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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[132]北の湖(バイガル)から西へ

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第2節 トゥバへの道

[132] ■1話 遠征九日目 北の湖バイガルから西へ
 翌朝。メナヒムは、渡すよう託されたという木片を族長から受け取った。そこには、『タンヌオラの北の草原へ向かえ』という左賢王からの指示が、戻りの道順とともにソグド文字で刻んであった。予期していたハカスではなかったが、なるほどとうなづける場所でもあった。
 しばらく前に単于はこの族長を王庭に招いた。族長から多くの鉄製品の献上を受けた単于は、代わりに、シーナと西方から来た珍しい品々を与えた後で、直々じきじきに、左賢王が送ってくるはずの一行をタンヌオラの北の草原のトゥバまで案内するよう頼むと、半ば命じていた。
 トゥバの地はアルタイ山脈に連なって東西に延びるソヨンの山々の南麓に当たる。北の湖バイガルからはそう遠くないが、いつでも行けるというほど近くもない。
 単于の頼みだからと前置きして、丁零の族長は、トゥバには北の湖の西側から入るのがいいと勧めた。そのために、案内の騎兵を二名付けようと申し出た。メナヒムは、はじめは断わろうとした。しかしすぐに考え直して、族長に、
「お申し出を謹んでお受けしたい。先方に届ける物があれば、お預かりしよう」
 と丁寧に応じた。
 タンヌオラ山脈の北側を流れるオーログマレンゴルとその先のバヤンゴル――いまの、エニセイ川上流――に沿った高原地帯ならば、昔、近くに住み、狩りに出たこともあってどうにか土地勘がある。
 しかし、これを逆に辿たどり、北の湖バイガルからトゥバまでの道なきソヨンの山中を、いくつもの川を渡り、あるいは森と岩山をうようにして流れる川筋に沿って進むとなると、さすがに心許こころもとない。途中、積石オボ―を見つけ、それを目印にして進むということもあるだろう。
 岩だらけの山道と林間の獣道けものみちを往く難しさはよく知っている。ここは、土地を知る者に案内してもらうに限る。
 二人の案内の兵はハカス生まれのキルギス族の若者だった。挨拶あいさつを交わしながら顔付きを見る。この二人は確かに力になる。しかし、扱いを過てば脅威にもなるとメナヒムは肝に銘じた。
 こうしてメナヒムの隊は、合わせて七騎でタンヌオラ山脈の北側の草原まで足を延ばすことになった。急ぐ旅というわけではない。どういう道筋かにもよるが、九日前に発ってきた夏の牧地から数えて、左賢王の指示にある通りにオヴスノールを回るにしても、元の営地に戻るまで一月ひとつきと少しというところだろう。
 しかし、ソヨン山脈の北と、ハカスからアルタイの西麓にかけては匈奴国に従わないテュルク族やサカ人がいる。ソヨン山脈の南麓にも、匈奴と敵対してはいないものの、サカ人から分かれた小部族が点在している。
 ――案内の二騎が仮りにこちら側に付くとしても、たった七騎では、これらのどの部族と遭遇してもあやうい。

 単于の指令を伝え終わり、案内の兵に「気を付けて行け」と声を掛けた族長は、無事に単于の使者を送り出して一息ついた。
 ――単于は、なぜここまで我らの鉄作りについて知っておられるのだ。木炭すみの焼き方だと。そもそも、木炭がすべてを決めるということ自体、匈奴のうちでは誰も知らぬはずではなかったか。もしや、我が部族の内に単于に通じている者があって、いつなんどきも我らの動きを見張っているのでは? 気を付けねば……。

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