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ナイスな湯呑み

久しぶりに商業施設に行った。

服には興味がないので、セレクトショップに行くと雑貨、特に器ばかり見る。
服や小物がメインで器の点数は少ないんだけど、それが逆に「選りすぐり」感があって2割増くらいで良く見えるところもいい。


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お皿や陶器を見て必ず思い出す話。

 
高校の修学旅行で清水寺に行った時のこと。
清水寺の前のゆるい坂道の両側にたくさんのお店があって、その中の陶器のお店に入った。

きれいにお皿が陳列されているわけではなく値札もなく、ほとんどが箱に入ったままで
狭い店内の壁まで器の箱がぎっしり積んである。
その奥にご主人が座っている。


雰囲気としては器好きの年配の方が行くようなお店で、修学旅行中の高校生がお土産を買うようなところでは全くなかった。



その中で出会ったのがこの湯呑み。





やや薄手なところが洗練されていて
色合いも、暖かみのある灰色が絶妙。
ほんの少し末広がりのシルエットがきれい。


この湯呑みを見つけた時の感覚をなんと言ったらいいんだろう?


私にとってよい何かが、
思いもかけない場所、シュチュエーションで
湯呑みという形で眼の前に現れた

そういう感じ。


値札がついていなかったのでご主人にお値段を聞いたら6000円ほどと言われた。
私は見るからに修学旅行中の女子高校生だったので、ご主人は少し安くしてくれたような気がする。


今思うと、高校生が修学旅行の土産として買うにしてはお高い。実際この湯呑みで修学旅行のお小遣いの半分以上が消えた記憶がある。
両親は別に皿にこだわりのある人たちではなく、美術品の類は1つもない家庭です。

そんな環境で育って来た私が、1つの美しい湯呑みに6000円をためらいなく支払う感性をいつどこで培ったのか、不明です。


この湯呑みを父へのお土産として渡したら、やはり父はとても喜んでいた。
娘が自分のために(高価な)品を選んでくれたからこの湯呑みを好き、というだけでなく
純粋にこの湯呑み自体をとても気に入ったようで

「軽くて持ちやすい。姿がいい。」

と言って、数十年愛用しています。




修学旅行から数年後、このナイスな湯呑みを選んだ目利き?を買われて、
父に「会社で使いたいから、こんないい感じの湯呑みをまた買ってくれ」と頼まれたので
当時住んでいた街であれこれ探してみたんだけど
この湯呑みを超えるナイスな湯呑みは見つけられませんでした。 
結局たくさん見た中で一番良かった湯呑みを買って渡したけど、私も父もあの湯呑みの時のようなしっくり感はありませんでした。


どうやら
全てがぴったりくるモノって実は本当に少なくて、しかも一生懸命探したら見つかるわけでもなく

思いもかけない場所、シュチュエーションでベストな形になって眼の前に現れる。
そして奇跡は、二度と同じ風には起こらない。
そういうものらしい。



普通人は「こういうモノが欲しいから探して買う」という手に入れ方をするけれど

本当にその人が好きなものや必要なものは
人智を超えた天の采配でしか手に入らないのかもしれない。

急いだり頑張ったりしなくても、ちゃんと必要なものは手に入る仕組みになってるのかもしれない。



若い時にそう学んだからか、お皿に限らず
あらゆるモノや人との出会い、機会において
無理なく当然のように素晴らしい何かを掴む時を待っている所が私にはある気がする。


努力大事
苦労も必要

だけど実はそういう人間の行動や思惑は自然とか宇宙の営みには全然関係ないことで

案外無心に自然の流れに乗っていれば
ちゃんと最高の何かに辿り着くんじゃないかなぁなんて思う。


湯呑みの写真は、今朝父に撮ってもらいました。

久しぶりに父とこの湯呑みの話をしたけど、この湯呑みは本当にいいねぇと言う気持ちは父も私も当時から全く変わらず
むしろ月日が経つにつれいかにこういう出会いが稀かを知り、この湯呑みに対する思いは深くなっている気がします。


セレクトショップでお皿を見て思い出した、昔の話です。

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