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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[129]冒頓単于生誕の地

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第1節 バイガル湖を目指す
 
[129] ■3話 冒頓単于生誕の地
 馬上で前後に揺られながら、道々、エレグゼンは匈奴の一族が日常必要なものをどのようにして手に入れるかなどをナオトに問わず語りに話した。それを、すぐ後ろでゆったりと騎乗するメナヒムが聞くともなく聞いていた。決して急いではならない、長い、長い道のりだった。
 ナオトは遊牧の民、匈奴が、どのようにしてここに至ったかを改めて知った。
「漢人はとどまり、耕やす。我ら匈奴は、飼い、追う」
 と、エレグゼンは言った。
「それが、ここ数百年の間、変わらず続けられてきた異なる二つの部族の異なる営みだ。

 我ら一族の歴史で、最も偉大とされる王に冒頓バガトルがいる。
 冒頓単于ゼンウは、夏と冬の牧地の間を行き来してヒツジを追いながらばらばらに暮らしていたモンゴル高原のすべての部族を合わせて、大きな国を築き上げた。百年近く前のことだ。
 我らはこの国をヒョンヌという。昔、シーナ人と商いをするソグド商人たちがよく言っていたそうだ。シーナはこの国を匈奴キョウドと呼んで心底しんそこ恐れている、と。
 いまから百年前、頭曼トウマン単于の時代には、東に東胡トウコがあって絶えず我ら匈奴を圧迫していた。また、西には月氏ゲッシがいて、いま漢人が河西カセイと呼ぶ一帯からアルタイ山脈にかけての広大な土地を支配していた。河西から西のジュンガルにかけては、今も昔も東西交易のかなめの土地だ。そこを月氏が抑えていたのだ。
 モンゴル高原の北方を見れば、タンヌオラ山脈から北のソヨン山脈までの間、それに、ソヨン山脈のなお北のハカスの地に住む堅昆キルギスまでもが月氏と結んでいた。そういう土地に、いま、れらは向かっている。

 頭曼単于の子が冒頓バガトルだ。頭曼は、冒頓の異母弟を自分の後継にしようと考え、邪魔になる冒頓を月氏のもとに人質として送った。ところが、匈奴が月氏を攻めたときに、殺されるはずの冒頓が駿馬を奪って帰還した。この武勇を喜んだ父の頭曼は万騎を与えて冒頓を左賢王にした。跡取あととりとして認めたのだ。
 冒頓バガトルというのは、勇者という意味のテュルク語だ。このテュルク族の勇者が、その後のモンゴル高原の力関係を変えた。
 冒頓に率いられて、匈奴は東胡トウコを平らげた。続く老上単于は月氏ゲッシを西にって、東西の交易から上がる利益を独占するようになった。交易するしなには北で産するきんや鉄が含まれていた。シーナ劉徹リュウテツ――前漢の武帝ブテイ――といういまの王が現れる前のことだ。冒頓は匈奴の真に偉大な王だった。
 冒頓単于はシーナ人が言う河西の地も手に入れた。前に話したが、いまはそこを漢が支配している。素晴らしい冬の牧地が、漢と、我らに背いてその漢に付いた者たちの手にある。
 いまの単于は、この河西の牧野を奪い返すと言っている。そのためにはどうしてもボルドがいる」
「鋼か……」

「匈奴は、馬で駆ける戦士の国だ。この匈奴には、東胡、楼煩ロウビアン白羊ハクヨウ堅昆キルギス丁零テイレイといった異なる部族が含まれている。お前の知り合いがそうだというキョウ族もいる。それぞれが違う言葉を使う。それを王である単于がどうにか束ねている。
 そのために単于は、年に一度、全部族の長を王庭に集めて話し合う。龍城リュウジョウの会というその集まりには伯父のメナヒムもばれる。
 そうした部族の規模は大小さまざまだ。中には、見掛けが匈奴とは全く違う一団がいる。お前が言っていたように、違う顔付きをしているのだ。この西の山のはるか彼方、タンヌオラの北の原に住んでいる我らの一族もそうだ」

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