雑記

昨日で31歳になりました。

相変わらずいろんなことが定まりません。それでも少しずつ見えてきているものもあるのかな…、ないのかな…?

最近福岡への移住は吉本ばななの『キッチン』の田辺雄一が母親?を亡くした際に見せた、彼の訳わかんない人生からの逃避行にとても似ていたな〜としみじみ思いました。

それでいて、ヒロインみかげのように彼にもっと大変で辛くて楽しい所に一緒に行こう!なんて直接的にぼくに呼びかけてくれる人がいる訳もないので、自分で頼れるものを頼り、使えるものを使っていくなかで整理していくしかないな〜と。

移住を通じて「関東にいた頃の自分」とは違う文脈に突入したからか、こちらで新たに生きていくために必要な自己物語の点検や再編作業があるようなないような…。

関東にいた頃にミラクルクエスチョンを尋ねられたら、確実に身内の状況の変化がトップ3に入り込んでいたと思う。けど福岡に来てから最近のぼくには「記憶や経歴を無くしたい」とか、そんなようなことを「問題解決の理想形」として挙げたくなっている気分がある。

つまり、より自分自身に問題が焦点化されるようになった。ある意味家族からの精神的自立のタイミングでもあるのかもしれない。けど身一つ放り出されても、今後の自己物語がどこに接続していくのか、どう展開していくのか皆目見当がつかない。

福岡に来て、しばしば「そうやってしか生きてこられなかったのだろうから!」と声をかけてくださる人がいる。まさにそうで、ぼくは「その生き方」しかしらない。早く「違う生き方」を見つけたい、創りたい。

だから点検や再編、ふりかえり作業が必要そう。

カウンセラーに上記のような内容を話して返ってきた言葉は印象的だった。

身内亡くしてどうにもしんどい時に寝る場所探っていったらどんどんキッチンに近づいていったみたいに、川田さんも生きやすい場所を求めて動き回ってるんだろうから…云々。

その時々で生き方のロールモデルになるような人とかを見つけて、それに近づこうとしてきて今があって、とにかく今を生き抜きいてきたのだろうから…云々。

最近、自分の自己物語の次の展開がまったく見えてこない。内心、早く次の展開が知りたいのに。

いろいろあって自分の過去を全て背負ったり抱えたりしながら生きるのがとてもしんどく億劫になることがしばしばある。それでもどこかにそういうものに負けず、より良く生きたいんだ!と強く想う・願う自分もどこかにいつもきっと、いる。

楽しく幸せに生きるために福岡に来た!という語り方をしていた。最近は少し表現を変えて、訳わかんない過去を抱える自分でも楽しく幸せに生きられるのかな〜?という問いを立ててみている。

楽しく幸せに生きる「ため」が強調されると、福岡で起こるあれこれに対して、「ため」に来たのになんでこんなことばっかり!という反発が起きやすい。それより問いとして立てる方がトライアンドエラーに対して前向きになれる気がする。

問いとして立てれば、すべてが楽しく幸せに生きるための実験・検証過程に変わるのだ。

最近人から槇原敬之の「遠く遠く」を教わった。

遠く遠く 離れていても
僕のことがわかるように
力いっぱい 輝ける日を
この街で迎えたい
僕の夢をかなえる場所は
この街と決めたから

蛮勇を発揮して、ぼくが楽しく幸せに生きるための場所として福岡という地を選んだ経緯がある。けどその「楽しく幸せに生きる」というぼくの夢をかなえる場所はこの街だ…!とまーだ全然腹括って決められていないな〜…と痛感させられた。

この一年はそんな風に決められる自分になりたいから、適宜支援付き自己決定を活用しよう←

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