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ストーリー:ある教団での会話

(残酷描写あり)

前を歩く男の背中を付いていきながら長い通路を歩いた。やがて、一つの小部屋にたどり着いた。小部屋の中は薄暗い。壁にかかったろうそくが揺らめいて、室内をわずかに照らしている。

「一番前の席に座れ」壁の一面に、よく磨かれた石版が懸けられていた。そして、石版と向き合うように椅子が列を為して並べられている。私は、言われたとおり一番前の席に座った。

私をこの小部屋へ連れた男が、石版の前に立った。左手には本を広げ、右手にはチョークを握っている。男は、一拍、部屋をぐるりと見渡したあと、やがておもむろに口を開いた。

「ハルモニア教団へようこそ」決して大きくはないが、しかしよく透き通る声で男は挨拶した。「私はあなたの教育担当、ゼータである。新入り、我々はあなたを歓迎する。人生を懸けて数の神秘を探求せんとする者を、我々は拒まない。」

男は続けた。

「我がハルモニア教団は"数"こそ森羅万象の根源と信ずる宗教団体である。我が教団の入信条件はただ一つ、数こそこの世の根源だと固く信じることである。同志が増えて嬉しい。我々はあなたを歓迎する。」

落ち着いた口調で目の前の、ゼータと名乗る男はそう言った。一方私は、初めての場所、初めての人間の面で緊張するばかりであった。

ゼータはこちらを振り向いた。「さて新入り、あなたの名前を教えてくれないだろうか?」

緊張で身体が強張りながらも、努めて口を開き答えた。「デルタと言います。」

ゼータは続けた。「デルタ、あなたは我が教団に何を求めているだろうか?」「心の拠り所です。」「心の拠り所とは、どういうことだろうか?」「私は、とある事情で今まで抱いていた信念を失ってしまいました。足立つ大地が崩れてしまいました。私は新たな心の拠り所を、普遍の法則である"数"に求めています。」

「了解した。」ゼータは身体を翻した。「あなたの望みに対して、我が教団はきっと応えられるだろう。"数"に対する知識と経験は、我が教団がこの世界で一番だからだ。」

ゼータはこちらに背を向け、右手に持ったチョークを石版に立てた。「"数"を探求するには、まず"数"とは何かを知らなければならない。詩を探求するには、まず"言葉"に熟達しなければならないように。」

ゼータは石版に大きく"数"と書いた。そしてその下に、"世界"と書いた。

「まず世界ありき。現実の、"この世界"が存在する。ここが出発点となる。」「そして、共通の性質を抜き出して抽象化する。この方法はいろいろある。例えば、オリーブとアカンサスをまとめて"植物"とカテゴライズするように。」

ゼータは左手に持っていた本を机に置き、ポケットから"なにか"を取り出した。「抽象化する一つの方法に"数"がある。今、私の掌には何がある?」

ゼータは手を広げた。私はゼータがポケットから取り出したものを見た。「メダルです。」

「何枚ある?」「3枚です。」

「その通り。」ゼータはメダルをチョークに持ち替えた。

「次の質問だ。今、私の掌には何がある?」「チョークです。」「そして、何本ある?」「3本です。」

私は淀みなく答えた。

「正解だ。」「では最後の質問、デルタに答えてもらったメダルとチョークの共通の性質はなにか?」

私は答えた。「どちらも"3つある"ことです。」

「そう、どちらも数"3"で抽象化できる。メダルとチョークは別物だが、今の例ではどちらも"3つある"という性質でカテゴライズできる。これこそ"数"である。」

ゼータは声を大きくした。「大事なことを言おう。抽象化の一例として最初、オリーブとアカンサスをまとめて"植物"とカテゴライズした。では、メダルは"植物"だろうか?」「違います。」「その通り。一方、3枚のメダルと3本のチョークをどちらも数"3"でカテゴライズしたが、数"3"でカテゴライズできないオリーブはあるだろうか?」「ないと思います。」「なぜ?」「結局、オリーブを"3つ"集めれば、新しく数"3"でカテゴライズできるからです。」

