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237:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える04──3章 何が見えるのか

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.



3章 何が見えるのか

1 認識論的加工主義

五感の風景において視覚は特権的な役割を担っていると考えられる.視覚の風景がまずあって「ここ」「そば」が決定していく.でもそれは私においてだけかもしれない.私の五感の風景においては,視覚視界が重要視されている.視覚世界がまずあってではなく,視覚世界がまずあってと感じてしまう私がいる.私と世界とがつくる予測モデルにおいて,大抵のときは視覚世界が聴覚世界や触覚世界よりも重要視されているということになるだろう.

五感の風景はいかにそれぞれ異質であっても一つの空間の風景なのである.「どこからともなく音が聞こえてくる」.このとき,その「どこ」は視覚風景の中の「どこ」ででもあるのである.背中が痛い.このとき,その「背中」は触覚的身体図式の中での背中であるとともにまた,視覚風景の中での背中,つまり視野正面に対しての「背後」にある背中なのである.暗闇の中で手を前に伸ばして触れた扉の触感は,黒一色の視覚風景の正面のすぐそばにある触感である.この「一つの空間」の中心である「ここ」は五感の風景すべてに共通の「ここ」であり,「すぐそば」も「遠く離れて」も同じく五感共有の「そば」であり「遠方」なのである.ただしこれは,われわれの目鼻舌耳が頭部に集まっているという解剖学的特性のためである.しかし,それらが互いにバラバラだとしても,各感覚の「ここ」や「そば」の間に空間的位置関係があることには変わりがない.p. 63

私と世界とがつくる予測モデルは,私の意識に「ただ一つの空間」として現れる.私が世界に存在し始めて,世界と相互作用をし始めたそのん瞬間に,私の意識には世界との相互作用から生じる予測モデルが生成され,それが私にとっての「ただ一つの空間」としてあり続ける.「ただ一つの空間」において,「一つの物体」は予測され,認識され,行為されていく.その様子が視界として現れ,私の眼が向いている方に現れるのである.そして,聴覚や触覚といった感覚も視界にマッピングされていく.音は視界の外から聞こえてきたり,見えない部分から聞こえてきたりする.それは視界の外や見えない部分ではあるが,視覚世界内の音であって,それに対しての予測が行われえ,音が聞こえてくる方を向くことで視界を移動したり,音が聞こえてくるけど見えない何かの存在を予測して,そのモデルを推論して,視界に推論されたモデルを重ね合わせるということが行われる.

そしてこのことは「経験に教えられて」そうなのではない.反対に,その「経験」自身がすでにこの一つの空間の中での経験なのである.雷鳴を,嵐の山野の視覚風景と一切の空間的関係をもたない天外の音として聞く,ということは想像不可能である.神の声,悪魔の囁き,を聞いた人もこの視覚風景の「どこ」かから(天上から,あるいは,耳もとに)聞こえる声としてしか聞けなかったはずである.このカント的な意味での「ただ一つの空間」の中ではじめて「物体」が在ることができる.視覚的に見え,そして触覚的に触れることもできる「一つの物体」,机や椅子,が在ることができるのである(一章 6節).p. 64

ネッカーの立方体が出てきた.「解釈抜き」の現れもまた「線でできた平面図形」として解釈されている.これらを拒んだ先に何者でもない.ネッカーの立方体が目の前にあるとき,その見え方が変化するということ自体が「完結した視覚風景」となっている.私も含め,おそらくほとんどのヒトはネッカーの立方体を見るときに,そこに少なくとも二つの立方体の現れを見るだろう.訓練したり,別の見え方が見えてしまった人はさらに多くの現れを見ることになる.それがそのヒトにとっての「完結した視覚風景」である.他の誰かはわからないが,私とネッカーの立方体との相互作用から生じる視覚世界では,ネッカーの立方体はそのようにしか現れない.さらに見えているネッカーの立方体の現れとともに,それまで得たネッカーの立方体に関する知識もまた現れるだろう.聴覚や触覚なども現れる「ただ一つの空間」には,私の知識・記憶もまた重ねられていくことになる.これによって,ネッカーの立方体はそのようにしか見えないところに,そこから私が考えることも「ただ一つの記憶(推論・思考)」として重ねられて,重ね重ねそのようにしか見えない状態になるのである.このとき「ただ一つの記憶(推論・思考)」は加工,解釈,統合ではなく,ネッカーの立方体が現れる視覚世界の「ただ一つの状態」である.

