小さな大人だった私へ
「あんたは小さい大人やったわ(笑)」
数年前、電話の向こうの母が言った。
子どものころ、私はとても大人びた子どもだった。
1番古い記憶は、2歳4カ月の春の日。
産院のベッドに腰かけた母は
「ほら、まなちゃんの弟よ。」
嬉しそうに微笑んだ。
そこには目の大きな、ぷくぷくとした大きな赤ちゃんがいた。可愛いと思うより先に、嫉妬心が芽生えた。そう感じる自分が少し醜いような、なんとも複雑な感覚。
私は「お姉ちゃんらしくない姉」になった。
幼稚園児の私は、大人しく目立たない子だった。
友だちの中に紛れてはいたが、いつも静粛の中にいるようだった。大人たちの会話が気になった。自分の家と人の家をよく比較していた。周囲の人の家族構成や家の間取り、インテリアも詳細に記憶していた。
Aちゃんには頭の良いお姉ちゃんがいて、社長さんが座るような立派な机と椅子で勉強していたこと、和室には七段飾りのお雛様があったこと。
アメリカに住んでいたことがあるBちゃん宅ではフルーツサンドがランチで出され、お皿の下にはパステルカラーのランチョンマットが敷かれていたこと。リビングには大きな吹き抜けがあったこと。
楽しかった感情の記憶よりも、映像の記憶が鮮明に残っている。
ある日、母が幼稚園の先生からこんなことを言われたらしい。
「まなちゃんは、とってもお掃除が上手です。お家で何かされてるんですか?」
母は不思議そうにしていたが、私には思い当たる節があった。母の『暮らしの手帖』を読むのが大好きだった。なかでも新発売の家事用具や家電製品の比較のページがお気に入りだった。
小学生の私は、心の中はすでに大人だった。
同級生との遊びに物足りなさを感じていた。下級生が入ると、先生ごっこで先生役に徹することができたから楽しかった。友だちにお姉ちゃんがいると、いつの間にかそっちの仲間に入っていた。
こえだちゃんやリカちゃんより、大人っぽいバービー人形に惹かれた。
アニメよりも歌番組を夢中で観た。ラジカセで録音して、明菜ちゃんの振り付けをほぼ全曲完コピした。『金曜日の妻たちへ』のパティオ(中庭)で夕食を食べるシーンに憧れた(さすがにこのドラマを観るのは親に反対された)。
人の本質を見抜いてしまうようなところがあり、意地悪な子(ジャイアンタイプより知能犯タイプ)に鋭い言葉を向け立ち向かってしまうことがあったが、運良くいじめっ子にもいじめられっ子にもならなかった。
小学3年生の時、それまで暮らしていた大阪から地方に引っ越した。両親が家を建てたのだ。家は今までより広くなり自分の部屋もできたが、なんだか喜べなかった。理由はいくつかあって、1つは最新設備の整った真新しい都会の学校から、明治時代建築の小さな木造校舎の学校に転校になったこと(初めて校舎を見たとき消防署だと勘違いした)。もう1つは通学距離がとてつもなく遠くなったこと。そして、服を買うのがジャスコになったこと。
小学4年生の冬、ショッキングな事が起きた。
父の借金が発覚。その通知をポストから母に手渡したのは私だった。開封した瞬間の青ざめた母の顔を今も忘れることができない。
その日から家族の空気が一変した。父と母は激しい口論になった。それは親戚を巻き込み、しばらくの間続いた。冬休みに入ると、私と弟は親戚宅に預けられた。伯父夫婦と父、母が夜中じゅう話し合いをしていた。襖1枚隔てただけの台所の大人の会話は、聴きたくなくても聞こえた。
そのころ、ベストテン入りしていた斉藤由貴さんの『砂の城』が頭の中で何度も流れた。
絶対に揺るがないと信じていた家族(地盤)は、実は砂のように脆いものだったんだ。
自分の足元の砂を波にさらわれてしまうように、根幹が揺さぶられるような不安に襲われた。誰にも相談できなかった。激流のような時間が過ぎるのを、じっと片隅で待つしかなかった。
母は、私に時々愚痴のような、悩み相談のような感じで胸の内を話した。私が大人びていたからかもしれない。この子になら話しても大丈夫だろうと。
弟にはいっさい話さなかった。相変わらず天真爛漫に遊び回る弟が羨ましくみえた。
小学6年生の春、他校から転任してきた男の先生が担任になった。当時でも珍しい、いわゆる熱血教師。毎朝校庭を裸足でランニングさせ、毎日日記を書かせ(しかも2Bの鉛筆限定)、水仙を球根から1鉢ずつ育てさせた。音楽ではアコーディオンを弾き、腹式呼吸で合唱をさせたり、教科書以外の教材で音読に力を入れた国語の授業をした。独自の授業スタイルは、他校や教育委員会からも授業見学に来るほど注目されるようになっていた。最初はそんなクラスを誇りに感じ、先生を尊敬していたが、2学期の後半になるころには嫌悪感を抱くようになった。
