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そこに一輪の薔薇が咲いたなら

揃える必要もない足並み
これだけデジタルが普及した時代でまだ処理能力の高さと記憶容量の多いハードPCのような人間を量産しようとする時代錯誤な教育
そぎ落とす個性
美化される集団行動

温故知新ならぬ温故無新。

大切に育てていたもの
大切に温めていたものを
「あなたのため」を免罪符にして
無慈悲に手から払い落とす。

”考えること”よりも”機械的に稼働し続けること”をインプットされた者たちには、24時間365日休まず稼働し成果と恩恵を生み出し続ける作業ロボットのような存在こそ美しく価値があるのかもしれない。

考えることはしない。
その代わりに奪うことで自分と同じまたはそれ以下にする。
”劣化品”を作ることで、特に何も変わり映えの無い自分がいかにも故障を起こさず性能が優れているように見せかけている。

しかし、いずれ気付く。
新しくもならないどころか、アップデートすら出来ないほど古く取り残された存在になっていたことに。

奪われた側の人生というのは、たまったものではない。
止めどなく繰り返される搾取にもう笑うしか出来ないくらい自我も何もかも失ってしまう。
膝から崩れ落ち、命を絶つことさえも厭わないほど麻痺してしまった思考回路では生きていくことが極めて困難になる。

それを糧にあざ笑い、「私たちはあんな劣化品とは違う」と自らの衰えに気付かぬ者に涙すら流れない。

近付いてくる死だけが希望に見える絶望。


そんな中でどういう訳か
枯れ果て、砂埃だけが舞い、もう何も生まれないであろう大地から


一輪の薔薇が咲いたとしたら。

先に述べた者たちなら、面白半分に、または違いは悪と評しあっさりと薔薇を刈り取り、物珍しさから醜い奪い合いや小競り合いを起こしながら一列を保ち、多勢こそ正義と掲げ、何事もなかったかのように行進し続けるのだろう。


私なら、私だったら…。


私は人生を諦め捨てようとしていた。
これ以上先を歩けない。
心と体に限界がきていた。
集団の列から一歩でも足が外に向くたびに、何度も括り付けられた足かせが鈍く骨をきしませるかのように私の足に食い込み逃げられなかった。

いや、逃げられないと思い込まされていた。

けれど、ふとした時に自分の目の前に予期せぬ希望が芽吹いたとしたら、それをスルーするだろうか。

私の心は「掴め」と叫んだ。

もう一歩も踏み込めなかった足に渾身の力が加わった。


私は飛び出した。
もう、あの列には戻らない。
そう誓ってそっと土から薔薇を掘り起こし
大切に抱え走り始めた。

あるべき自分の未来に向かって。


そんな気持ちで私はここに綴ることを決意した。

違いは過ちじゃない。
奪うは統一性の一環じゃない。

諦めは、今あなたがいるその環境があなたの収まるべき場所ではないということを教えてくれるサイン。


そこに一輪の薔薇が咲いたなら。


あなたなら、その薔薇をどうしますか。

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