安芸高田市石丸市長を応援する人たち・ポピュリズムの時代(2)石丸市長が成し遂げた仕事はあるのか

1.私の仮説の復習
■ひろゆき的地位を目指す
 私の仮説は、石丸市長は市長になっては見たもののすぐに向いてないと気づき、自分の論破力で、ひろゆき的地位を目指すようになったというものである。
 だから、たいして話題にならない政策の実現よりも、政策をテコとした対立・劇場型の設定を考えるようになったのではないか。その観点で見てみると、一連の抗争が、うまく辻褄が合う(第1回目)。
■石丸ファンは、石丸市長は仕事をしていると考えている
 したがって、私の立場では、石丸市長は、これといった仕事をしていないという評価になるが、石丸ファンは、大いに仕事をし、地方自治の旗手のような評価さえする人もいる。
 この事実の認識(思い込み)が、ポピュリズムの下地になっているのではないか。
 そこで、石丸ファンの人たちは、石丸市長の仕事について、どのように評価しているのか、興味を持った。
■石丸市長が「おっさん」だと思った理由
 
私は評価が甘い方であるが、それでも3年半の任期のうち、石丸市政には、見るべき施策がほとんどないというのが私の感想である。しかも、行った施策の発想も行動も銀行員の経験にとどまっているのが印象的である。
 それでも最初は仕方がない。だれだって最初はある。経験を積みながら、新たに学び、広げ、深めていけばよい。若者ならば、特にそれができる。
 ただ残念ながら、その進歩が見えないので、第1回目に「おっさん」と書いた。
■成功体験はあるのだろうか
 仕事の種類はいろいろだが、多くの仕事では、win・winが基本である。一人勝ちは、その時はいいが、次はなく、結局、長続きしない。それぞれがwinと感じられるような落としどころを見つけて決着するのがポイントというのが私の体験でもある。
 だから、win・winには、相手方への尊重や信頼、話し合いや譲り合いが必要になるが、これは石丸市長の苦手とするところだろう。
 こうした振る舞いが得手とは思えない石丸市長は、勇んで銀行に入ったものの、ずいぶんと苦しんだのではないか(堀治喜さんのnoteを参照)。
■石丸市長を応援する人も社会体験が乏しいのではないか
 石丸市長を応援する人も、こうした社会体験、とくに成功体験が乏しいのではないかというのが私の仮説である(この点は別の機会に考えてたい)。
 ただ、ネトウヨが、必ずしも、ねぐらで、引きこもりではなく、むしろ小事業者や中間管理職、企業を退職した(社会生活を体験した)人たちであったとされるように、これもステレオタイプ化した思い込みかもしれない。  
 ただし、逆にそうだとすると、さらに問題は厄介である。これは仕事をしているからと言って社会性があるという訳ではないということで、会社生活における社会性は、単なる会社性ではないかという問題である(勇んで地域デビューした定年退職者にときどき見る)。
■応援ブログに参加して議論してみた
 本来ならば、これらの人を対象にした本格的な調査が必要である。反知性主義やポピュリズムの嵐にさらされる民主主義の問題という日本の未来に関わる問題なので、研究機関による体系的な調査は必要である。
 ただ、本格的な調査は別の人に委ね、私としては、石丸市長応援ブログ(「安芸高田市応援!市政刷新ネットワークの誤りを正す通信」(以下、ブログ))に参加してみて、その一端を垣間見ることにした。

1.石丸市長がやった仕事をあげてほしい
■石丸市長の成果をブログで聞いてみた
 「教えてください。石丸市長の成果には、どんなのがありますか?
 成果ですので、問題点の指摘だけではダメですよ。会社で、そこが問題だと言っても、「評論家じゃないぞ」とどやされます。結果(成果)を出してこそ仕事です。
 問題を提起し、課題を克服して、具体的に、こんな結果(改善や新たな政策提案)を出したと教えてください。
 たくさんだと調べるのが大変なので3つでいいです。よろしくお願いします」
■スルーされたようだった
 率直に言って、成果を3つを上げるのは難しいと思ったが、応援団から見れば私からは見えない成果もあるだろうと、しばらく見守った。
 そのうち、「ここは市政刷新ネットワークの当該記事への反論を言うための場なので、意見への募集であればほかの方法をとればよい」。「そうしないと場がぐちゃぐちゃになると思う」という意見が出た。
 しかし、石丸市長の成果は、市政刷新ネットワークへの大いなる反論になるのではないですかと反論して、この話は収まった。
■成果は行政改革・経常収支の改善である
 その後、直接私への答えではないが、(おそらく私の質問を意識して)、メンバーが成果として挙げていたのは、経常収支比率を下げたことだった。誰もできなかった行政改革をやったということである。
 ちなみに、議会との問題が成果として出されるかと思ったが、出なかった。私とすると、「3年もやって、ちっとも前に進んでいないではないか。評論家じゃないので」的な答えから、問題の意味を掘り下げていきたいと思っていたが、ブログに参加した1か月では、このテーマでの議論の機会がなかった(議会の問題は、次に取り上げたい)。
 以下では、応援団の人たちが成果としている行政改革・経常収支比率の改善を考えてみよう。

