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「ニコラウスさんの出来心」とは何なのだろう。

世間はいよいよクリスマスムードに包まれております。

クリスマスという日は、人によっては強い太陽の光のような輝きを帯びる日となっており、それ故に人によっては強い影にそっと身を寄せ耐え忍ぶような日でもあったりします。
煌びやかで幻想的で、夢のような素敵な一日を作り上げるために、誰かが身を粉にして働き、礎となってそれを支えているのです。
クリスマスに限らず、世の全てのイベント的な営みは誰かが支えてくれている事で成り立つことを、決して忘れてはなりません。

さてつまり何が言いたいのかというと、クリスマスという日をどう捉えるかは人によって違うのは当然ということなのです。
そのため、例えば音楽ゲームでクリスマス付近に積極的にプレイされる曲の傾向の違いも、もはや近年の一種の文化ともいえるでしょう。

例えばBEMANI機種であれば、
幸せな一日を予感するなら「I'm so happy」、厳かな一日を感じたいのであれば「Holy Snow」、穏やかでイベントめいた心情を持ちながらプレイしたいなら「Pop'n Xmas 2004 ~天使ノウタゴエ~」、オシャレに着飾りたいのなら「December in Strasbourg」、仕事に追われていたり一人孤独に過ごす予定しかないのであれば「I'm a loser」などなど、
機種や人によってプレイする曲やおススメする曲は異なってくるかと思います。

さらに、機種によっては「ジングルベル」の狂気じみたアレンジや譜面が襲ってくる日であるという穿った認識をしてしまっている人もいるかもしれません。穿ってはいますが、間違ってないのが辛いところです。

そんな「音ゲーマーのクリスマス」の代表格として、私としては是非とも「ニコラウスさんの出来心」を全人類にお勧めしたいと考えております。

○「ニコラウスさんの出来心」とは?

「ニコラウスさんの出来心」という曲は「BEMANI Sound Team"Mr.Nicolaus"」により作曲されたノスタルジアの楽曲で、誕生したのは2019年12月23日となっています。

みんな良い子にしてたカナ?
愉快な聖者の愉快なプレゼント!

というコメントが添えられており、サンタクロースの起源とされている聖ニコラウスさん自ら(?)が、ニコラウスさんの『出来心』を表現した曲となっています。

ちなみに、ここで一度『出来心』という単語の確認をしておきましょう。

出来心:計画的ではなく、その場でふと起きた悪い考え。
ついふらふらと起こった、好ましくない心の揺らぎの事。

よく、『出来心』という表現は「ついうっかり小腹が空いててプリンを黙って食べちゃった」とか、「椅子のクッションをブーブークッションに入れ替えちゃった」のような、やってはいけないと分かっていながらもついやってしまったという表現でよく用いられ、
「そんなに深く考えてやったわけじゃないから許してニャン☆」というニュアンスを多分に含んだ表現と自分は考えています。

話を戻します。

この「ニコラウスさんの出来心」、プレビューを聞く限りホームパーティーに予告なく登場して場を賑やかし笑わせるような、クリスマス的サプライズを起こしたニコラウスさんのイメージを彷彿させます。
「わぁ~、サンタさんだぁ~!」と子供が喜んで飛びついてそうな情景すら目に浮かびます。非常に微笑ましいですね。

ニコラウスさんの『出来心』とは、そうか、子供たちの喜ぶ顔を見るためのサンタさんの御茶目さを表現した曲なのカナ?と

騙されてしまいます。


実際に選曲した後、流れてくるのは実に恐ろしき呪歌の様相を呈した演奏。
クリスマスを題材にして映画「ミッドサマー」を作ろうとしたら多分こういう曲が流れるだろうと考えてしまうくらいには『儀式めいた禍禍しさ』を感じさせる曲調となっています。

※…本当に関係ないとは思いますが、ミッドサマーは同年2019年の7月に公開された夏至祭をテーマにしたホラーミステリー映画となっています。日本公開は2020年2月なので本当に関係ないと思いますけど。