「その通り。」ゼータは拍手して私を褒めた。「つまりこうだ。"植物"にカテゴライズできないものは存在するが、数"3"にカテゴライズできないものは存在しない。この事実こそ、我が教団が"数"を信条とする理由だ。」

ゼータは熱を込めて言った。「この世界に存在するものは、全て"数"を共通項とする。世界に存在するということは実体を持つことであり、即ちカウンタブル(数えられる)ということだ。だから、数を探求することは即ち世界の把握に繋がる。この信念こそ我がハルモニア教団の核心なのだ。」

私、デルタは今、ろうそく揺らめく薄暗い小部屋で、椅子に腰かけて座っている。

支えを失った心の拠り所に"数"を求めて、数日前に団体であるハルモニア教団の門戸を叩いたところだ。

丁度、なぜハルモニア教団が"数"を信条するかという話を聞いた。

石板の前に立つ男、ゼータが口を開いた。

「"数"こそ森羅万象の共通項、だからこそ”数"の探究が世界の把握につながる。ゆえに我々ハルモニア教団は日夜"数"について研究する。」

ゼータは続けた。「では次に、数にはどのような種類があるのかを話そう。初めの出発点は有と無、"ある"か"ない"か、つまり"$${1}$$"と"$${0}$$"だ。」

ゼータは石板に"$${1}$$"、"$${0}$$"と書き付けた。

「着目した対象が"ある"ことを数"$${1}$$"で表す。着目した対象が"ない"ことを数"$${0}$$"と表す。ここまでは理解できるか?」

「理解できている、と思います。」

「有と無の話だけでも深遠で、尽きない話題なのだが、先に進もう。この$${1}$$と$${0}$$という極めて単純な事実から、それはそれは豊かな数的世界が広がる。」

「今、有と無を概念として把握した、では次に、"加える"という概念を明確にしよう。着目している対象が"ある"とき、"$${1}$$"と表現する。例えば私ゼータが今、羊に着目しているとき、もし私の家に羊が"ある"のなら、『羊が"$${1}$$"匹いる』と言い表す。」

「ここで、もし『羊が"もう"$${1}$$"匹いる』状況ならば、どのように表されるだろうか……。これはこう書き表す。」

ゼータは石板に"$${1+1}$$"と書き付けた。

「今、着目している対象『羊が"ある"』という事態を"$${1}$$"と表したとき、その羊がさらに付け加わって"ある"という状況を"$${1+1}$$"と表す。これは、"このように概念を規定し、書き表すという決め亊を作った"という話だ。」

「"着目している対象"は自由に決めてよい。気ままに考えてもよい、状況に応じて適切に選択してもよい。私の家の羊の例では、いわゆる足が四本あって、毛に覆われていて、目鼻口がついていて、メェ~と鳴く"個体"を$${1}$$と決めた。この"個体"が”ある"ことを$${1}$$としている。」

「この羊の個体が"ある"ことを"$${1}$$"と表し、そして"もう一匹ある"ことは"$${1+1}$$"と表す、というのが今までの話だが、"さらにもう一匹ある"ことも同様に"$${1+1 + 1}$$"と表せる。」

私は首肯した。

「ここからが大切なことだが」

「"$${1}$$"と"$${0}$$"のみの数的世界に対して、"加える"という操作を付加すると、新たな概念の"数"が生成される。例えば"$${1+1}$$"であり、"$${1+1+1}$$"であり、"$${1+1+1+ 1}$$"である。このようにして次々に生み出される数を、我々は自然数と呼んでいる。」

「"$${1+1+1+ 1}$$"、"$${1+1+1+ 1+1}$$"、"$${1+1+1+ 1+1+1+\dots}$$"といくらでも作れる。そしてその度に"$${1}$$"を書き連ねるのは冗長で煩わしい。そこで便利になるよう、表記を簡略化する。」

「$${1}$$は$${1}$$、そして$${1+1}$$をまとめて$${2}$$、$${1+1+1}$$をまとめて$${3}$$、…。このように一字でまとめていく。以下、$${9}$$まで示す。」