2.行政改革・経常収支比率の改善
(1)経常収支とは
■経常収支とは

 経常収支比率とは、 財政構造の弾力性をみる指標で、数字が高いと行政運営に弾力性(余裕)がなく、政策的(自由)に使えるお金が少ないことを意味している。
 経常収支98%というのは、収入の98%を日々の暮らしで使っているということなので、余裕はなく、それを少しでも減らそうという主張は真っ当なことである。
■ここでは大げさにPRする手法が功を奏したように見える
 この点では、石丸市長の発信力は極めて高い。
 実際、私が参加したブログでは、「カットすれば市民は疲弊しますが、カットしなければ、いつもの暮らしから一転、死刑宣告を食らってもおかしくない状態だったのでは。何度もになってしまいますが、経常収支比率98%とは本当にその一歩手前だと考えます」という意見が何回か出ていた。
 私とすると、応援団の人が、経常収支100%を越えると死刑宣告になってしまうと信じているのは興味深かった。
■令和3年は、国のかさ上げで黙っていても経常収支比率は改善した
 地方財政白書によると、石丸市長が市長になった令和2年の全国の経常収支比率は93.8%になっている。この時はコロナ禍で、減収補填債などの特別ボーナスが加算されたが、それを除く平常運転で見てみると、全国平均で100.4%になり、死刑宣告の100%を超えている。
 興味深いのは、翌年の令和3年になると、経常収支比率は全国軒並み改善していることである(5.7%も改善された。経常収支比率88.1%。特別ボーナスを除くと94.6%)。これは「臨時財政対策債償還基金費の創設を含む普通交付税の再算定による増加や地方税の増加等」が理由とされている。つまり、国が経常収支計算の分母をかさ上げしたので、全国一律に経常収支比率が良くなっているのである。
 要するに、令和3年は、黙っていても経常収支比率は改善している(石丸市長の行政改革寄与分はあると思うが、どのくらいあるのだろう)。
■ちょっと苦しいように制度設計されている
 自治体が目一杯になるというのは、構造的な理由がある。地方はたくさんの仕事をしているが、そのための必要な税金を国は地方税とせずに国税と位置付けて、国が吸い上げてしまうからである。
 だから地方はいつも赤字状態になる、ただ、これは悪いことばかりではなく、国が吸い上げて、全国どこでも平均になるように税金を再配分している。だから日本では、どこに住んでも同じような暮らしができる(地方交付税等)。
■死刑宣告(100%超)された自治体は51自治体
 令和2年度の地方財政白書では、経常収支比率100%超えの市町村は、51あるという。
 たとえば、東京の小金井市は、平成24年に、経常収支比率が100%を超えてしまったが、小金井市の人たちは、いつもの暮らしから一転、死刑のような暮らしになったのだろうか。
 神奈川県三浦市は何年にもわたって100%を越えている町であるが、みんな死んではおらず、週末になると、マグロを食べる観光客でにぎわっている。
■税金は銀行の預金とは違う・支払ってくれた人に100%返すのが基本
 銀行の預金ならば、切り詰めて浮かしてニヤニヤするのもいいが、こちらは税金である。税金では税金を支払ってくれた市民に対して、100%返すのが基本である。貯めたというのは、見積もりが甘かったか、税金を取りすぎたということである。
 あえて浮かす場合は、浮かして何をやるかが重要である。

