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何よりも自分が幸せになること。離婚経験から学んだ「誰かを幸せにする」ために必要なこと

母の日のお祝いとして、お母さんを連れてよもぎ蒸しに行ってきた。お母さんにはヘッドマッサージもつけてもらった。「バリ島に来たみたい~!」って喜んでた。よかったね。

そこのサロンのお姉さんは、もともとは保育士として働いていたらしいのだけど、子どもの様子を見ていると、その日の子どもの状態は、お迎えに来るお母さんの様子とリンクしていることに気が付いたのだと。

子どもの元気な姿が見たい。だったらお母さんを癒す、元気にすることの方が必要だ!と思って、よもぎ蒸しのサロンを始めたらしい。

愛することについて考える

少し話は変わるけれど、ここ数ヶ月私はずっと考えて考えて、学ばされていることがある。それは「愛とは」ということ。愛ってなんだろう。その答えは実は少し前にはもう出ていたものの、改めて体感させられていて。

アドラー心理学でこんな一文がある。

「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えた時、愛を実感することが出来ます。劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要性にも駆られず、平穏な、極めて自然な状態でいられる。本当の愛とは、そういうことです。

私の人生のバイブルでもある「幸せになる勇気」では、人を愛するには「自立すること」が必要と書かれていた。人を愛するということは、その人を心から信頼するということ、その人がそのままでいることを尊重すること。だからこそ、それができるのは「真の自立」ができている状態なのだと。

人を信頼して、共に生きて共に働くには、まずはありのままの自分を愛し、信頼し、自分自身が幸せであるということが大前提になると思った。

自分自身を愛して、自分の周りをも愛していく。大人になるってそういうことなんじゃないか。恋愛に限らず、親子関係でも、仕事でも、全てに関わることだと思う。

自立するための離婚

私には離婚経験がある。離婚したのは「自分と相手が幸せになるため」の選択だったことを思い出した。もちろん最初は、相手から離れることは相手を傷つけることだと思っていたし、そんなことをする自分は最低なんだと、相手に対しても、相手の家族にも罪悪感を覚えた。

だけど、離れたいと思っている自分のまま、我慢して一緒にいることの方が相手に対しても失礼だと思った。自分や家族、全員に嘘をついている自分の方が最低だと思った。そして、自分と相手の可能性や未来までも、私の手によって潰してしまってるんじゃないかと思った。これじゃ誰も幸せにならないじゃないかと。

葛藤しながらも「どうしたい?」と何度も自分に問いかける日々を過ごした。まっすぐな自分で生きたい。本音で生きたい。嘘偽りなく、好きなこと・もの・人と共に生きたいと思った。そんな自分で在りたいと思った。

誠実であるとはどういうことなのか?本当の正しさとは?自分の人生を生きるために、過去じゃなくこれからをどうしていきたいのか?とたくさん自問自答した。

自分の人生を誰かのせいにしたくない。苦しみながらも正直に勇気を振り絞って出した答えを、絶対に間違ってなかったと思えるような生き方をしようと思った。相手のためにも、この出来事から学び、自分の気持ちに、人生に誠実で在り続けようと思った。そんな決意から5年以上が経ち、あの時の全てが今の自分をつくってくれているんだと改めて気がついた。

愛を向けたい対象の変化

そんな経験や、ここ最近の「愛」についての学びによって、最近は自分の愛の対象や範囲が少し変わってきている気がする。

とにかく自分の大切な人を大切にしたい。愛を注ぎたい。相手の幸せに貢献したい。それは誰かに対してだけでなく、その人が大切にしているもの・こと・人も含めて。もちろん恋愛に限った話ではなくて、誰かの未来や可能性を大事にしたい、関わる人たちが本音を大切に、自分の人生をのびのびと生きられるように。

そして実は、今までにあまり対象に入ってこなかった「子育て」といったことにも意識が向き始めている。他者を愛することを学んだからこそ、その先へと愛のキャパシティが広がったのかもしれない。

今までは自分の仕事や自己実現、人生のために必死だったけれど、不思議なことに今はかなり力が抜けていて。それよりも、自分以外の他者に愛を注ぐこと、可能性を信じること、幸せに貢献すること。生み出すこと、育むこと、成長を見守ること、そんな愛を体感したいなと思っている。

自分の幸せを選んでいい

「自分が幸せである」ことが、結局は自分以外のまわりへの幸せや愛へと繋がっていく。自分が我慢すればいい状態は、結局誰も幸せにしない。

過去には自己犠牲をして、社会での役割を求めて仕事に注力した時期もあった。自分がやりたいことよりも、クライアントのやって欲しいことに身を削ってきた。でもその結果、私は動けなくなってしまった。もう誰かのために何かをすることが嫌になってしまった。だから誰かを幸せにするためには、自分自身が幸せでないといけないのだ。自己犠牲の生きかたや働きかたでは「誰かに向けた愛」は湧いてこない。

よもぎ蒸しサロンのお姉さんの言うように、子どもの元気はお母さんの元気から。

みんな、自分から幸せになっていこうね。

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