また,例のネッカー立方体を眺めるとき,様々な傾きでの三次元立体に見えることを「解釈」というのであれば,「解釈抜き」の感覚内容は何なのか.それはいくつかの線でできた平面図形であるはずはない.「線でできた平面図形」もまた一つの解釈なのだから.あらゆる「解釈」を拒むということは,あらゆる「かくかく」を拒むことであり,いかなる「かくかく」でもないものはもはや何ものでもないのである.
こうして,バークリィの「視覚に直接固有」な純粋視覚風景を抽出しようとする意図は始めから誤っているのである.視覚風景はそもそも一枚岩の風景であって,それを素材と加工という認識論的製作工程の結果とみたり,素材とその解釈または統握,といった成層状のものとみたりすることはできないのである.なるほど,同じ一つの機械がその専門家と素人には随分と違った容姿に見える,だがその機械の専門家に見える姿は素人に見える機械の姿に何かの解釈を付け加えたものだということではない.それは,ピントの合った鮮明な写真が,ピンボケの写真に何かを付け加えたものではないのと同様である.どんな人の,どんな状況での視覚風景もそれぞれ完結した視覚風景なのであって,素材と加工,与件と解釈,要素と統合,といった区分はいかなるものでも受けつけないのである.pp. 67-68

2 四次元宇宙が見える

解釈とともにニュートラルな空間は現れるだろうか.解釈が「無」というわけではないけれど,見えているけど見えていない領域がある.視界はすべて私と世界との相互作用から生成される視覚世界から切り抜かれたものだから,そこには私の履歴と世界からの情報の全てが現れている.しかし,視界を埋める全ての現れを私が見ているのか,注意しているのかというとそれは違うであろう.視界には現れている,だが注意は向けられないという領域が,ニュートラルな空間として記憶される.記憶されると言っても,私の意識外で生じることなので,後々にそこは「思い出せない」領域となって,その視界を意図的に完全に再現しようとしたときにはニュートラルな空間として表すことができなく.しかし,のちにかつての視界を意図的に再現しようとする機会などほとんどないので,このことは意識されない.だから,小説もう一度は興味深いのである.

それゆえ,「何々として見える」,例えば,机として見える,穴として見える,というとき,まず「何ものでもない」何かが見え,ついでそれを「何々として」解釈あるいは判断しているのだ,ということは誤りである.この二段構えが時間的な心理過程でないことはもちろんであるが,いわば構造的分節だとしても誤りなのである.上に述べたように,「何ものでもない」何か,などは見えもせず考えられもしない何かだからである.だから,しいて伝統に従って「判断」という言葉を使うならば,見えることと判断とは,たとい権利問題としても分離することはできない.判断から絶縁され,解釈から漂白された,純粋にただ見えるもの,そういうものはないのである.感性的なものと知性的なものとを,たとえ理論的(?)にでも分離することはできない.感性的なものはつねにまた知性的なものである.p. 68 

「このシリーズの全体が寄り集まっていわば「正しいシリーズ」というものを合成する」ということから予測モデルとしての視覚世界はどのように考えられるだろうか.世界の状態を予測するということは,まさに今の状態を予測することでもあり,その一歩先を予測することでもあるとすると,予測には常に今の少し先のことが含まれている.世界を予測し続けるのが予測モデルだとすれば,予測モデルは輪切り単体の状態ではなく,状態のシリーズになっていると考えられる.この予測の状態のシリーズの一つの状態を認知し,行為を起こしたときには,それで変化した世界の状態に対する予測のあらたな状態が生成されている.しかし,この記述は新規の状態のときであって,大抵の場合は,ある予測の状態を何回も体験しているので,その先の状態も予測されていて,それがシリーズになっているという方が効率的であろう.そもそも予測なので「正しい視覚風景」ではなくて,常に世界と誤差を抱えているのが視覚世界なのだから,一定の誤差の範囲のなかで予測をしていくということだから,正しい,食い違うではなくて,誤差を修正しながら認知と行為を続けていくことが求められていて,最初からシリーズしかない.誤差が大きいときのみ,焦るなどして身体にゾワっとした感覚が走り,予測を大きく修正する.食い違って終わりではなく,予測は続けていかないといけないのである.

このズームレンズ的な視覚風景のシリーズの中で,これこそ間違いのない正しい視覚風景だというものはない.一つの正しい視覚風景なるものがあり,他の視覚風景はそれと照合して適合しているのが正しく,食い違うのが誤りである,というのではない.そうではなく,このシリーズの全体が寄り集まっていわば「正しいシリーズ」というものを合成するのである.そして,その正しいシリーズ(正しい射映シリーズ)にうまくはまらない視覚風景が誤りとされるのである(次節で立ち入って述べる).遠方から丸く見える塔の風景は,「単にそれ自身において見られ,他のものと関係させられないならば,本来偽ではありえない」(デカルト『省察』 Ⅲ)のである.