(2)若者市長に期待したが
■浮かして何をやりたいかが見えてこない
 家庭ならば、生活を切り詰めて、家を買おうと考える。
 それには、新しい家で暮らす楽しい未来や、何年がんばろうというスケジュールの共有、そして家族みんなの協力が必要になる。
 安芸高田市の経常収支の取り組みでは、この未来への夢が、ちっとも見えてこない。だから、いつまでがんばったらいいのかわからない。
 経常収支は、市民の暮らしそのものだから、家族の協力が不可欠である。まちのみんなが頑張らないと改善できない。それには、まちのみんなの理解と、よしがんばろう(「がんばる」は我慢だけではない。新しい収入を増やし、重複した仕事を減らすななどの工夫も)との決意が必要である。
 それには、市民の中に入って、がんばる意義を説き、先頭に立って旗を振るというリーダーのリーダーシップが必要である。
 颯爽と現れた若者に、私は大いに期待した。
■役場は身軽になるが、市民は疲弊してしまう
 どうみても、今、行われているのは、未来への展望やまちの人たちとの連携のない経常収支比率の削減である。これでは、「役場は身軽になるが、市民は疲弊してしまう」。何のための経常収支の改善なのか、まちの人は困惑するばかりだろう。
 これでは銀行は助かるが、銀行を頼る中小企業はつぶれるというかつての様子に、ダブって見える。 
■食事3回を2回にするのではなく
 たしかに3食を2食にすれば、経常収支比率は下がっていく。でも、日本はまだまだ高齢化が進み、今後さらに社会保障の扶助費は増えていくのは確実である。このやり方では、そのうち3食を1食にしなければいけなくなるだろう。
 自治体の経営者が考えるべきは、3食きちんと食べつつ、食べるものや食べ方を工夫し、あるいは自給の手段を考え、あるいは市民同士で、お互い融通しあって無駄を防ぐなどの仕組みづくりと実践の後押しである。
 清新な若者のパワーで、こうした展望を示し、市民の中に飛び込み、市民を巻き込みながら、市民のやる気をまとめ上げてほしい。しかし、そんな期待もどんどんしぼんでいった。
■長い話になった。本論はポピュリズムである。しかし、こんな長い話をしても多くの市民に伝わらないであろう
 ここまで書けば、単純な経常収支の引き下げではダメなことが分かるだろう。ただ、ここまで読むのは、noteの読者ぐらいで、切り取り動画が好きな人はスルーだろう。
 資源動員論によれば、分かりやすい定義が第一である。その論に従えば、分かりやすさの点では、ポピュリズム側に完全に負けている。正確なことを簡単に伝えることに成功していないからだと思う。
 逆に言うと、正確なことを簡単に伝える技術の開発が、ポピュリズムのいなし方の一つといえる。この分野の専門家の奮起が期待される。

3.地方自治の旗手を考える
(1)20年も前の経営手法
■二項対立型の発想
 
 日本は削減の長い時代を過ごしてきた。その結果、未来につながる資源(人も技術も)を切り捨ててきた。その結果が、今日の惨状である。
 石丸市長の発想は、二項対立型である。だから、簡単に善と悪にきりわけることができる。石丸市長は、本当はもっと複雑な人であるが、市民が勧善懲悪を期待しているから、そうしているのかもしれない。あるいは、それはうがちすぎで、本当に単純なのかもしれない。これは職場の同僚に聞けば、すぐにわかるだろうが、私にはこれ以上は分からない。
 二項対立の思考が、仕事で表れるのが公私を二分する発想である。
■婚活支援の中止
 私の石丸市長歴は、安芸高田市の市長になった最初からである。ブームになってファンになった、現在のにわかファンよりずっと石丸市長歴は古い。
 石丸市長が最初に行った仕事の一つに、婚活事業の中止がある。
 この事業は、町のボランティアである結婚相談員が相談に乗り、登録者に相手を紹介したり、出会いの場となるイベントを実施するものである。中国新聞によると、サポートするボランティアが18人もいて、これまでに58組の成婚につながったそうだ。すごい。
 ただし、この安い経費で親や若者に喜ばれる婚活事業を石丸市長は、「行政が関わることで結婚しないといけない、子どもを持たなくてはいけないという強迫観念が助長されかねない」、「異性婚を前提とし、LGBTの方々への配慮も欠いている。今の時代では公共性が損なわれている」という理由で中止した。
 この判断の根底には、公と私を峻別し、役所は私的なことに関わらないという考え方があるのだろう。
■別に結婚を迫っているわけではない
 補足すると、役所が少子化対策のために、結婚を勧めるなどは論外で余計なお節介である。ただ、この事業はそうではなく、なんとか息子にお嫁さんをと考えている親や、相手が見つからずに困っている若者に「寄り添う」だけの話である。別に結婚を迫っているわけではないし、誰も迫られてるとは思っていないだろう。少子化対策はあくまでも結果である。
 この時代、大勢のお節介なボランティアがいて、この事業をサポートしているのは「無形の資産」と考えるべきである。
■私なら逆にLGBTの結婚支援まで事業に発展させるだろう
 さらに補足すると、私は若者ではないが、私なら、この制度を「異性婚を前提とし、LGBTの方々への配慮も欠いている」と考えて「中止」にするのではなく、逆に、LGBTの人たちの「結婚」の場に、この仕組みを「発展」させるだろう。

