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ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』

10年ほど前に、ドキュメンタリー番組で硫黄島のように島の中での日米の戦いがペリリュー島で起こったことを知った。

その番組の中で生き残った日本兵であった人が話をしていた。

戦後の適切な対応のために天皇が現地を訪れていたように覚えている。

また、硫黄島での戦いを日本とアメリカの二つの視点で描かれた映画もできていた。

そんなことから、私はユージン・B・スレッジの『ペリリュー・沖縄戦記』を読んだ。

はしがき
・・・
第一開閉団がペリリュー島と沖縄の攻略戦で果たした役割については、公刊されていないものも含めて種々の歴史書や文書にわたって調べた。

しかしそこで述べられている戦闘の諸相と、前線での私の体験とのあいだには大きな落差があり、驚きを禁じ得なかった。
太平洋戦線での体験は脳裏を離れることがなく、その記憶は私の心に常にのしかかってきた。
しかし、時の癒しのおかげで、今では夜中に悪夢から目覚めて冷や汗と動悸に襲われることもなくなった。
つらい営みではあるが、ようやく私は自分の体験を書き上げることができるようになったのだ。
この回顧録によって、私は第一海兵師団の戦友たちに対して長い間感じてきた責任を果たすことができる。

彼らはわが祖国のためにあまりにも大きな苦しみを味わってきたのだ。
一人として無傷で帰還することはできなかった。
多くは生命を、そして健康を捧げ、正気を犠牲にした者もいる。
生きて帰ってきた者たちは記憶から消し去ってしまいたい恐怖の体験を忘れることはできないだろう。
しかし、彼らは苦しみに耐え、務めを果たしたー本国の安全が保たれ、そこに暮らす人々がいつまでも平和を享受できるように。
払った犠牲はあまりに大きかった。

私たちはそんな海兵隊員たちに大きな恩義を負っている。


なじみの顔はほとんど残っていなかった。4月1日と共に沖縄に上陸したペリリュー経験者で健在なのは、わずかに26人にとどまった。
またペリリューでも沖縄でも一度も負傷したことがなかった古参兵は10人いたかどうかも疑わしい。
アメリカ軍が被った人的被害の総計は、死者・行方不明者7613人、戦闘中の負傷者は3万1807人にのぼった。
神経を病んだ《戦闘外》の事故兵は合計2万6221人。
おそらく太平洋戦争では最悪の数字だろう。

神経を病んだ兵の数が異常に多いのは、二つの理由からだと考えられる。

一つは、日本軍が太平洋戦線では前例がないほどのすさまじい集中砲火をアメリカ軍各部隊に浴びせたこと、

もう一つは、死に物狂いの敵を相手に、終わりなき接近戦を続けざるえなかったことだ。

地獄のような惨たらしい戦闘だった。

海兵隊員と海軍の応援部隊(医療スタッフ)を合わせると、全部で2万20人が戦死、負傷、行方不明のいずれかの運命に見舞われた。
日本軍側の死傷者数はよく分からない。
とはいえ、沖縄では敵兵の死体が10万7539体まで数えられた。
また、ざっと1万人の兵士が投降し、約2万人が洞窟に閉じ込められたか、日本兵によって埋葬された。
正確な記録はないけれども、最終分析では日本兵守備隊は、ごくまれな例外を除いて全滅したとされている。

不幸なことに、およそ4万2000人の民間人が両軍の戦火に巻き込まれ砲撃や、爆撃によって命を落とした。 
戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。

戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。

多くの人間に命の犠牲が出た戦争は、それ自体が悪である。

どんな状況であろうと現在において戦争を起こすことは、地球の破滅を招くと自覚することが必要だ。

けれども、大きな力がなくなると途端に、人間は小さな権益の小競り合いを絶え間なくし続けていくという愚かな存在だ。学ばないからだ。学べないからだ。

歴史から学ぶことがあるとするなら、私たちは戦争ということでの解決を選択するようなことがあってはならないということだ。

今度戦争が起こった後の次の戦争は、「石と棒で行われるでしょう」とアインシュタインは言っている。多くの科学技術は戦争によって途絶えるということ。

現在日本が戦後ずっと戦争をしておらず、平和でいることに感謝している。

けれども、どうしても軍の力が必要となった時、どのように対処するべきなのか。

いや、そのような仮定をすることなく、軍の力が必要とならないようにすることが重要なのだ。

世界中の暴力に繋がる武器がなくなり、軍隊もなくなれば、その力で平和に暮らすことができるだろうにと思う。

それは理想論に過ぎないのだろうか。

いいえ、不安と恐怖を取り除くためには、十分な生活の保障と教育の充実しかない。

どうしてもみんなが豊かになることでしか解決できない。



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