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今日も我が家は「私の介護回顧録 1」行政と福祉課、地域包括センター

「おはこんばんちは」
鈴丸 カエル🐸です。

季節の変わり目で体調が思わしく無い皆様、どうぞお大事にしてくださいませ。

またまた大きく脱線することになりました。

すいません、ちょっとお付き合い頂きたくお願い致します🙇‍♀️

先日、ヤングケアラー問題と銘打ってEテレで放送しておりましたが、もちろん若い人達が家族の介護をすることで勉強も学校生活も破綻しているというのは本当に心苦しい問題であるのですが、家族が介護しなくはいけなくなった時のプロセスが人によっては違いますが全くどうすればいいか?分からない人がいます。

私がそうでした💧



父が昔、今から20年近く前、宇都宮から遥か遠く福島の会津若松にあるスキー場の民宿で脳溢血で倒れ救急車で運ばれた急性期病棟で一命は取り留めたものの一進一退を繰り返していつまで福島に通わなけりゃいけないのだろう?

余りにも遠すぎる場所へ毎日のように行くことはとても負担を感じていて疲れていた。元看護師だった母が半ば無理矢理福島から宇都宮の当時の国立病院へ彼女のつてをたよりに移動したのでした。

それは簡単な事ではありませんでした。


それでもやっと地元に戻れた母も父も嬉しそうで気がつけば病院の周りの八重桜が満開なのでした。

福島で倒れて三か月くらい経っておりました。

正直、母も私も疲れておりましたが引き続き病院へ通わなくてはならず毎日があっという間に過ぎていくのでした。

母は自分が勤めていた病院にくると、知り合いの医師や看護師も多くて気も使うのか?私に目配せや顎で私に合図を送るので苦痛で仕方なかった。

そして、病態が落ち着いて来たら病院を移らなくてはならず、その手続きをしなければならなかった。

その度に介護申請、介護審査が行われた。
父の介護度は左半身麻痺で3か4だったとおもわれた呂律も回らず聞き取りが難しかった。

正直、それらがどういうものなのか理解していなかったのです。

毎日、リハビリがされていた。健康の森へ入院した父は嬉しそうでした。

私の1日は母を迎えに行き父の病院へ洗濯物を取り、母と必要な買い物をして母を送る、それで1日の全てが終わってしまうのでした。

我が家の用事はその合間にやっており家族の夕食を用意すると飲んで寝るのが精一杯、明日も又おなじルーティンが待っているのだった。

父が入院する前、私はパートの仕事をしておりましたがとても両立するとは思えず、そのまま父と母のサポートをしておりました。

その間、私自身、ストレスや更年期を迎え体調不良であっても動かなければならず飲む事だけが唯一の発散方なのでした。

そして、父が退院した時の為の実家のリフォームと部屋変えを我が家の皆様で協力して準備を整えておりました。

父は入院生活を楽しんでいる様で母は
「全く、入院慣れしているんだから!」と怒っていた。

この頃になると私達も交代にしたり、しかし、母も高齢のため私が進んで病院に通っていた。
その年の夏も半端なく暑い日が続いていて母の頭が輪郭が見えるほど髪の毛がなくなっていて母もストレスなんだろうなと感じておりました。

この頃の父の部屋と同室の方々のご家族様と情報交換なんかが出来て色々な事がうっすら理解出来る様になっていた。

リホームにも介護度でサービスが受けられる事など、そしていよいよ退院することになると実家の側のデイサービスの為の介護度を測らなくてはならず、その時初めてケアマネさんの存在を知ることになりました。

全てこの介護度で決まりがありサービスの度合いが違い、たびたびチェックすることになる。

程なくデイサービスが始まりリハビリも進んで実家での生活がスタートしていた。

退院すれば少し落ち着くだろうと考えていた私、それはとんでもなく思い違いである事を思い知らされるのでした。

それは父と母の間で苦悩することに・・・

元々、夫婦仲が良いわけでは無かったが父が好き勝手に外にに出ていたためで、顔を合わせる時間が少なかったので自由人であった父は、すっかり母のカゴの鳥になってしまったのでした。

母は父が退院すると俄然元気になり、看護師魂の理論と理屈で押しまくっているのでした。

ちょっと可哀想な気がしましたが自業自得と思っておりました。

しかし、あーでも無い、こーでも無いと箸の上げ下ろしまで指図されるのでそりゃ逃げたくなるはと思った。

幼い頃から両親を絶え間ない喧嘩を見つめて来た、何時もああはなるまいと心に決めておりました。


一番最初に困った事は父の体の不具合が出ると例えば体にアトピー性皮膚炎の様な湿疹がでて痒いので病院に連れて行って欲しいと頼まれた時でした。

私は二つ返事で駆けつけて連れて行こうとするも母は自分の判断で塗り薬をぬり、次の診察日で良いと言い、その為、
処置が遅れて父は長く我慢することにそして、結果飲み薬の副作用であったり、

眼科に行きたいと言っても、何回も懇願してやっと行ける状態だった。

ある時は腰が痛いと訴えても「そんなの寝てばかりいるからだ!」と必ず私と父の間に入り阻止するのだった。

私は意味がわからなかった、どうして無意味な労力を使うのだろう?と私は車も出せるし連れて行けるし面倒もみれるのに「行く必要がない!」と言うのだ。

なので父を病院へ連れて行くのは母の壁を乗り越えなければならず説得に時間がかかるのであった。

ただ、私も小さな頃、自転車で転んで捻挫して帰り右手が腫れ上がり病院に連れて行って欲しいとお願いしても「それは骨が折れている、勝手に出かけたからそうなるんだ!」と脅された経験があった。

何故?家族がすんなり病院にかかるためには救急車でも呼ばないと無理なのか?
と思うくらい病院にお世話になる事を嫌がるのでした。

仕方なく諦めた時もあった。

病院に入院していた方が楽だと思った。

母は言い出すと強行するので大抵言いなりになるしかなかったのです。

そして我慢ができなくなった父は半身麻痺の体で母を殴った。

咄嗟の事にびっくりして私は止めに入った、しかし母は考えを変えようとしなかった。

どうすることもできない私はかつて母のスタッフだった看護師さんに相談したのでした。

すると彼女は母に連絡を入れてくれ父の入院の手筈を準備してくれ母に休む様に促してくれたのでした。

後日、バツの悪そうに私に何で連絡したと怒ったが仕方なく受け入れたようだった。

すべてがこの様な展開にゴタゴタするので時に逃げ出したい気持ちになった。時に父と母の間にたち、「痛みや痒みの苦痛はその人にしかわからないから自分の判断で決めるな!」と怒鳴り制することもあった。

いつも父の入浴の介助をして着替えさせて帰るのだが家に着くともう何もできなくてただ父と母から離れられる事が安らぎであった。

私は父を介護するよりも母のサポートの方がしんどかった今思うとどうやって来たのか?記憶が無い所がある母が膝を痛めて歩けなくなったとき本当に大変だったが記憶がないのである。

福島にいる時も母は自分勝手に決めて私は振り回されていたのだった。

一人娘の宿命だった。

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