ゼータは石板に次のように書いた。

$${1}$$$${2 \coloneqq 1+1}$$$${3 \coloneqq 1+1+1}$$$${4 \coloneqq 1+1+1+1}$$$${5 \coloneqq 1+1+1+1+1}$$$${6 \coloneqq 1+1+1+1+1+1}$$$${7 \coloneqq 1+1+1+1+1+1+1}$$$${8 \coloneqq 1+1+1+1+1+1+1+1}$$$${9 \coloneqq 1+1+1+1+1+1+1+1+1}$$

「最初、世界の絶対真理である有と無から初めて、対応する数$${1}$$と$${0}$$をしつらえた。そして、"加える"という操作を導入ことで$${2, 3, 4,…}$$という数を次々に生成していった。生成していった数をまとめて、自然数と呼ぶ。」

「数は世界を把握する根源だが、その中でも自然数は数の母胎である。全てはここから始まる。」

私はここまでの話を聞いて、思い浮かんだ質問をぶつけた。

「$${9}$$の次は何ですか?」

「その話は"掛け算"を説明した後にする。」

ゼータは手のひらをこちらに向けて、静止を促すポーズを取った。

「$${9}$$の次の数も新たな文字を対応させて、例えば$${\epsilon}$$なり$${A}$$なりで一文字で表してもよいが、少し、書き方を工夫する。そして、この話は掛け算という概念を説明したあとに解説する。」

ゼータは続けた。

「掛け算の話は、一旦脇に置いておく。まずは"加える"という操作、即ち足し算の概念を仕上げる。例えば、数"$${2}$$"、"$${3}$$"、"$${5}$$"の定義から、次の算術が成立する。」

$${2 + 3 \ = (1 + 1) + (1 + 1 + 1) \=1 + 1 + 1 + 1 + 1\ = 5}$$

「このようにして、一方の数ともう一方の数の足し算が成り立つ。足し算の成立根拠は自然数の定義に拠る。ここまでで、質問はあるだろうか?」

「特にないです。」

私には、特に疑問はなかった。

「今、足し算という操作を導入した。では、今度は逆の操作を考えられないだろうか? 仮置きの数$${a}$$を立てたとき、$${2 + 3 = a}$$に対して$${a = 5}$$を求める計算を今実演したが、逆に$${2 + a = 5}$$に対して$${a}$$を求める操作はないだろうか?」

私は答えた。「ないのであれば、新たに"そういう操作"を作ればよいのではないでしょうか。」

「その通り。"加える"という操作の反対、"引く"に対応する”$${-}$$”を新たに導入して、$${2 + a = 5}$$が成り立つ$${a}$$を$${5 -2}$$と表記する、という風に決める。」

今までの流れはこうだ、と言いながらゼータはチョークを動かした。

着目している対象があるか・ないか→$${1}$$・$${0}$$→足し算→自然数→足し算の逆→引き算

「今までの数の世界に操作を追加すると、また別の数の世界が産まれる、という流れを意識してほしい。特に、足し算→自然数の部分に着目してほしい。この部分から、引き算の次の矢印の先には何が来ると類推されるだろうか。」

「うーん、また新たな数、ではないでしょうか。」

「どんな数?」

「・・・、わからないです。」

「自然数の限界を補完する数的世界、と私の口から言ってもわかりづらいから、具体例を出そう。」

「足し算という操作を材料に、今、引き算という操作を作り上げた。引き算という操作を利用すると$${2 + a = 5}$$を成り立たせる$${a}$$の具体的な値を求めることができる、と今説明したが、これは一方の自然数ともう一方の自然数から引き算を通して新たに別の自然数を生成している。つまり、この例では自然数の世界で操作が完結している。」

「そうですね。」

異論はなかった。

「ところが、自然数の世界ではどんな場合でも引き算という操作を行えるかというと、そうではない。例えば、$${2-3}$$の答えは自然数にはない。」

「そこで、どんな場合にも引き算が行えるように自然数を拡張する。ここが重要。」

「自然数$${a}$$に対して、$${a + x = 0}$$を満たす$${x}$$を$${-a}$$と定義し、こう表記すると決める。この$${-a}$$、つまり負の数を新たに考案すると、引き算を自由に行える。」