(2)公と私を峻別し、行政は私的なことには関わらない
■孤立死の問題はどう考えるのだろう

 婚活は私的なことなので、行政は関わるべきではないと考えると、では最近増えている孤立死の問題はどう考えるのだろう。
 背景には、高齢者単身世帯や高齢夫婦二人世帯の増加という家族の形態の変化がある。本格的な調査がないので正確には分からないが、孤立死は、今後も増えていくのは間違いない。
 社会的孤立は問題であるが、他方、一人でいるのも権利である。一人でいたいという人にみんなで一緒にいろということはできない。その側面をとらえれば、孤立や孤独死問題に役所が取り組むべきではないという議論になってしまう。
 私的なことだと切り離して、行政が取り組まなければ、経常収支は確実に改善する。
■福祉だって
 そう考えると福祉だって、究極的には、個人や家庭の問題である。現在では、どこの市町村でも、マンパワーと税金の半分は福祉に使われているので、これを切り離せば、経常収支比率50%達成も夢ではない。
 元気な人には、福祉は関係ない話なので、生活保護に金をかけるべきでないという人もいるので、案外、福祉の削減は喝さいを受けるかもしれない。
 でも、人は必ず福祉の世話になる。生まれて大人になるまでの間に福祉の世話になってきたし、高齢になり死ぬまでには、福祉の世話にならない人はいない。そんな簡単な想像もできない人が、案外、多くいるからである。

(3)委託を止めて直営に
■ブログから・直営で目からうろこ
 安芸高田市は、委託を止めて直営にするという方法をとっている。ブログにはこんな投稿もあった。
 「経費節減のため指定管理とするのではなく、経費節減のため指定管理をやめて直営にするという発想は、まさに「目からうろこ」です」。
 石丸市長は、観光協会を兵糧攻めで廃止に追い込み、駅舎の管理を指定管理から直営にした。
 応援者は「目からうろこ」であるが、私は「目が点」になった。
 直営化は、経費の節減だけが目的ではないだろうが、応援者(おそらく石丸市長も)は、外部委託経費を減らして、直営にすれば経費は減って、ハッピーと考えているのだろう。
■昨日まで税金を集めていた人が観光をやる
 言うまでもないが、経費を減らすことが主たる目的ではない。限られた経費で最大限の効果を発揮するが目的である。大きな効果を得るために、投資することも必要である。
 直営にすることで何が起こるのか。昨日まで税金を徴収していた職員が異動してきて、今度は観光の仕事をやるのである。
 仕事はマニュアルだけではうまくいかない。経験のなかで覚えるノウハウもある。人とのつながり・人脈も大事である。自己紹介から始めるのと、いきなり実は・・・と話ができるのでは、成果はまるで違ってくる。
 そして、ようやく覚えたころ、3年たつので人事異動になる。
 次は、今まで住民票を交付していた職員がやってきて、またゼロから始めることになる。

