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ホームランを見ながら「じゃない方」芸人について考える

(2024/3/31)
ヤクルトの開幕戦を観戦に行った。

イニングが代わる合間のお楽しみコーナーで
同行していた子どもが突然大型スクリーンに映し出されて
つばみちゃんとゲームをすることになって驚いた。
こんなことあるのね。
子どもは試合開始直後から、自分が着ていた塩見選手のユニフォームの背番号を、誰もみてないのに誰か(おそらく本人の中の架空のカメラ)に向かってアピールをしていたので、夫は「それ、(もしも、スクリーンに)映ったときにやらないと〜」などとたしなめたりしていたが、本人の脳内では完全にテレビに自分が映っているイメージが確固たるものとしてあるようで、「いいの!」と確固たる態度であった。
その効果があって、誰か担当者が見るなどしていてつばみちゃんと遊ぶ人としてピックアップされたのかどうか、は、わからないけど、強烈な脳内イメージの力というのはすごいのかもしれない。

その後ホームランを打った塩見選手に声援を送りながら
「自分が”塩見”として生きることは、なんだかこれまで一度も想定したことないな…」とふとおもった。
”塩見”っていうのは、塩見選手本人ではなく、何かの分野のトップとしてスポットライトを浴びて活躍する、みたいなことだ。
塩見選手だけでなく、ここでプレーしているすべての選手が、日本でトップの人たちで、努力や才能がトップクラスなだけでなく、自分がプロ野球選手になる、こんなふうにこの球場で、ホームランを打つ、などというセルフイメージを持ち続けた人たちなのだろうな。

わたしも幼いころは、小説家になりたいとか、アイドルになりたいとか、無邪気に夢見ていた。
それしか将来のイメージを知らなかったというのもある。
だけど、中学生になって、ことごとくわたしのセルフイメージは「どうせ無理」に変わっていった。わたしは「選ばれない方の人」なのだと。
それは中学生にはじまり、大学生まで延々と続く(今になっては短い期間だけど当時は一生のように感じていた)かわいい女友達の横にいて、いつも自分は、選ばれない方だったという思春期としての大問題が影響しているように思う。
友達と二人で歩いていて、明らかに異性が友達の方に興味を持って話しかけているとき、知らない間に仲が良かった男女グループの中で自分以外がカップルになっていたとき、こうやって書くと容姿だけでなくわたしにも問題がありそうだな、と思うのだけど、とにかく当時は自分が「じゃない方芸人」であることを何度も何度も意識しながら生活していた。無意識に自分が傷つかないように「じゃない方芸人」であることを自分のセルフイメージとして取り込んでいるのだ。恋愛に限らず今でもずっと。
でもそれで卑屈になっているわけではなく、こんな普通な自分が愛おしいな、大切だなとも思うし、いわゆる”美人”の友人が、それ故にさまざま傷ついていることも知っている。常に強く「じゃない方」である自分を否定し、ポジティブであることを自分に強要したいわけじゃないのだけど、あまりにも「どうせ無理」が内在化し、自然な状態になっているようにも思う。いいとか悪いとかじゃなくて、そういう状態であるかもしれないな、と認識した、という感じ、塩見選手のホームランを見ながら。いつのまにか、こうありたいということよりも、トップになれないとか、選ばれないとか、誰かとの能力比較前提のセルフイメージに置き換えていたかもしれない。

プロ野球選手の人たちは、自分が「じゃない方芸人」であると感じたことがあるのだろうか。ニ軍の選手は一軍にあがれない自分を「じゃない方芸人」と認識するのだろうか。メジャーを目指しながら叶わない選手は自分を「じゃない方芸人」と認識するのだろうか。もしそうならば、上には上が果てしなくいるのだし、全員が「じゃない方芸人」だ。

プロ野球選手の仕事は、夢を与えること、などと言われたりもする。
それって、野球選手になりたい子ども達向けのはなしだけじゃなく、どんな人にとっても「どうせ無理」というセルフイメージを払拭することなのかもしれない。
そういう力がプロの選手にはあるよね。

子どもはつばみちゃんのサインをもらってとても喜んでいた。
ねえ、それ、本当にすごいことだよ、観客3万人もいたんだよ、一生に一度あるかないかのことだよ。
子どもは、わかっているのかいないのか、無邪気に喜んでいるだけだ。
寝る前には、「今日がいちばん楽しかった」と言っていた。
選ばれて嬉しかった、じゃなくて、今日が楽しかったと言っていた。
その感想を持てるのは、たぶん、スクリーンに選ばれなくても、せっかくアピールしたのに!と、傷ついたりはしなくていいな。

ヤクルトも勝って、よかった。




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