「$${2-3}$$は$${0 + 2 - 3 = {1+ (-1)}+2-3 =(-1) + (1+2) -3  = (-1) + 3-3 = (-1) + 0 = -1}$$という経緯から$${2-3 = -1}$$が導き出される。」

「すみません、言いたいことがあるのですが。」

私は手を挙げた。

「話はわかるのですが、なぜそんなことをするのかがわからないです。」

「質問に答えると、」

「場合分けの煩わしさから解放される。自然数の世界だけで考えていたら『こういう場合は引き算できる』『こういう場合は引き算できない』と逐次判断しないといけない。それならば、自然数を負数まで引き延ばして、『どんなときも自由に引き算できる』としたほうが便利。」

「あとは、世界を描写する表現力が上がる。負数を設定すれば、『ゼータはボールを前方に10m投げた』『デルタはボールを後方に8m投げた』をシンプルに$${10m}$$、$${-8m}$$と表記できる。」

「納得しました。」

「では、休憩しようか。」

ゼータはチョークを置いて、部屋を出ていった。

頭の中で今までゼータから聞いた話を転がしていた。

しばらくすると、ゼータが戻ってきた。

ゼータは再びチョークを手に取った。

「足し算を材料に引き算という操作を作り上げた。同じく足し算を材料に、また別の操作を作り上げてみよう。」

ゼータは石板に「足し算→引き算」と書き、今度は 足し算  ↓と書き付けた。

「…自然な思考の流れ」

ゼータは口を開いた。

「『こういう操作が必要なんじゃないか』『こういう操作を新たに作れば便利になるんじゃないか』といった、思考の自然な流れが肝心だ。その流れさえ抑えていれば、むやみやたらに暗記する必要はない。」

私は同意した。

「足し算を使って計算していると、めんどくさいと思う場面がある。例えば、同じ数が連続したり……。」

$${3+ 3+ 3 + 3+ 3+ 3+ 3}$$

「毎度毎度書くのはめんどくさい、表記を纏められないだろうか。$${3}$$が$${7}$$つあるので、$${3}$$と$${7}$$を抽出して$${3 \times 7}$$という操作、掛け算を新たに作り上げて、こう表記すると決める。」

$${3 \times 7 := 3+ 3+ 3 + 3+ 3+ 3+ 3}$$

「これで式を書くのが楽になった。ただそれだけだが、掛け算の世界は奥が深い。」

「例えば、$${9}$$の次の自然数を$${10}$$と定義する。」

$${10 := 9 + 1}$$

「そして、次の数字をこのように表記する。」

$${11 := 1 \times 10 + 1}$$

「増やしていけば$${23:=2 \times 10 + 3}$$、$${273:=2 \times 10 \times 10  + 7 \times 10 + 3}$$となる。

「数の種類を増やすごとに文字を考案する必要がなく、$${0}$$~$${9}$$までの10種類の文字を組み合わせることでいくらでも自然数を表せる。」

「便利ですね。」

私は口をはさんだ。

「掛け算の導入はただ便利なだけで無味乾燥だが、そこから豊かで驚くべき知見が得られる。素数や、不定方程式の整数解とか。」

「また、逆操作を考えるんですか?」

私は自分の推測を口にした。

「その通り。$${2 \times x = 6}$$であるような$${x}$$を$${6 \div 2}$$で表す。そして、引き算同様、この操作:割り算からも新たな数の世界が生まれる。」

「例えば、$${2 \times x = 3}$$を成立させる自然数$${x}$$は存在しない。ならば、そのような数を新たに作ればよい。引き算のときは自然数$${a}$$に記号$${-}$$を付けて負数$${-a}$$を生成し、表現したが、割り算のときは$${a \div b}$$の材料としている自然数$${a, b}$$をもとに$${\frac{a}{b}}$$と表現する。」

「具体的に、日常生活ではどのように使いますか?」

「$${6}$$匹の羊を兄弟$${3}$$人で平等に分けるとき、一人当たり$${6 \div 3 = 2}$$匹の羊を得る。根拠は、仮に一人$${x}$$匹の羊をもらうとき、$${3 \times x = 6}$$が成り立つから、$${x = 6 \div 3}$$となる。」

