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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[127]第6章 北の鉄窯を巡る旅

                          安達智彦 著 

【この章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 海を越え、匈奴を訪れたヒダカの青年。モンゴル高原を巡る
エレグゼン ∙∙∙ ナオトに教え、教えられて視野を広げていく匈奴の若者
メナヒム ∙∙∙∙∙∙∙∙ 匈奴巡回の一行を率いる匈奴の守備隊長。エレグゼンの伯父
ザヤ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 匈奴の娘、エレグゼンの従妹。ナオトを慕う
バフティヤール ∙∙∙∙∙∙∙ ザヤの兄。メナヒムに従い、匈奴国をともに巡回する
バトゥ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ メナヒムが信頼する古くからの戦友。他の四騎と匈奴国を巡る
キルギス兵 ∙∙∙∙ バイカル湖岸を離れ、メナヒム一行をトゥバまで案内する
イシク ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ タンヌオラ山脈の北、トゥバに住む腕のいい鍛冶。ニンシャ人
 
「第6章 北の鉄窯を巡る旅」のあらすじ
 年が明け、霜も解けた早春。エレグゼンの伯父のメナヒムは、匈奴の左賢王――匈奴王である単于ゼンウの弟――から匈奴国巡回を命じられた。
 まず北のバイカル湖に行き、そこから西のトゥバに転じて、アルタイ山脈の東麓を回って戻る。はがね作り再現の噂を確かめ、トゥバとハカスで産する黄金を運び出す経路をあらためるのが目的だった。
 左賢王の信頼が厚いとはいえ、守備隊長であるメナヒムは鉄作りについては何も知らない。エレグゼンの勧めを受け入れて、物作りを知り、馬を乗りこなすようになったナオトを同行させると決めた。
 南の敵国ハンにも、西の烏孫ウソンにも、匈奴が鉄や鋼を作りはじめたと知られるわけにはいかない。目立たないようにと、わずか五騎での隠密行だった。
 一行は、モンゴル高原の辺縁をおよそ一月かけて西回りに旅し、途中、タンヌオラ山脈の北の産金地トゥバに立ち寄った。メナヒムがその地で育ったことを、ナオト以外のみなが知っている。
 この旅でナオトは、フヨの地にいたときに見逃した鉄作りの現場を、窯の作りから火の入れ方、それに、叩いて鍛える鋼の作り方まで間近で見ることができた。
 タンヌオラの山中、エレグゼンが初めて父の墓前で頭を垂れた後に、アルタイ山脈の東麓を南に下った一行は二手に分かれた。
 その後、エレグゼンとナオトは南の沙漠の北の縁に位置するオアシスの国ハミルに向かった。敵の追っ手の目をくらまそうというエレグゼンの計略だった。
 ハミルのバザールでナオトは、鉄を焼くのに使おうと様々なものを買い込んだ。二人はその後、新たに求めたラクダの背に荷を載せて沙漠ゴビを東に向かった。                【以上、第6章のあらすじ】
 

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第1節 バイガル湖を目指す
 
[127] ■1話 左賢王の使い             【BC91年4月末】
 紀元前九十一年、春。
 凍っていた川がようやく溶けはじめた。遠くに鳥の鳴き声が聞こえ、枝の間から光が射す朝、冷たい川水で顔を洗うときには霧の上り立つのが見える。
 こうして、ナオトにとって初めてのモンゴル高原の厳しく長い冬が終わりを告げた。
 季節の変わり目を教えるのはいつだって光と風だ。それは、ヒダカでも北の高原でも変わらない。モンゴルの春は、かすかな南風とともに訪れた。次第に強くなる日射しに、地面を覆っていたしもと薄雪が消えると、土が息吹を取り戻し、やがてその下から青々あおあおとした草の原が顔をのぞかせる。
 
 その年の五月、メナヒムの部族はケルレン川を北に越えて夏の牧地に移った。
 初めての狩りから戻ったメナヒムのもとに左賢王の使いが訪れ、営庭に呼び出された。
 北の湖バイガルの南岸に半ば定住し、胡人や漢人を交えて新旧の技をうまく使い分けながら鉄作りに精を出している北のテュルク族が、ついに、剣に使えるような鋼を生み出したらしいという話を単于が左賢王にささやいたのはごく最近だった。左賢王の身辺に、これを知る者はまだない。
 その話を左賢王から聞かされて、その日のうちに戻ってきたメナヒムはどことなく緊張した面持ちだった。丁零テイレイ族の鉄作りをまず見て、その後に、その丁零がよしみを通じている西の部族が作り方を見つけたと噂される強いボルドが、はたして、剣や槍先に使えるものかどうかを内々に探るようにと命じられたのだ。
 左賢王は、その西の部族がどことは言わなかった。だが、北の湖バイガルのはるか西方、アルタイの山の北側、ソヨン山脈をも越えた先のハカスの地ではないかとメナヒムは当たりを付けた。
 ――あるいは、弟とともに育ったあのタンヌオラ山脈の北の原かもしれない……。

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第6章の目次 【各節の初めへ移動するためのリンク】
 第6章1節 バイガル湖を目指す [127] 冒頭へ
 第6章2節 トゥバへの道 [132] へ
 第6章3節 青い水のフブスグル湖 [134]へ
 第6章4節 サカ人 [137] へ
 第6章5節 トゥバの鉄窯 [139]へ
 第6章6節 トゥバのニンシャ人たち [144] へ
 第6章7節 タンヌオラからオヴス湖へ [146] へ
 第6章8節 二手に分かれる [149] へ
 第6章9節 アルタイを越える [151] へ
 第6章10節 ハミルのバザールにて [156] へ
 第6章11節 沙漠ゴビ [159] へ

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