途中から「ジングルベル」がこれまた怨念めいたアレンジに姿を変えて流れてくるため、クリスマスがより猟奇的な感謝祭へと変化していきます。
確かに、元々ジングルベルはサンクスギビング(感謝祭)を祝うための曲だったらしいので、歴史的な流れを紐解いていけば多少なりとも血の臭いもするかもしれませんが、これは若干やりすぎです。

金切声をあげて叩き付けられるかのように鳴いている、否、啼いているピアノの音は単に暴力的で、実際のノスタルジアの譜面でも明確な殺意を感じずにはいられません。ノスタルジアに収録された当初、いったい何人のクリスマスムードを破損に至らしめたのか…。

鍛えられた音ゲーマーはクリスマスソングに身構える習性があるため、防衛本能で心身を守る事ができたプレイヤーもいたでしょうが、
今回のこの曲は無条件解禁された新曲だったため、ピュアなプレイヤーが巻き込まれ粉微塵になってしまった可能性も否定はできません。それはとてもとても悲しいことです。

そして、最後は一転してプレビューにあったような朗らかな音楽が鳴らされます。
まるで悪い夢を見ていたところを家族に起こされ、暖炉の前の、パーティーの準備へと誘われたような気持ちになります。
あぁ、なんだ、夢だったんだ、と。今日は楽しいクリスマスなんだ、と。
ようやく抜け出した白昼夢を忘れようとしたその瞬間、最後に叩きつけられるようなピアノの音が1つ聞こえてきて、曲は終了となります。

なんなんだこの後味の悪さは。

○『出来心』とは何だったのか

曲の大半が呪詛に満ちた黒さとなっていた「ニコラウスさんの出来心」。
そりゃ確かにクリスマスというイベントに対してマイナスの感情を持つ人はそれなりにいるかもしれませんが、サンタクロースの起源となった聖ニコラウスさんによる『出来心』がここまで邪になるものでしょうか。普通は想像できません。

では、サンタクロースとは?聖ニコラウスさんとは?そしてクリスマスとは?
ニコラウスさんの『出来心』を理解するには、これらを少し紐解いていく必要があるでしょう。

・サンタクロース

伝説上の人物。赤い服と白いひげの老人。
トナカイのひく空飛ぶそりで飛び回り、煙突から家に入ってクリスマスイブにプレゼントを配って回る。
…これが基本的なサンタクロースの『像』となっています。
日本ではほとんど煙突のある家はなくなってしまったので、煙突というイメージは年々薄れてきているかもしれません。

そもそも、この「プレゼント」の始まりは、娘に売春させなければならなくなったほどの貧しい家族の家へ、ニコラウスさんが金貨を投げ入れたという逸話が由来となっているそうです。
その金貨のおかげで家族が離散せずに済んだ、という感動的なお話ではありますが、正直この時点で旧時代的なカビくささを感じずにはいられません。

また、サンタクロースは国や地域によって伝承の違いが発生しており、ドイツでは「クネヒト・ループレヒト」という同伴者がいるそうです。
これは通称「黒いサンタクロース」と言われているそうで、悪い子には石炭の塊や小石をプレゼントしたり、時代や地域によっては灰袋で叩くという戒めをする存在らしいです。
なんだか秋田の「なまはげ」みたいだな。

他の国や地域でも、悪い子には生のジャガイモを配るだの、悪い子はさらっていくだの、調べれば調べるほど「地方に染まった特殊なサンタクロース像」はたんまり出てきます。
人類の特性として、伝承が言語と文化に歪められるのは常に発生する現象なので、もはやこういったサンタの地域性の違いというのは仕方のない物といえるでしょう。

なので、「サンタクロース」という伝説上の人物は、一枚岩で簡単に語れる存在ではないということを知っておかなければなりません。

・元ネタの聖ニコラウス

さて、そんなサンタクロースの原点となっており、今回の楽曲名称でも使われているニコラウスさんは、なんと3世紀前後に実在したキリスト教の主教・神学者であるとされています。
面倒なことに国によって絶妙に名前の発音が違うようで、ニコラスだったり二コラだったりニコラオスだったりと、呼び方は様々です。