「あ、えーと、割り算の話ではなく、新たに生成した数$${\frac{a}{b}}$$の話です。$${\frac{a}{b}}$$は現実に存在する数なんでしょうか。」

私は口をはさんだ。

「$${1}$$個のりんごを$${2}$$人で平等に分けたとき、一人何個のりんごを得られるだろうか? 一人$${x}$$個もらえると仮置きすると、$${x}$$は式$${2 \times x = 1}$$を成り立たせなければならない。しかし、そのような自然数$${x}$$は存在しない、困った。だから、新しく都合のよい数を作る。式$${2 \times x = 1}$$を成り立たせる、実在する数$${x}$$を$${\frac{1}{2}}$$と書き表すと決めた。$${x}$$を登場させずに書くなら$${1 \div 2 = \frac{1}{2}}$$。」

「半分のりんごを表現する方法として、$${\frac{1}{2}}$$というわけですね。」

「そう、実在する数なんだ。」

ゼータは言った。

「"割り算"を導入し、$${\frac{a}{b}}$$まで拡張する。そして、世界の全ては$${\frac{a}{b}}$$で構成されているというのが、わが教団の根本思想なんだ。」

ゼータは手を広げた。

「我が教団の教祖は発見した。2つの金属棒の長さが自然数比$${\frac{a}{b}}$$を成すとき、美しい和音を成すと。世界は調和(ハルモニア)を成す、だから自然数比$${\frac{a}{b}}$$が世界の全てを表現する。」

理解して頂けただろうか、とゼータは付け加えた。

私は一応は納得した。世界は"個数"から成り立ち、そして万物はその比から成り立つ。だから、$${\frac{a}{b}}$$で表せないものはないと。

一方で、疑問に思っていたことがあった。

「今、こうなっているじゃないですか。」

私は自分のメモ書きをゼータに見せた。

$${0}$$と$${1}$$↓足し算→(逆)引き算└自然数  └負の数↓(簡略化)掛け算→(逆)割り算       └比

「そうであるならば、掛け算を簡略してまた新たな操作を考え、さらに逆操作を決めればまた新たな数の世界を作り出せるのではないでしょうか。」

私としては素朴な疑問だったが、どうしてだろう、ゼータは口ごもった。

「理論上、作ることは可能だが、実用性に乏しい、私はそう考えている。10進法も、$${10, 100}$$なら日常見かけるが、$${100000000000, 100000000000000}$$のような数は、まず普段見かけないだろう? 観念の世界でいくらでも作り出せるが、日常まず見かけない、その上あまり使用もしないから、考えたところで実りがないんじゃないだろうか。少なくとも私はそう考えている。数$${\frac{a}{b}}$$で表せない対象を、私は見たことない。」

こころなしか、歯切れが悪く感じたが、心に留めるものでもないと思い流した。

「わかりやすい説明、ありがとうございました。数の研究頑張ります。」

私はゼータにお礼を言った。

「明日は、また別の人が、図形についての話をするから、今日はゆっくり休みなさい。一通りの分野の話を聞いて、自分が特に何の種類の数を研究するのかを考えておくように。」

解散、と言って、ゼータは翻した。

あてがわれた個室に案内されて、私は敷かれた布の上に寝っ転がって足を休めた。

だらりと手を投げ出しつつも、ペンを動かして今日ゼータから聞いた話の内容を整理している。

前に所属していた施設を辞めたときは不安でしょうがなかったが、ここにきて、今日ゼータから話を聞いて、ここでなら心穏やかに日々を過ごせそうだと思った。

数という、絶対不動の対象を信奉しているのなら、ある日突然なんとなく思い込んでいたことが間違いだったんじゃないかと思い悩んだり、生まれたときから信じていたものが危機にさらされるといったこともないだろう。

