしあわせに暮らしていましたが、長男をさずかったその日に、馮向が、金持ちの知人を無頼漢から守ろうとして、大怪我をしてそのまま他界してしまいました。未亡人は美しいだけでなく、頭も良い女性であったため、さずかった長男の馮諼に、学問と弁論を学ばせて、ゆくゆくは仕官できるように、と育て、馮諼もそれにこたえて、立派な師のもとで勉学に励みました。そうこうしているうちに、30歳を過ぎてしまいましたが、これといって、良い仕官の途がひらけてきてはくれませんでした。
母親もさすがに、最近は年を実感して、
「馮諼、なかなか良いあるじにつくことができないね」
「母上、大丈夫ですよ。斉の国は何といっても、大国です。そのうちきっと良い就職口があるはずです」
「だといいけど。それはそうと薛の領主の孟嘗君って、大勢食客を集めて世話してくれるらしいよ」
「それはきいたことがある。どんな特技でもオーケーだとか」
「いちど、おともだちに孟嘗君の食客に推薦してもらったら」
「そうだね。でもただ推薦してもらってもねぇ」
「亡くなったお父様から遺された長剣を持っていって、こんなふうにすればいいんじゃないかしら」
といって、賢母が馮諼に耳打ちしたのです。
 「なるほど。母上の作戦でやってみますよ」
馮諼はまず友人に、自分が貧乏で自活できないため、ぜひとも孟嘗君の食客として推薦してくれるように依頼しました。
 さっそく友人が孟嘗君のところにいって、
「食客の候補で馮諼という男をおねがいします。いい人物です」
「その方は何を好まれますか?」
「特にはないと思います」
「それでは、何がお得意で?」
「特にこれといって・・・」
「まあいいでしょう」
家宰は主君が馮諼を軽んじていると考えて、粗末な野菜の食事をあてがいました。
 するとこの馮諼という食客は、「わたしには特技などというものはない」と言い放ち、孟嘗君の屋敷で世話してもらっているのに、図々しくクレームをつけてきたそうです。
 この男ときたら、柱にもたれながら、
「長剣よ、かえろうか。わたしの食事には魚もついてこない」
と長剣をたたいて歌うありさまでした。
孟嘗君が、たとえ一芸食客であってもみずからのお屋敷にまねいて、面倒をみているという評判が高まるとともに、食客のなかにもけっこう
このような図々しい輩が現われてきてはいました。
家宰が孟嘗君にその仔細を報告したところ、孟嘗君は、苦笑して、
「そうか。それでは魚をつけてやりなさい」
すると今度は、
「長剣よ、かえろうか。外出するときにわたしには馬車もない」とまたまた長剣をたたいて歌う始末でした。家宰が、その顛末を孟嘗君に再度報告したところ、孟嘗君もまたか、という態度を示しましたが、それでも
「まあ、よかろう。馮諼の外出用に馬車を調達してやりなさい」
ところがそれでもまだ満足せずに
「長剣よ、かえろうか。こんな居候の貧乏では、母を養うこともできない」
と、またまた長剣をたたいて歌うありさまでした。
家宰が、しかたなく、まだ長剣をたたいて歌っていることを孟嘗君に取り次ぎました。孟嘗君もさすがに呆れてしまいましたが、
「その男には親がいるのか?」
「年取った母親がおります」
「しかたがない。親子が十分月々生活出来る分だけのマネーをあげることにしよう」
といって、暮らしに差し支えがでないようにしてやったのでした。
 その後はさすがに、馮諼も二度と長剣で歌うことはしなくなったそうです。それから、しばらくの間は、孟嘗君もこの図々しい食客のことはすっかり忘れてしまっていました。
馮諼は、母に報告しました。
「母上のおっしゃるとおりでした」
「長剣よ、かえろうか、が効いたのね」
「そうです。ずうずうしい態度かと思いましたが、要望をかなえてもらえました」
「田文様はふところが深いところがある、という予想のとおりだった」
「ほんとうです。これで母上にも不自由をおかけするようなこともなくなるでしょう」
「必ず恩返しをしてさしあげるのですよ」
「承知しました」

 のちに、孟嘗君が暗愚な湣王によって宰相を罷免されて、領地の薛に帰ることになったときに、薛の領民たちが領主の孟嘗君に借金をしていて返済していないケースが多々あることがわかりました。孟嘗君は食客たちに、
「そちたちのなかで、さきに誰か薛へ出向いて領民から借金をとりたててくる役目をかって出るものはいないか?」と問いかけますと、食客たちはみな憎まれ役の損な立場になることが明らかなため、敬遠していました。そのとき、この馮諼が
「それでは、わたしがその役目をお引き受けしましょう」