で、こちらの元ネタの御方は「奇蹟者」と崇められているそうで、プレゼント配りおじさんなんて生っチョロいと感じるレベルの以下の逸話が残されています。

・海路の暴風を鎮め、船から落ちて死んだ水夫を蘇らせた
・天使からのお告げで大主教と任命された
・神からの恩寵で言語的カリスマと容貌がパネぇ感じだった
・遺体からでてくる物体が信者の病を治した

聖人ブーストの掛かったとんでもない能力者って感じですね。
正直めちゃくちゃに脚色はされていると思いますが、それほどまでに脚色されるほど、当時は愛された人物であると考えられます。

しかし、そんな能力のある人間が何も問題なく暮らせたわけがありません。
とある帝の時代には教会ごと迫害を受け幽閉されたり、とある冤罪を救った後には逆恨みされた人たちによってニコラウスさんの協力者が陥れられそうになったりと、それなりに闇深い政治と宗教の話がついてまわっていたようです。

この歴史についての記載も、聖人ブーストの逸話とごちゃまぜに書かれているもののようでしたので、どこまでが真実で、どこからが歪曲された話かは若干掴みづらい部分になっています。

さらに、「子供の守護聖人」と言われている理由の逸話もなかなかなもので、子供を誘拐し商品にしていた肉屋から、7人の塩漬けの子供を復活させて助けたという逸話から来ているそう。
この辺りから、ニコラウスさん自体はかなり強めの「人間の闇」を垣間見ていることが分かります。

頻繁にザオリク使っているところはちょっと目を細めてみる必要があるかとは思いますが。
まぁ、高僧であればザオリクくらい多少は、ね。

・クリスマス

イエス・キリストの誕生を記念する行事である「クリスマス」。
あんまりにも大きすぎる記念日なので、歴史や国・地域による変化や歪曲はここでは触れません。ググれ。

クリスマスはあくまで「記念の日」であってキリストの誕生日じゃないぜ、という話があったり、そもそもキリスト教的にはイースター(復活祭)のほうが重要でっせ、という話があったり、わりとクリスマスそのものの位置づけはフワフワと浮いている印象が自分はあります。
なにせ同じキリスト教でも宗派によって多少扱われ方も変わっていますしね。

元々がふんわりしていて、かつ祝い方も千差万別であるクリスマスについては、サンタクロースないし聖ニコラウスの扱われ方もまた千差万別になるのは仕方のないことでしょう。
しかしながら、クリスマスについては時代が進むにつれて「商業的な好機」として扱おうとする人が増えてきてしまい、そこで問題になったのは「クリスマスでの狂騒」であるという事は事実として捉えておかなければいけません。

「クリスマスは祭りじゃい、騒いでなんぼじゃい」という考えが広がり始めてきた事を受けて、ローマ教皇は「キリスト教的には商業主義に染まったクリスマスは「汚染」されている」といった主旨の発言を残しています。

で、さらにポリコレ層が宗教的中立性とやらでクリスマスに物申し始めたりしたという微妙な話も近年はちらついており、宗教から始まった記念日を人類が扱う事のむつかしさが滲み出ている話だと感じずにはいられません。

余談ですが、
調べてて「おっ」と思った話として、イギリスのスカイスキャナーという旅行サイトが発表した、「宗教的あるいは個人的、思想的な理由などでクリスマスを祝う習慣がなく、クリスマスの大騒ぎを避けたいと思っている」人に勧める「クリスマスを避けるために行く国トップ10(2014年)」のランキングで日本が堂々の1位であったという珍説を見つけました。
前提が長いランキングで笑う。

どれどれと以下のサイトを眺めてみた次第でしたが、そこまで詳しく内容は書かれていませんでした。ズコー。

ただ、「そもそも祝日じゃないから国民は普通に仕事している」という理由も含めて1位にするのって、確かに外からみたらカルチャーショックを受けるポイントなのかもしれんよなと思う次第です。
ましてや今年(2023年)のクリスマス当日はバッチリ月曜日だから、しっかり休むのは飲み屋さんとかそのあたりじゃないでしょうか。