しばらくして、今日聞いた内容は紙にまとめきれたので、部屋を出てお手洗いに行こうとした。

廊下を歩いていると、前にいる二人の会話が耳に入ってきた。

教祖様、三角形、等式、…といった言葉が聞こえてくる。

「……にあったときに、教祖様の研究資料から、驚くべき定理が発見されたんだ。」

「大げさだな、からかうなよ、いくら教祖様だからって。」

「いいか、聞いて驚け。直角三角形の辺の長さを短い順に$${a, b, c}$$としたとき、$${a^2 + b ^2 = c^2}$$が成り立つ。どうだ、今何の資料も見ずに言えるんだぜ? もう覚えちまったよ、シンプルすぎて。」

「本当に成り立つのか、それ?」

「教祖様の直筆資料に書かれていたんだ、間違いないよ。」

そこまで喋ったのち、二人は私の存在に気づいた。

「新入りの子?」

$${a^2 + b ^2 = c^2}$$の話を切り出した方の人が、私に話しかけた。

「デルタと言います。本日からお世話になります。」

頭を下げた。

「ゼータが教育担当なんだっけ? まあ、ゼータなら大丈夫だろう。最近、ちょっと不安だけど。」

もう片方の人がそう言った。

「ゼータさんからは、普通に、ハルモニア教団についての概要と、数についての説明をして頂きましたけど……。」

「なら、大丈夫か。」

話題が次に移りそうだったので、私はさえぎった。

「あの、今の話もう少し詳しく聞かせて頂けませんか。三角形の辺を短い順に$${a, b, c}$$としたときの……というやつ。」

「ん、オメガがさっき言っていたやつじゃないか?」

「ああ、あれ? $${a^2 + b ^2 = c^2}$$? これは単純に、教祖様に関する資料を編纂したときに、こういう内容が出てきたんだよ。」

オメガと呼ばれた人は、おもむろにチョークを取り出して、適当な壁に書き出した。

"⊿"の図案を書いて、線の短い順に$${a, b, c}$$と割り振った後、右隣に$${a^2 + b ^2 = c^2}$$と書いた。

オメガは続けた。

「ひとつの角が直角の時、3つの辺について右の式$${a^2 + b ^2 = c^2}$$が成り立つ。」

「"直角"? "辺"?」

「あー、まだ図形の話を受けていないんじゃない?」

オメガと呼ばれた人ではない方が、口をはさんだ。

「む、そうか、次の時間かな? では、先にこれを渡しておこう。」

オメガと呼ばれた人は、手に持っていた本を私に渡してきた。

私は開いて中身を確認したが、読めない。古代語で書かれている。

ただ紙の上で、先ほどオメガが書いた"⊿"や、他にも"▢"や"○"が踊っているのが見えた。

「明日、その本について説明するよ。図形学、僕の担当だし。ああ、返さなくてよいからね、あげるから。」

「え、ああ、ありがとうございます。」

私はページをめくっていった。

その中で、$${a^b = \overbrace{a \times a \times \dots \times a}^{b}}$$という数式があった。

思わず動きを止めていたら、オメガが訝しんで声をかけた。

「どうしたの?」

「ああ、いえ、別に…。」

私は本を閉じた。

「ありがとうございます、勉強します。」

「ん、ぜひ励んでくれ。」

オメガともう一人は、そう言って壁に書いた図案と数式を消した後、向こうに歩いて行った。

成り立つわけないよ、そんな式…、という声が、消えていった。

私は、まずもらった本を部屋に置いた後、もう一度お手洗いに向かって用を足した。

急いで部屋に戻ると、再び先ほどのページを開いた。

$${a^b = \overbrace{a \times a \times \dots \times a}^{b}}$$

私には試したいことがあった。

$${a^b = \overbrace{a \times a \times \dots \times a}^{b}}$$

この箇所を開いて、オメガが言っていた式をメモ用紙に書いた。

$${a^2 + b^2 = c^2}$$

つまりこの式は、こういうことだ。

$${a\times a + b\times b = c\times c}$$

この形ならわかる。

私は、オメガたちの会話を聞いていて、ゼータの講義中に考えていた"$${\frac{a}{b}}$$の次の数"を作れるのではないかと考えた。

それを試してみたかったのだ。

$${a = 1, b = 1}$$としてみる。

$${1\times 1 + 1\times 1 = c\times c}$$$${1 + 1 = c\times c}$$$${2 = c\times c}$$つまり、$${c\times c = 2}$$