えこひいきしている子への態度と、嫌っている子への態度が明らかに違う。
友だちの中にはこのことに気付いている子もいたが、保護者や児童から圧倒的支持を得ている先生に、誰も何も言えなかった。その陰で、表情がどんどん暗くなっていく2人の友だちがいた。許せなかった。
ある日の日記に、私はそのことを書いた。いつものように登校時に先生に提出、帰りの会には返却される。
帰りの会に現れた先生の顔は怒りで真っ赤だった。
無言で私が書いた日記の内容をそのまま板書し始めた。
静まり返った教室に、いつにも増して強いチョークの音だけが響く。
「こんなことを書いてきた奴がいる。」
私は立ち上がった。
「それを書いたのは私です。」
大げさに手を払いながら先生が問いかけた。
「みんなはこれを読んでどう思う?」
1人の男子が発言した。
「僕は、こんなことを書いたことは間違っていると思います。これを書いた人はきっと反省していると思います。」
場をなだめる模範解答だった。
帰り道、走り寄ってきた友だち数人が重い口を開いた。
「よく言ったよ。だって、私もずっとそう思ってたもん。」
「ゴリ先(ゴリラに似ているから付いた先生のあだ名)嫌〜い!」
こうなることは予想していた。震える手を握りしめながら立ち上がった私、よくやったよ。卒業までのことを考えると不安にもなったが、針の筵を後にした私は、少しスッキリしていた。
当然ながら、この出来事から卒業式まで、私とゴリ先は険悪の関係のままだった。
卒業式を目前に控えたころ、私の教室は満開の白い水仙でいっぱいになった。
今でも水仙の香りを嗅ぐと、私は6年1組にタイムスリップする。
中学生の私は、自意識過剰女子になっていた。
癖毛をコンプレックスに感じていたため、雨の日はくるくるドライヤーを通学バッグに忍ばせた(もちろん禁止)。セーラー服の丈と、スカートのウエストを詰めて改造した。
トレンディードラマが一世を風靡していた。
「浅野温子のワンレンか、浅野ゆう子のソバージュか?ガラスブロックのアーチ窓のワンルームか、中2階があるコンクリート打ちっぱなしのマンションか?」
大人になりたい妄想が加速していた。早く大人になりたかった。
トレンディードラマや『ねるとん紅鯨団』を観ていた影響か、恋愛経験皆無なのに、友だちから恋愛相談の電話が毎日のように掛かってきた。お悩み相談員となった私自身も、アウトプットすることでストレス解消にもなっていた気がする。固定電話しかなかった時代、長電話は毎日2時間を超え、親に呆れられた。
失恋のショックで不登校気味だった友だちを説得し、登校させたこともあった。昇降口で泣く友だちを介抱したこともあった。
とにかく勉強以外のことにすべてを費やした。
卒業文集に先生がこう書いてくれた。
「結局のところ、貴女は人の気持ちがわかる優しい人だと思います。後になってですが、そのことが、よくわかりました。」
前置詞が気になるところだが、唯一、私を理解してくれた先生だった。
中学3年生の3学期、また父の借金が発覚した。
忘れていたあの感覚が蘇った。激流の再来。また心がぐらぐらと揺さぶられた。
ちょうど進路を決定する時期だった。父が学校に願書の取り下げをお願いしに行ったらしい。私立の中高一貫校は断念せざるを得なかった。
「お前のお父さん、倒産でもしたんか?」
先生に聞かれた。父は公務員だった。何も答えられなかった。
高校生になった私は、なんとなく諦めの境地にいた。まったく勉強に身が入らなかった中学3年間のツケが身に沁みた春。
春休み、母が子宮筋腫の手術のため1カ月ぐらい入院した。入学に関する書類はほとんど自分で書いた。家族のご飯も作った。短い期間だったけど家計費も預かり、私はお母さん代理を務めた。
高校3年生は、自分への気付きや転換点となった。
17歳、ようやく心と体が同じラインに並んだような、パズルのピースがぱちんとハマったような感覚。
思考ばかりが先立ち、理性で考えすぎてしまう癖が少し落ち着き、なんとなくの空気に身を任せる能動的な自分になれている気がした。
最後の国語の授業で、「自己について」という課題作文を書いた。
「あなたの作文、みんなに聞いてもらいたいから発表してもいい?」
国語の先生にお願いされたが、内面を吐露した内容だったので恥ずかしさもあり、丁重に断った。
本心は飛び上がるほど嬉しかった。
たしか、こんな内容だったと思う。
私は変わり始めた。
塾には行けなかったから、自学自習で勉強した。
ある程度の成績に達したとき、心理学を学びたいと思った。
幼少期から大人びていた自分を、別の自分が俯瞰して見ている感覚。あれは何だったのかを知りたい。