(4)20年前からの問題提起
■公と私の峻別論では時代をとらえることができない
 社会の構造が大きく変わった分岐点は1990年代の半ばだろう。ちょうど阪神淡路大震災があった。人口ボーナスの終わりが見え始め、人口オーナスの時代に入った時期である。
 人口ボーナス時期ならば、税収も豊富で、行政もその力を発揮できた。しかし、人口オーナス時期に入り、税収の陰りが見えるとともに、高齢化も急速進んだ。1970年には3.5兆円に過ぎなかった社会保障給付費は、2022年には131兆円にもなっている。同時に、多様な価値観の時代に入った。
 この時代、税金を原資とし、画一性を行動原理とする行政では対応できない課題が増えてきた。
■これは10年以上も前に言われたこと
 公私峻別論では時代を捉えることができないということは、私が言い出したわけではない。「新しい公共論」と言われるもので、今から、10年以上も前、2009年に鳩山首相が施政方針演説で打ち出した。
 この新しい公共論は、簡単に言うと、民間が担う公共もあるという考え方である。石丸市長のような公私を二分する考え方ではなく、その中間領域もあり、そこには公共を担う民間が活躍する社会をつくらなければ、日本の未来はないという問題意識とその提案である。
 鳩山元首相は、どうかと思うことも多いが、時代を見据えた提案であることは間違いない。
■実際その通りになっている
 市町村で大きな課題の一つが、空き家問題である。本来ならば、家は財産権の最たるもので、家の管理は私的世界に属することである。それが今では公共課題となってきた。
 すでに見た孤立死も同じ問題である。3世代家族が普通だった時代は、孤立死など極めて例外だった。今は、3世代家族は4%になり、家族形態のメインは、単身高齢者世帯、高齢者二人世帯になった。ここでも今までなら、私的世界で解決したことが公共課題になってきた。
 公共性を帯びた私的領域は、その他、あらゆる分野で大きく広がっている。この新しい公共領域にどう踏み込むか、先進的な自治体は、挑戦を行っている。
■公共性を帯びた私的領域の課題には、市民の力を引き出すしかない
 公私を峻別し、それは私的世界だからと切り捨てては、もはや地方自治が成り立たない。 
 他方、私的世界に公務員が踏み込めば、公権力による権利侵害と言われ、たじろいでしまう。行政の行動原理である公平性や公正性に従って、手続的公正を踏んでいると、孤立死などは手遅れになってしまう。
 残された方法は、隣近所、自治会・町内会、NPOといった地域の身近な民間の力をどう引き出すか。今、自治体の政策競争は、この分野に移っている。
■今の時代の地方自治の旗手は
 だから、自治の旗手と言われる人たちは、この公共性を帯びた私的領域に果敢に挑戦している人たちである。
 空き家問題では、埼玉県所沢市が、すでに2010年から取り組んている。国は、あわてて、それを後追いして空家法をつくった。
 足立区の孤立対策を見てほしい。町をあげて、取り組んでいる。
 奈良県生駒市や愛知県新城市では、行政の仕事の中心に市民を採用し始めた。市民の公務員化である。
■安芸高田市にもチャンスはあった
 安芸高田市の婚活支援も、公共性を帯びた私的領域の活動である。これはチャンスだったと思う。この制度が、「異性婚を前提とし、LGBTの方々への配慮も欠いている」と気づいたならば、後ろに戻るのではなく、前に進め、LGBTの人たちの「結婚」の場といった方向に進めばよかった。その制度設計は容易ではないが、それをやっていたら今ごろは、ネット世界ではなく、ほんものの地方自治の旗手の評価を受けただろう。
 私の仮説は、石丸市長は市長に向いてないと気づいて、ひろゆき的位置への転進を始めたというのものであるが、その意味では、ここは分岐点だったのかもしれない。前に進んでいたら、今ごろ、新時代のリーダー市長という評価を受けたかもしれない(国政からも引く手あまただったかもしれない)。
■周回遅れのトップ
 以上の議論を踏まえて、石丸応援団の人たちは、公私の峻別論、経費節減のための直営化、削減一直線の取り組みを見て、どう評価するのだろうか。
 周回遅れのトップにいるので、応援団には、あたかもトップに見えるのだと思う。

(6)この項のまとめ
■まとめておこう
 合併後の公共施設のあり方などにも触れようかと思った。合併で市域が広くなった分、かつての一極集中論では対応できなくなったからである。広域合併に起因する新たな地域分権論であるが、お正月休みも終わり仕事にかからなければいけないし、またさらにページを増やすことになるので、この問題は機会があったらにしよう。
 まとめておこう。
 これからの地方自治では
 ・無駄の排除は必要だが、削減によって実現する未来の姿を示す構想力
 ・公共性を帯びた私的世界に果敢に挑戦する先取性
 ・市民の力を引き出せるリーダーシップや市民に寄り添う力
 これができる人が地方自治の旗手と言える人だろう。
■市民は水戸黄門がやはり好きなのだ 
 しかし、こうした肝心な議論が伝わらずに、議員は悪という善悪の二項対立論に席巻されてしまった。やはり人は水戸黄門が好きなのだろう。
 たしかに勧善懲悪のドラマは分かりやすい。その結果、多くの市民が政治に関心を寄せたかのように見える。だが、その実態は、あくまでも観客席からの傍観者の位置から、「政治のエンタメ化」を楽しんでいるだけではないか。
 水戸黄門と政治のエンタメ化で、ポピュリズムはさらに加速してしまった。ポピュリズム側は実に手強い。

次は「判決文の読み方」を考えてみよう
 
安芸高田市石丸市長を素材に、ポピュリズムの時代をどういなすのかを考えている。
 ひとつのポイントは勧善懲悪型の二項対立論がポピュリズム側の強みであるが、それに対して、正確なことを分かりやすく伝えることの難しさが、ポピュリズムに対峙しようとする側の弱さではないか。
 石丸市長をめぐる2つの判決では、マスコミの読解力の弱さを実感した。マスコミ論は専門ではないので、感想レベルになるが、この問題を考えてみたい。

 


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