ある本を読んだ(教育産業とその応用)
外資系…というか、ビジネスマインドの闇についての本だ。
要はそれらの考え方が如何に、物事を損なうか?について書かれていた。
いつの時代も、人間は自分を盛って話をするようで、余裕ありお金があれば、自己利益のために背伸びをする。
海外に留学しただの、泊をつけるというか、それだけで聞くものをビビらせる。
何でも基礎があるのがいい。
七五三で、小中高の学習を理解しているのが、その割合らしいが、読み書きそろばんのうえに、何かプラスアルファがあれば良い気もする。
だが、偏差値の良くなさというのは、少子化では変に働くという。
団塊の世代の人間の多さの時代にあっては、その内容や競走の過酷さが分かるだろう。
それに、そこそこの学校に行き、自分はただの人と認め、特別な存在だ!とか承認欲求を拗らせることもない。
最近は、都内の一室…利便性が高いところは、エリート大が入るのが、当たり前になっている。
キャンパスも、余計な人間関係や皮膚感覚もない。
主に私学などに見られるが、 これがコロナや何やかやと屁理屈を付けて、中高もやり出したら、材料費…初期費用もカットできる。
N校が、生徒の可能性を保証しているのであり、現実的なアレコレまで保証しているのではない…云々というのを目にしたことがある。
人間は、変わるものだし、状況によれば、興味も変わる。
提供できるのは、可能性だけであるのは間違いない。
だけど、通信校などは勤労学生が、ときどき出席するスタイルなのだが、それをいいことに、どこぞでコストカットできるという見本にもなっていたらしい。
教室は要らない、録画で授業、どこを切り詰め人件費削減して、せこくできるか?
これらの思考は人間のナマの生活と相反するようだ。
せこくなった環境下で、豊かな生活や伸び伸びした、発想が湧くものか。
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