と申し出たのです。
孟嘗君は家宰にたずねました。
「この馮諼というのはいったいどんなやつだったっけ?」
「長剣よ、かえろうか、を歌った男でございます」
「フン、ようやく役に立ってくれるのか」
孟嘗君は馮諼が薛の領地に出発するに際して、酒宴の席を設けました。
「最近は野暮用がつぎつぎにありまして、先生には、すっかりご無沙汰してしまって、申し訳ありませんでした」
「いえいえ、わたしはこれといったとりえもない人間ですし、今回ようやく閣下のお役に立てそうな機会ができて、うれしく思っております」
「それでは上首尾を期待申しあげております。よろしくおねがいします」
「おまかせください。手土産としては何かおのぞみがありますか?マネーをゲットしたら、それを買ってまいりましょう」
「それではこのわたしの屋敷に不足しているものをお願いしたい」
「承知しました」
 ところが、馮諼は、孟嘗君の領地である薛につくと、借用書を領民に提示してマネーを返済できるところからだけ返してもらうと、その金で領民を一箇所に集めて、酒宴を開き、酒や食事をふるまうとともに、返してくれそうもない借用書をすべて焼き捨ててしまいました。
 これをみて、集まった領民たちはくちぐちに「万歳万歳」と歓声をあげて、パーティをエンジョイしたのでした。
 この噂はすぐに孟嘗君の耳に入りましたから、さすがにカンカンに怒って、帰ってきた馮諼を詰問します。
「先生、いったいどういうおつもりですか!」
「と、おっしゃいますと?」
「借金を帳消しにするなんてはなしはきいておりません。領民を集めて、借用書を焼き捨てるとは何事ですか!正気の沙汰ではありませんぞ」
「まあ、おききなさい。領民を全員集めてパーティを開いたのは、そこでウソをつかれないためです。返済能力のある者には必ず借金を返すという約束をさせました。返したくても返せない連中には無理やりせまったって、返せっこないし、下手をすれば夜逃げされてしまうような事態にもなりかねません。そうなっては、『閣下は領民よりも金を大事にしたため、領民が領地から逃げ出してしまった』という評判が立ってしまいます」
「なるほど」
「わたしは、返せっこない借用書を焼き捨てて、そのことによって、領民たちの人気と諸国における閣下の評判とを保つことにしたのです」
「手土産は?」
「閣下のお屋敷には、金品も食料も宝物も馬も美人もすべてそろっています。不足しているものは恩義だけです」
「恩義を買ってきてくださったとおっしゃるのか?」
「閣下は薛の領民をいつくしむということをしないで、借金をとりたてようとなさいます。わたしが借用書を焼き捨てると、万歳万歳のコールがあがりました。これが恩義を買ったということです」
 孟嘗君は今度も苦笑して、それでも納得の上、馮諼をねぎらいました
そのあとで、宰相を罷免された孟嘗君が薛の領地に帰るときには、領民たちが百里も手前まで出迎えにきてくれていました。
「先生、恩義を買ったというのはこれですね!」
「閣下、賢いウサギは三つのあなを確保するといわれています。閣下はまだひとつだけ、あなを確保しただけです。まだ枕を高くして眠ることができません」
「あと二つはどうすればよろしいか?」
「掘ってみましょう」
そこで孟嘗君は馮諼に車50両と金五百斤を賜りました。
馮諼はまず魏国の都、大梁にでかけていって、魏の恵王に面会しました。
「斉の孟嘗君は宰相のお役を罷免されました」
「ほんどうか?」
「この方を迎えた国は、国力兵力ともに強大になることでしょう」
「さようか。ぜひわが国にいらしてほしい」
魏王は黄金千斤・車百両をもたせて使者を送って、孟嘗君を迎えようとしました。
馮諼はさきに薛の領地に引き返して、孟嘗君に報告していました。
「黄金千斤・車百両は最高の待遇の使いですが、かんたんにOKしないでください。斉王の耳にもとどくはずです」
使者が3回往復しても、孟嘗君は固辞してOKしませんでした。
 斉王はこのことをきいておそれをなしました。孟嘗君に対して、最高の待遇でわびを入れて、宰相としてもどってきてほしいと懇願したのです。
馮諼が孟嘗君に助言しました。「ぜひ先王の祭器をもらいうけて、薛の閣下の御領地に宗廟を建立されることをおすすめします」
ついに廟が完成したときに、馮諼が孟嘗君にいいました。
「これで閣下にもあなが3つできました。当分枕を高くして眠れます」

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