このような$${c}$$は実在する。

なぜなら、オメガの言う教祖様の言うことが正しいと信じるならば、この$${c}$$はヒトツノカクガチョッカクノ(一つの角が直角の)"⊿"の最も長いヘン(辺)の長さだから。

つまり、教祖様の言を信じるならば、$${c}$$は観念上の数ではなく、実在する数である。

$${c\times c = 2}$$なる$${c}$$は存在する。

ヒトツノカクガチョッカクノ"⊿"では$${a^2 + b^2 = c^2}$$がなぜ成り立つか、どのように成り立つかはひとまず後回し。

では、この$${c}$$はどのような数だろうか?

仮に$${c = \frac{a}{b}}$$で表せると決める。

そうすると、$${\frac{a}{b}\times \frac{a}{b} = 2}$$

つまり、$${a \times a = 2 \times b \times b}$$

……、ここで詰まった。

悪あがきで、$${a, b}$$に思いついた数を入れてみた。

組$${(a, b)}$$において$${(1, 2)}$$→$${1 = 8}$$$${(2, 3)}$$→$${4 = 18}$$$${(3, 1)}$$→$${9 = 2}$$$${(4, 3)}$$→$${16 = 18}$$……

んー、全然わからない。

ただ、「$${c}$$は$${\frac{a}{b}}$$で表せないんじゃないか?」と思った。

しかし、ではどんな数なのかがわからなかった。

結局、「$${c\times c = 2}$$を成り立たせる新たな数をほにゃららとする」、のようになるのではないだろうか?

気になって、歯がゆい思いをしていたので、ゼータに尋ねようかと思った。

ただ、さっきゼータは"割り算の次"の話を渋っていたように感じた。

話を持ち掛けても、乗り気じゃないかもしれない。

そう思って、次はオメガに尋ねてみようかと思い至った。

後ほど、オメガからズケイなるものを教わるのだそうだし。

まだいるかもしれない。

夜も更けて、迷惑になるかもしれないと思ったが、行くだけ行ってみようと思って、部屋を出た。

まず、オメガたちと会った場所を目指した。

ほどなくして、$${a^2 + b^2 = c^2}$$の消し跡があるところまでたどり着いた。

そこから、オメガたちが歩いて行った方を目指した。

直進していくと、なんとなく異臭が漂ってきた。

「なんのにおいだろう?」

進めば進むほど、においが強くなっていく。

オメガの部屋を目指していたが、好奇心が働いて、先に異臭のする場所を突き止めようと思った。

場合によっては、一目散で逃げなければならないかもしれない。

異臭のする場所に向かう前に、先に逃走経路を確認した。

教団施設の出入り口までいって、頭の中で経路を思い浮かべながら、また今いた場所戻った。

そこから、目的の場所に向かう。

近づくにつれ、鉄のような、腐敗臭のような匂いが強くなった。

そして、床に紙が乱雑に撒かれていた。

そのうちの一枚を拾い上げて、中身を読んだ。

……自然数の比で表せない数ーーーー、ーーー、教団の○義と相容れない、…

走り書かれていて、全ては読めなかったが、かろうじて判読できた箇所はこのように書かれていた。

自然数の比で表せない数

丁度、同じ疑問を持っていた内容だったので、他の散らかっている紙にも手を伸ばした。

次の紙には、整った字で書かれていた。

「この世界は調和で成り立っている、だからこそ森羅万象を自然数の比$${\frac{a}{b}}$$で表せる。逆に言えば、この世に実在するもので、自然数の比$${\frac{a}{b}}$$で表せないものはない。そうでなければならない、と思っていたが、オメガのやつがとんでもないことをしでかした。ああ、奴はなんてことをしてくれたんだろう、古代語が読めるからって。オメガは自分が今言っていること、今やっていることの重大さが分かっていないようだが、私は気づいてしまった。願わくば、時を戻してほしい。」