受験の面接試験で、こんな質問があった。
「あなたのお母さんを花に例えて、その理由も述べてください。」
「私の母は、花に例えるならタンポポだと思います。理由は、見た目はとても可愛らしいのですが、芯はとても強いと思うからです。」
と答えた。
帰宅してからこのことを母に話すと
「普通、そこはカスミソウとか言うんじゃないの?」
と苦笑した。
進学した私は、年齢相応になっていた。
親に無理を言って進学させてもらったので、通学費と小遣いは自ら稼ごうと思った。私立の女子大生はみんな優雅に見え、背伸びしてそれに合わせようとしていた。気が付けば、カフェ、ファミレス、結婚式場、3つのアルバイトを掛け持ちしていた。
台風が上陸間近のある夜、父が電車を乗り過ごし、ずいぶん先の駅で下車してしまったと電話があった。嵐の中、慌てて迎えに行こうとした母の車の後部座席に転がり込むように私も乗り込んだ。
「1人だと、絶対に危ないって!」
この時のことを母はよく覚えているらしい(私はあまり覚えていない)。
「主人公の女の子があんたそっくりやから、絶対観てみて!」
母はよくレンタルビデオを借りていた。
タイトルやキャストも思い出せない、ハリウッドのB級映画だったが、とにかく主人公の女の子が勇敢で、1人で凶悪犯に立ち向かって家族を救うというような内容だった。
「母はこんな風に私を見ているのだろうか?」
とても意外だった。
就活の時期、また父の借金が発覚した。
母は子宮を全摘した影響もあって、更年期障害になっていた。この出来事は、さらに母の具合を悪化させた。
まったく父という人は、大事な時期を選んだかのように事を起こしてくれる。
ついに「砂の城」のようにさらわれてしまうのかと、この時ばかりは覚悟した。
しかし、奇跡的に離婚にはならなかった。母の兄、父の姉、そして母の友人が手を差し伸べてくれた。
周りに迷惑をかけながらも、それでも父と母は愛し合っているように見えた。
この時、電話に出ることもままならない母に代わり、私が伯父、伯母らと連絡を取り合っていた。小学生のとき以来会っていない叔母は、私の応対に感心してくれたらしい(同情もあったと思う)。
ある日、大阪のとある、喫茶店に呼び出された。
「あなたは本当に立派に育ってくれた。あなたやったらどこでも就職できるわ。」
小さなデザイン会社の連絡先が書かれたメモを手渡された。
「ここからはあなたの頑張り次第。おばちゃんのできるのはここまでよ。」
伯母と話したのはそう長い時間ではなかった気がする。
時代は氷河期になっていた。私は藁にもすがる気持ちでこの会社の門を叩いた。
私はOLになった。デザイン会社でテレビの番組素材を作ることに携わった。テレビフリップやテロップを作る仕事は毎日が変化に富み、やりがいもあった。念願の1人暮らしも始めたが、昼夜逆転の多忙さから、ついに体調を崩してしまった。
会社の同期だった子が、転職先を紹介してくれた。
その転職先で主人と出会い、1年後に結婚した。
主人の仕事の都合で関東にに移り住み、息子が生まれた。
新天地で家庭を持ち、出産、育児。未知の世界に突入したような新しいことの連続の毎日だった。自分が親となり築いた家庭は、『三匹のこぶた』の「レンガの家」ぐらい丈夫なものになっただろうか。
息子が社会人になる日が近づいてきた。
安堵感とともに、ふと閃いた。
「もう一度、心理学を学ぼう。」
息子の内定が出た翌月、私は大学の通信教育部を受験した。
息子が大学を卒業した2022年、私は再び大学生になった。2年間、衰えた記憶力と闘いながら専門教科の勉強に取り組んだ。
「発達心理学」の教科書に、興味深いワードを見つけた。
ずっと感じていた葛藤の糸口にたどり着いた気がした。
幼少期から、不幸の尻尾ばかりを追いかけていた気がする。
自分のフィルターを通して物事を見ているからこそ生まれた葛藤だったと今は理解できる。
起こった出来事はすべて必要だった、どの瞬間も誰かに愛され支えられてきたと今は感じることができる。
小学生のとき、体の成長に個人差があるように、心の成長もさまざまであるという事実を、何らかの形で知る機会があったら、このことを伝えてくれる誰かがいたら、どれだけ救われただろう。
2024年3月 大学の卒業式を迎えた。
あの母の言葉がなかったら、私は再び学ぼうとはしなかっただろう。
タンポポが咲き誇る春、母に改めて感謝の言葉を伝えたい。
「産んでくれてありがとう。」
小さな大人だった私へ
「あなたはちゃんと足元を見れていたよ。」
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