確かに日本は「教会に行かないやつはカス」みたいな雰囲気は全体的には存在しないし、クリスマスに若干心が痛くなるような自虐ネタをかまそうが、クリスマスはケーキやオードブルの半額を狙うだけの日だと暴言を吐こうが、
「それもまたクリスマス」で済ませられるお国柄になっていると思うので、
確かにクリスマスの縛りが強い国から見たら過ごしやすい国と感じるのかもしれません。

良いか悪いかは、ともかく。
別ベクトルで結局騒いでるじゃんという話は、ともかく。

・3点を絡めて考える『出来心』の正体

我々日本人のクリスマスという行事は、世界的な歴史や動向と照らし合わせて見ると「平和だが異質」であるという側面が見えてきます。
見様によっては、クリスマスという大切な日を軽んじている人が多いのが日本ともいえます。

熱心なキリスト教徒からすれば、祈りも捧げる事もせず聖歌を奏でる事もせず、上っ面だけを商業的なノリで楽しむのは我慢ならんと考える人もいるのかもしれませんし、その気持ちは理解できます。

実際にローマ教皇がメディアに対し似た主旨の発言を残している以上、それを引用して高らかに主張を掲げる方々が出てきてしまうとしても、それは時代やメディアの移り変わりによって出来た新しい波であり、1つの主張として受け入れられるべきものではあります。

正直自分なんかは、「まぁ国や地域で好きなようにすればいいジャン」と考える派の人間ですが、『格式高さ』や『厳かさ』を重点とする派閥の気持ちも分からなくもないです。
ただ、残念ながらベストな答えなど存在しない問題である以上、そもそも議論するための根本的な情報が膨大に存在して散らかってしまっている以上、お互いの意見主張をぶつけあってもお互いが納得する理想的な着地点は存在しないよなぁとも思うわけです。

では、結局守護聖人である聖ニコラウスが望む「クリスマス」とは何なのでしょうか。

苛烈な人生を歩み、聖人として祭り上げられ、遺体すらが聖遺物のような扱いを受け、後世に塩漬けの人間を蘇らせた守護聖人といわれた。
金貨を投げ入れたエピソードを主軸に、全世界にプレゼントを配って回るサンタクロースの伝説の礎となった。
全ての人間の『善』を凝縮し、クリスマスの象徴のような存在と成った聖ニコラウスは、ここまでの人類の歩みに何を想うのでしょうか。

当然、それは妄想や想像の範囲を出ることはできません。聖人である彼なら、これまでも、これからも、人類の営みの全てを赦すかもしれません。

しかし、そんな彼がもし『出来心』を持ってしまったら。
善行のために人類に対して目をつぶった回数が計り知れないであろう彼が、人類に対して向ける『出来心』は、どのような性質でどれほどのものになるでしょう。

例えば。
弾圧を行った帝を力で正す事ができたのなら。
自分の味方を陥れようとした者に裁きを下せたのなら。
娘の強制売春が起きるような貧困を生み出す、人類の行いを全て正せるのなら。
塩漬けの子供を肉として売る鬼畜を、地獄の業火に焼かれてしまえばと考えるのなら。
主を讃える日をないがしろにする現代の「悪い子」に、最適なプレゼントを贈ることができるのなら。
サンタクロースやクリスマスの「あるべき姿」を歪め、利己的にしか利用しない現代の人間たちを戒めることができるのなら。

そんな、1700年以上の長い年月をかけて醸成されてきた無念を形とした『出来心』は、それはもうドス黒い特級呪物の如き情念となるのではないかと想像できます。

彼は問いかけます。「みんな良い子にしてたカナ?」と。
聖ニコラウスほどの聖人から見れば、果たしてどこからが良い子の基準になるのでしょうか。
我々現代の、生きとし生ける全人類は、『出来心』を持った彼の眼鏡に叶うことができるでしょうか。

その答えが、きっと「あれ」なのです。

小便はすませたか?神様にお祈りは?
部屋のスミでガタガタふるえて命ごいをする心の準備はOK?

さぁ、今年のクリスマスも、彼の素敵な素敵な『出来心』に触れに行こう。
もし、蹂躙され犯され手指をズタズタにされてしまったのなら、
GITADORAで「I'm a loser」を奏でて傷心を癒やせばよい。

皆さんの、
素晴らしいクリスマスをお祈りいたします。

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