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夏の夜の夢

夕方六時頃、着地場所が定まらず家々にぶつかりながら飛んでいる暴れセミがいた。思わず、後ずさりをしてしまう。先日茶色のワンピースを着て出かけた時、セミが木と間違えて背中にくっついてきたらどうしようかと一日不安だった。鼓膜の奥の方をジリジリ揺らすかのような鳴き声は聞いているとこそばゆくなってくるし、どこまでが頭でどこからが腹なのかよく分からないその見た目も込みで、わたしはセミが苦手だ。こんな暑い日、本当なら真っ直ぐ家に帰りたいが、セミの襲来と比べれば遠回りなんて、なんて事はない。背中にじんわりと汗が滲み出てくるのを感じながら、ビクビクと帰宅した。帰ると家の鍵が開いていて、そうだ夫は休みだったと少し気持ちが明るくなった。おかえりー!と家に入ると、夫はただいまー!と返してくれた。良いやつ。そんなわたしのしょうもない小ボケに応えてくれた夫は、Tシャツとパンツ一丁姿だった。というのも、わたしがリクエストしたしゃぶしゃぶを作ってくれていたからだ。暑いのにありがとうなと言いながら洗面所に行き、手洗いとうがいを済ませる。こんなに暑い日でも、わたしはたまに鍋物が食べたくなってしまう。一つでバチッと食卓が決まるところとか、なんとなく体に良いことをしている気分になれるところとか、あと一つの鍋を皆でつつき合うところもなんか良くて好きだ。思えば学生時代、まだ恋人だった夫ともよく鍋を作って食べた。鍋が無く一番大きなフライパンを鍋代わりにして作っていたところも、今となっては良い思い出だ。おたまで夫の器に具材をよそってあげる度に、もしこの人とこのまま上手くいって結婚したら同じようによそってあげたりするんやろかと、桃色の新婚生活を夢見ては一人でニヤニヤしたりしていた。ワンルームマンションで一人暮らしをしていた夫の部屋は、決して狭くは無いのに、本で埋もれていたせいでかなり窮屈に感じられた。もはや本の家だった。本の家に人間がお邪魔しますと言い、住まわせてもらっているようだった。そして大体いつも左側に座る夫と会話する度に本棚に詰め込まれたシェイクスピアと目が合って、かなり気まずい思いをした。それは結婚した今でも変わらなくて、夫の部屋は相変わらず本に埋もれており、縮こまって過ごしている。本が日焼けしないようにカーテンはいつも閉め切られていて、昼間もぼんやり薄暗い。先日姪っ子が我が家に寄ってくれた時、こわいと言いながら逃げるように夫の部屋の前を通っていた。その気持ち、とてもよく分かる。夜になると人の住む気配がさらにしなくなり、しいんと闇の深い部屋になるので、大人であるわたしもあまり見ないようにして生活している。特に夜中トイレに起きた時なんかは、わたしは何も見ていません!と誰かに告げながら寝室へと逃げて帰っている。それでも夫本人はそんな部屋で満足そうに過ごしているので、まぁいいかと思っている。話が脱線したけれど、夫が作ってくれたしゃぶしゃぶはとても美味しかった。夏バテ気味のわたしを気遣って、シメの雑炊まで作ってくれた。最後の最後、鍋の底にへばりついたお米をおたまでゴリゴリ取る。一人は鍋をななめに持って、もう一人はおたまで米を掬い出す。そんななんて事ない共同作業の時間に、わたしと夫は家族になったのだとあらためて実感する。夕飯を食べ終えても、外からはまだセミの鳴き声がしていた。汗をかき切ったら、ほんの少しだけ涼しさが体を通り抜けていった。みんなそれぞれの夏を、生きている。


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