読み進めていくうちに、私は気づいた。

この筆跡は、ゼータのものだ。

廊下に漂う異臭も忘れて、私は書かれている内容に食い入った。

この紙の内容は、「だからこそ教祖はこの真理を隠したんだ。」で終わっている。

私は、今読んだ内容を忘れて、部屋に戻ろうかという考えが頭をよぎった。

しかし私はここで部屋に戻ったら、絶対に心の不完全燃焼を起こすだろうことを予感していた。

好奇心に負けて、私は3枚目の紙を拾い上げた。

1枚目、2枚目と続いて、3枚目もこの"とんでもないこと"に関わる内容だろう。

期待してめくったが、残念なことに、私の読めない古代語で書かれている。

しかし、筆跡からして、これもゼータが書いたものだろう。

前半に、先ほど私が部屋の中で考えた、$${a^2 + b^2 = c^2}$$、$${c^2 = 2}$$といった文字列が並んでいたので、多分同じ内容に関する話だろう。

後半を何としても読みたかったが、この短時間で読み解けるわけがなかった。

ひとまずゼータに紙が落ちていたことを伝えようと思った。

異臭のする場所へ向かうと、明らか異変に気付いた。

扉の下の隙間から、赤い液体が流れている。

まだ乾き切っていない。

そして、先ほどのよりも大量の紙がぶち撒かれている。

すぐに逃げるべきだと思ったが、上手く身体を動かせなかった。

僅かな逡巡の間、扉が開いた。

扉から出てきたのは、先ほどオメガと会話していたもう一方の男だ。

「あれ、新入りの子じゃん。どうしたの?」

男は気さくに話しかけてきた。

「あ、いえ、オメガさんのところに行こうとしたら迷ってしまって……。」

嘘は言っていない。

「ああ、オメガの部屋なら部屋三つ飛ばした向こうの部屋だよ。でも、今彼寝ているんじゃないかな……。今の時間帯に人の部屋に行こうとするのは、少し非常識なんじゃないかな?」

「ああ、いえ、時計を確認していなかったので……。」

早くこの場から立ち去りたかった。

この男から、雨の日の鉄の匂いがする。

「では、私は部屋に戻ります。失礼します。」

戻ろうとしたとき、声をかけられて呼び止められた。

「ねえ君、確かゼータが教育担当していた子だよね。ゼータから何か聞いていない?」

「何をでしょうか?」

「この世に比で表せない数が存在するとか。」

ドキリとした。

「いえ、ゼータさんからはハルモニア教団に関する概要と、数に関する簡単な講義のみです。先ほど申し上げたように。」

これも嘘は言っていない。

「本当? この世の全ての物は自然数の比で表せると確かに教えていた? 我が教団の教義に関して、それ以外のことは言っていない?」

「ええ、ゼータさんからは、『この世のものは全て自然数の比で表せる』としっかり教わりました。」

動悸が収まらなかった。

オメガからもらった本を握る手が強くなった。

「んー、じゃあいいか。新入り君、もう遅いから部屋戻ってゆっくり休みな。明日も早いんだし。オメガから図形に関して教わるんでしょう?」

「ええ、そうですね。おっしゃる通り、もう寝ます。」

お前が引き留めたんだろと心の中で毒づきながら、今度こそ戻ろうとした。

しかし、目の前の男はまだ離さなかった。

「ゼータが今どうなっているのかって、聞かないの?」

「え?」

動揺した。

「いやなんとなく。今の流れなら『ゼータさんがどうしたのでしょうか?』って聞くんじゃないかな~って思っただけ。」

「いえ別に、尋ねるほどのことでもないと思ったので。」

もう、早くこの場から立ち去りたかった。

「ん、まあいっか。もうこの世に存在しない人のことなんて。」

「自然数の比で表せない数が存在するなんて、アホなことを言う。そんな妄言を吐き散らかすから、自分自身がこの世に実在しないものになってしまうんだよ。」

………

「お気遣いありがとうございました。では、失礼します。」

「ん、お疲れ様。」

角を曲がって男から自分の姿が見えなくなったら、もう怪しいとか不審な動きとかお構いなしに私は施設から逃げ出した。

オメガからもらった本を携えながら。

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