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生をなめつくした世界

幸せのために生きる。そして幸せになれない生を、その存在の根底から否定する。連中はその生を悔やむ。「こんな生がもしも生まれてこなければ」と。当然のように、そんな横暴がのさばっている。この世界において正当であるのはもはや、生命への侮辱に怒りを燃やす人たちではなく、それを嘲笑する人たちの方なのだ。

神は死んだ。あらゆる神話は暴かれつくし、味のするところはもうなくなってしまった。深海に沈んだクジラの死骸の変遷を見ているようだ。それをしゃぶるのはもはや、微生物のすることだ。

連中は誰かの暴いた神話の、生命の取るに足らなさを得意げに語る。「人生の目的は幸福の追求と苦痛の回避なんだよ」と、連中は言う。このことに対して首を横に振れるひとが、現代にどのくらいいるのだろうか。

生命の侮辱も、自殺者の侮辱も、全てが憎い。どちらも最低な行いだ。連中は自分の不幸を根拠に生命を侮辱したり、またあるときは幸福を生に見出せなかった自殺者の不手際を責める。快苦ばかり。一体誰のせいだ? エピクロスの快楽主義が転倒した? ベンサムの功利主義か? フロイトの快楽原則説か? そんなことはどうでもいい。問題はそれに生を押し留める私たちの方だ。

世界を変えたい。快苦に囚われ、生を侮辱する全ての人間を糾弾したい。そしてその生を肯定したい。生きるに値しない命が存在しないことを示したい。どうすればいいのかわからないが私は怒っている。

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