弔おうとする意志

この文章は、私が精神病院に入院していた際、それまで溜めていた全てをぶちまけるために書いた文章です。どうぞお楽しみください。

本文

私の思想についてみなさんに語るにあたって、まず、「弔おうとする意志」の概念について述べる必要がある。現在の私の思想の内訳は、概ねこの「弔おうとする意志」の思想で占められているからだ。

この文章では、まず、「弔おうとする意志」とは何かということを、次に、弔おうとする意志の思想が私たちに何をもたらすのかということを述べようと思う。

ちなみに、私は今まで、口述でこの思想を伝え、理解されたためしがない。なので、この文章でその「弔おうとする意志」の思想について述べることは、私にとって大きなチャレンジとなる。ぜひ、温かい目でこの文章を読み進めていただきたい。


弔おうとする意志

まず、弔おうとする意志とは何か。

この「意志」には、原型がある。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが唱えた、全ての存在をその背後から盲目的に突き動かす、「生きようとする意志」である。この「意志」は、その後様々な思想家によって解釈されてきた。同じくドイツの哲学者ニーチェによる「力への意志」や、オーストリアの精神医学者フランクルによる「意味への意志」である。

これらの「力へ」や「意味へ」というのは、全ての存在が盲目的に突き動かされる「生」の形態をそれぞれの思想家が各々の思想に照らし合わせたものであろう。私はこのように、自分の世界観において、「生」を「弔い」と解釈する。

この「弔い」とは何か。

弔い

人は、死者を弔う。これはなぜか。きっと、人間には、死者を弔わざるを得ない理由があるのであろう。

弔われなかった死者はどうなるか。その身体は腐り果て、いやな匂いを発しはじめる。まず、人間が死者を弔いたい理由は、この腐臭を嗅がずに済ませることにある。

この腐臭は、今を生きる生者にとって、不吉だ。この腐臭は、それを嗅ぐ者にとって、友人の死を強烈に印象づけるといったことの他に、それ以上に、その人と過ごした日々、その人と相互に交わした全ての「こと」が、「死」といった強大な虚無の前で、あまりに無力であるということ、そして、その耐えがたい事実を黙認する自分の姿を、印象づける。人間には、これが耐えられないのだ。だからせめて、私たちはその友人を、私たちの友人のままでいさせるために、彼らを弔うのだ。

不吉

次に、「不吉」についてである。先ほどの「弔おうとする意志」は、定義上、「『不吉』の匂いを嗅がないようにするための行為」全般を指すことばであるが、この「不吉」というのは、友人の死といったことに限らず、この世界の至るところから見出すことができるものだ。

生きることに意味は無い。ニーチェが言ったように、あらゆる意味、そしてあらゆる価値は、解釈に過ぎない。このことは、一般的には、不吉だ。だから、私たちは何らかの形でこの世界から意味を見出し、それを基準に考え、その思考を成り立たせるために必要な「前提」を、維持しようと試みる。これを成すものが「信仰」である。弔おうとする意志は、この「信仰」を維持しようとする気持ちとしても言い表すことができよう。

人はなぜ主張し、それを否定する者を排斥するのか。それは彼らが、何かを信仰できる幸せを噛みしめ、その前提を揺るがそうと試みる者、自分たちが信仰するところにおいての前提が、すでに死んでおり、腐臭を漂わせているぞ、と言う者に、「なんてこと言うんだ!」と、言うためである。

「前提」は、他者との間で共有されれば、それだけで嬉しい。この性質は、宗教といった営みの成立条件にも、大きく関係している。同じ神を信じる仲間がいることは、それだけで嬉しいことであり、その気持ちを踏みにじる罰当たりな無神論者は、「私たちの敵」で、存在自体が不吉なのだ。

要するに、「弔おうとする意志」ということばにおいての「弔い」とは、辞書の通りの、死者の方向へのみ向くものではない。あらゆる——不吉な力の前であまりに無力な——意味、そして価値といった物事へと向かうものなのである。だから、全ての存在をその背後から盲目的に突き動かす「何か」の座に置くことができるものなのだ。

絶えざる葬式としての生

ところで、「弔い」という営みが私たちにもたらす利益は、「不吉なものを隠す」ということ以外には無いのだろうか。もちろん、それ以外にも、意味はある。それは、意味を継承し、歴史を創造することである。

何かを弔う意志は、必ず、何者かによって弔われる。仏教の「諸法無我」にも通じる考え方だが、この世に独立した存在は無く、それらは必ず、相互に弔われているため、究極的には、この世界というのは、私たちの一度きりの、絶えざる葬式なのである。その「絶えざる葬式」の行き着く果てに、一体何があるというのだろうか。

「終わり」は、これまで絶え間なく続いたその弔いの果てにおいて、ある程度の「結論」をもたらす。その結論は、終わりの後に続く人々によって弔われるわけであるが、その「終わり」というのは一体どの位置にあるのか。このことについて、「死に得るものの三段階」という視点から解説しよう。

三つの「死に得るもの」

「死」というと私たちは、個人の死をまず想像するはずだ。まずこれが一段階目、死の中で最も基本的な「死」である。この段階において死んだ者は、その他の人々によって、最も基本的な意味で弔われる。

次に、人類(生命)の死である。この段階においての死こそが、私たちにとって最も重要な死であるのだが、その理由については後述する。

最後に、死に得るものの中で最も広大な意味での死である「宇宙(世界)」の死を挙げる。この宇宙という空間において、我々人類の死は生かされていくのだ。

先ほど、「弔い」という営みには歴史を創造する働きがあると述べたが、この歴史は、言うなれば、死の位置にぶら下がっている。そして、その遺言の形態こそが、その歴史の全ての形態を形作るのだ。

遺言というものは、それより高次の「死に得るもの」のレイヤーにおいて生かされる。個人の遺言は、人類の位置において生かされ、その人類の遺言は、この宇宙という空間において永遠に生かされ続ける。

宇宙の遺言が果たしてどの位置において生かされるのかということについては、現状、語ることができない。

上位の遺言は、それより下位の全ての遺言の形態に影響を与える。そして、遺言はそれ以前の全ての弔いの形態を決定づける。

弔おうとする意志と「生命の肯定」

ある誰かが、「生まれてきて本当に良かった」と言い残してこの世を去った時、その人のそれまでの人生、そして弔いの全てが、全肯定される。これは、喜ばしいことであると私は思う。しかし、本当の意味でその遺言が肯定されるのは、まだ先のことだ。

人類の遺言が善いものであれば、その言葉はさらに、全肯定される。

人類の最後の人が、「生まれてきて本当に良かった」と言ってこの世を去った時、そこまで絶え間なく続いてきた私たちの弔いの全ては、私たちの絶えざる葬式は、その意義が完全に肯定される。私は、この無意味な世界において、これ以上の喜びは無いと思う。

人類は、その時ついに、完全に肯定された者として、自分たちの存在をこの宇宙に誇ることができる。私たちは、この時初めて、あの不吉で強大な虚無に完全に打ち勝つことができるのだ。弔おうとする意志による「弔い」という営みには、こういった力がある。

最後に

たしかにいえることは、私たちは何かを弔わずにはいられないということだ。あらゆる営みは、弔いということへと集約される。私たちは誰かを無条件に弔い、その弔いは、他の誰かによって無条件に弔われるというわけだ。

なので、私たちは今日も、自分の存在が完全に肯定される日が来ることを祈りながら、何かを信仰し、食べて、寝るほかないのだ。

みなさん、そして私の存在が、善きものであることが証明される日が来ることを、願っている。では。

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