苦しみには意味がある

幸福主義と生の否定

苦しみには意味がある」といった言説を目にされたみなさんの中には、こう言った思いを抱かれる方もいるだろう。

苦しみには意味がある? 苦しんだあとに必ずいいことがあるだと、馬鹿げている、苦しんで死んでいった人々はどうなるんだ!

こういった解釈をされるみなさんの多くは、人は幸せのために生きるのだという立場ばかりを信じている。幸せを善と一体化させて考える。こういった立場は幸福主義と呼ばれる。それも、みなさんが信じておられる幸福主義は、ベンサムを起源とする功利主義や、フロイトをルーツに持つ快楽原則説などの快楽主義をまぜこぜに含んでいるものだ。

この快楽主義は、しばしば苦痛に過ぎない生を生きるに値しない生命だとして否定する。他者の、あるいは自己の苦痛を理由に「劣った生」を否定するのが優生思想、そもそも人生は苦痛にすぎないという構造を理由に「全ての生」を否定するのが反出生主義である。

このように幸福主義や快楽主義は、幸福や快楽を価値の基準に置いているため、しばしば苦や苦と結びついた生を否定する。快楽主義の立場において、苦に終わった生は生きることに失敗した生にすぎない

幸福主義を打ち破る立場

人は幸せのために生きているのではない。このような言説を以上の快楽主義に対してはっきりと述べたのが、オーストリアの精神医学者フランクルである。以下に彼の言葉を引用する。

(「決算自殺」について)ふつう、貸し方には、すべての悲しみと怒りがおかれます。借り方には、これまで恵まれなかったすべてのしあわせがおかれます。けれども、この決算は、根本から間違っています。というのは、よくいわれることですが、人間は「楽しみのために生きているのではない」からです。(中略)つまり人間は、じっさい楽しみのために生きているのではないし、また、楽しみのために生きてはならないのです。

フランクル『それでも人生にイエスと言う』

人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をも含むのだ。

フランクル『夜と霧』

フランクルは、苦と死を含んだ人間の生には常に意味があるとした上で、私たちが楽しみのために生きたり、楽しむことのできない/苦痛にすぎない生について、それを理由に投げ出したりしてはいけないと言う。この立場は、人は幸福・快楽のために生きるのだとする幸福主義/快楽主義を真っ向から否定するものだ

現代日本と幸福主義

みなさんは「人は楽しみのために生きるのではない」という主張を見て、どのように感じられただろうか。現代日本はあまりにも幸福主義が人々の精神に深く浸透してしまった所だ。「楽しみのために生きる」という立場以外がそもそも成立しうるのか、そういうところから疑問に思われている人が多いのではないだろうか。「楽しみ以外の、何を頼りに生きていけばいいんだ!」。そういうことを、たとえば学校教育は私に教えてくれなかった。それはなぜだろう。

楽しみ以外のために生きるだなんてとんでもない

神は死んだ」とニーチェは言った。私たちは昔、猿だった。猿のすべきことは、本能が教えてくれた。人間になった私たちの隣には、伝統的な神がいた。神の似姿として、あるいは伝統の継承者として私たちは、すべきことをしなければならなかった。しかしそれらも死んでしまった。「そんな神はいない」「そんな伝統は必要ない」と、その無意味性が「暴かれ」、人の暮らしを「良く」する科学が台頭した。科学によって作り出された飛行機が、科学によって作り出された爆弾を運び、街を焼いていった。私たちは今後どうすればいいのか。本能は野蛮、神は死んでいる、伝統は古い、そして科学は、人の幸せを脅かす。そうした状況において、「快楽」は便利だった

快楽の追求は、私たちの存在の行き詰まりを覆い隠す。それだけではない。他者の快楽さえ脅かさなければ、「だれかに迷惑をかけることもない」。このように、快楽を主軸に置いた生き方は、無害なのである。その立場を揺らがすなんて、なんということだろう。「苦しみから意味を見出せとは、私に「苦しめ」ということか? 人に「苦しめ」だなんて、あなたはなんてひどいやつなんだ! 苦しみを肯定せよだなんて、とんでもない! あなたは人を傷つける悪だ!」。このように、「苦しみには意味がある」という立場は、現代を生きる私たちにとって「危険思想」なのである

そうは言っても

そうは言っても、幸福主義によって否定される生が存在しているのもまた事実である彼らは生きるに値しなかったかというと、そんなことはないというのが私の立場である。それを説明するにあたって、ニーチェの「運命愛」という概念を援用してみよう。

そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか? おお、わたしの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは一切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。一切の諸事物は、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているのだ。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』

要するに、生の肯定にはその構成要素である苦と死の肯定が必須条件なのだ。私の立場は生命肯定主義である。であるから、私は苦しみを肯定せざるを得ないし、苦しみを理由に生を否定する幸福主義/快楽主義を否定せざるを得ない。私がもし自分自身の苦しみに苦しんでいる人に出会ったら、「その苦しみには意味がある」と言うつもりだが、私の言うこの言葉の文脈は以上の通りである。

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