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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[130]モンゴルの周囲に点在するイスラエルの民

 第6章 北の鉄窯を巡る旅
第1節 バイガル湖を目指す

[130] ■4話 モンゴルの周囲に点在するイスラエルの民
「タンヌオラというのは前にも聞いた。山のことだな?」
「そうだ。吾れはそのタンヌオラ山脈の北の原で生まれた。そこから西のアルタイにかけては、昔から、きんが採れるところとして知られている。亡くなった吾れの父も、伯父のメナヒムも、その北の原で育ち、金を掘る仕事を手伝っていた。木や金属で道具を作っていたのだ。吾れには胡人の工人たくみの血が流れている」
「アルタイの名はヨーゼフに聞いたことがある。これも山なのだな?」
「そうか、お前はまだアルタイを見たことがないのか……。タンヌオラよりもさらに西にある美しい山の連なりだ。麓を川が勢いよく流れ、周囲には多くの湖が散らばり、豊かな草原が広がっている。アルタイのもともとの意味を知っているか。黄金きんとともに、だ」
きんか……。お前が言う胡人とはソグド人のことか?」
「ソグドではない。しかしソグドとともに暮らしていることもある。我らの間ではイスラエルの民という。アブラムを祖とする一族だ。ナオト、もしかすると、お前が探しているのはそのイスラエル人の集団が作る器かもしれない。我らは、もともと、ものを作るのに長けているのだ」
「そのイスラエルの人々はお前と同族なのか?」
「そうだ。同族と言えば、ヨーゼフも、ウリエルもそうだ」
「……」
 ――ドルジは、ヨーゼフから同族だと言われたと話してくれた。イスラエルの人々はこのように広い土地に散り散りになっているのだろうか……。

「お前に林の中で初めて会った前の日、吾れらはウリエルを訪ねた。ウリエルは父のヨゼーフから木片をいくつか受け取っていて、その中に、お前の国、海の向こうにあるというヒダカのコメのことが記してあったという。吾れが覚えているのは一言だけ、ヒダカびとは戦さをしないということだ。
 その話を聞いた次の日に、なんと、あのような東の外れでお前を見つけたのだ。
 前に見たことなどあろうはずもないのに、伯父は、あれはヒダカびとだと吾れにはっきりと告げた。お前から何かを感じ取ったのだ。そして吾れに『客人としてもてなせ、ゾチロムトゴエ』と言った、匈奴の言葉で。お前が吾れに付けたあだ名のゾチロムは、そのはじめの一言だ。客人ゾチロムとは吾れではなく、お前のことだ」

 メナヒムの五騎は、三十年近く前にハン霍去病カクキョヘイ将軍が荒らして回ったという忌むべき伝説がいまに伝わる、まさにその道筋を進んでいた。
シーナを流れる黄色い川の上流に河西カセイの地がある。前に、三つの方角を同じ川が流れているなどということがあるのかと驚いていたオルドスの、その西に連なる土地だ。シーナ人は、かわの西の地域というのでそう呼ぶのだそうだ。
 昔、冒頓バガトル単于が支配下に置いて以来、匈奴は祁連キレンという美しい山並みの北側に広がる牧草豊かなこの河西の地を大事な冬の牧地にしてきた。匈奴にとって祁連は、まさに天の山のように、支配する土地の南にそびえていた。
 河西はシーナと戦う上で大事な土地だ。とくに、東西に細長い河西の中ほど、酒泉シュセンの北にある居延キョエンの砦は、その頃、祁連山脈の麓にいた我ら匈奴の大きな部隊と北に続くモンゴル高原の本隊とを繋ぐ要の位置にあった。
 その大事な酒泉が、漢の王が送ってきた霍去病カク将軍の率いる漢軍によって奪われた。いまから三十年前のことだ。『その名を決して忘れるな。漢軍を軽く見てはならない』と、れらは年長者としよりからいつも言われる」
「……」

「居延と酒泉を抑えられて、匈奴の三十万騎は大きく二つに分たれた。酒泉にいた数万の匈奴兵のうち三万余りが殺され、数千が捕虜になった。匈奴はこのときに河西を失った。単于がそれまで冬の王庭をおいていたほどの大事な土地が奪い取られたのだ」
「その捕虜たちはどうなったのだ?」
「多くは殺された。だが、漢の側に付いた者も多い。その元の匈奴が、いま、我らを悩ませている」
「……」
「そのとき以来、匈奴は咽喉元のどもとに短刀を突き付けられたような格好になった。
 漢兵がたむろする酒泉からオルホン川近くの匈奴の本拠地までは、沙漠ゴビとハンガイ山脈を挟んで北東の方角に馬で十日余りだ。その手前の居延キョエンからは、匈奴の騎兵が早馬を繋げば七日で駆ける。このような近場にある攻防の要の地が漢の手の内にある。
 霍去病カクは死んだ。しかし、漢の王の劉徹リュウテツはまだ生きている。いまでは、河西の西の天山山脈テンリタグまで、長い隙間すきまを埋めようとしていくつもの城を設けて兵を配し、それらを結んで守っている。
 匈奴が河西を失ってからもう三十年になる。いまの狐鹿姑単于は酒泉シュセンを奪い返そうとしている。近いうちにきっと河西の牧野を再び匈奴の馬畜で溢れるようにしてみせるとみなに言っている」

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