「相貌を精緻するための予測と考えることができるだろうか?」と,過去の私がメモに書いていたが,今も同じことを考える.大森が書く視覚風景もまた,そのヒトと世界との相互作用で,そのヒトにしか生じないものである.世界は同一であっても,相貌はヒトそれぞれ異なるし,同じヒトでも経験によって相貌は変化していく.この変化を取り入れて世界を見るということになると,私のなかに世界の履歴がまとめられている必要がある.それを予測モデルと呼ぶとスッキリすると私は考えている.自分の部屋の暗がりと見知らぬ部屋の暗がりが異なるのは,予測モデルのあるなしである.部屋ということでは共通であっても,モデルの細部は異なるため,例え細部が暗がりで見えなっていたとしても,明るいうちの部屋の体験が細部を構成し,相貌を変えるのである.本当に真っ暗であったとしても,相貌は異なるだろう.仮に見知らぬ部屋を最初から真っ暗で体験したら,自分の部屋を真っ暗でしか体験していないということはあり得ないので,ここの相貌はとても大きな違いが生まれるだろう.

そこで言われている「推測」とは何なのだろうか.障子にうつる影から中に人がいると思う,このようなことであろう.しかしそれは,障子にうつる影そのものこそあらゆる推測以前の端的な赤裸の知覚だということではない.それは「人影」として見えていないとしても,人形の影,燈火のたわむれ,障子のゆれ動く模様等,要するに「何か」として見えているはずである.「何ものでもない影」とはまさに何ものでもない.そして,それが人影として見えるか,それ以外のもの,例えば燈火のゆらめきとして見えるか,それはそのそれぞれの視覚風景そのものが違っているのであって,同一の視覚風景に基づいた二つの「推測」の違いではないのである.人影として見える影と,燈火のゆらめきとして見える影とは,たとえ仮にその幾何学的形状は同じだとしてもその相貌,その視覚的姿,は全く異なるのである.人影と,人影ではない影,は全く異なって見える影である.そして「見える」とは幾何学的形状を測定することではなく,その相貌をもって様々な風景が見えることなのである.千住の三本の煙突が見えるとき,それが三本の煙突として見えるか,お化け煙突の四本のうち一本がかくれているものとして見えるかによって,その三本煙突の風景の相貌はがらりと違うのである.自分の勝手知った部屋の真暗がりと,見知らぬ部屋の真暗がりとは,全く相貌を異にする暗闇の視覚風景なのである(暗闇の視覚風景もまた「底しれず深い」三次元風景であることに留意して戴きたい).p. 71 

視覚風景は「あらゆる細部とニュアンスに満ちている」のに対して,視覚世界は細部もニュアンスに満ちているけれど,世界とのあいだには誤差があり続ける.視覚世界には視覚風景ほどには細部もニュアンスも満ちていないと言った方がいいだろう.視覚世界は世界の予測モデルであって,コピーではない.予測モデルと世界との誤差のフィードバックによって,その誤差を最小化したときに視界として展開される.予測モデルそのものは一つの視点=座標から構成される細部もニュアンスもあるが,世界そのものではない.過去の視点=座標から構成されたモデルは現在の視点=座標とは異なって当然だが,過去にその視点=座標から得られた特徴点は現在もほぼ一緒だし,この特徴点の誤差を最小化していくと考えるといいだろう.予測モデルは特徴点に基づく推論によって世界との誤差が最小化されるし,視覚風景とは異なり推論によって成立しているとも言えるだろう.

科学実験で数値的に表現されたデータとそれからの推論,犯罪捜査で骨組みだけの粗い描写で表現された事実(「その時窓は締まっていた」といったような)とそれに基づく推論,こういった場合にはデータと推論をほぼきっぱり分けることができよう.しかし,あらゆる細部とニュアンスに満ちている視覚風景の中でそのような粗笨な分別をすることは,たとえ近似的にであってもできない. N・ハンスン( Patterns of Discovery, 1958)は事実データの理論負荷性( theory-laden)を強調したが,それにならって視覚風景の推論負荷性を言うことすら適切でない.それほどに視覚風景から推論的要素を抽出することはできない相談なのである.p. 72

大森が推論と言っていたのは今見えているものの「向こう側」を改めて見るということになるのか.何かを遮蔽している壁を見るとき同時に,見えてはいないけれどその向こう側も視覚風景の中にあって,その向こう側は推論されるものではなく,壁がある時点で同時にあるということ.視覚風景はやはり予測モデルとしての視覚世界と考えていいのではないか.予測モデルにおいて,壁は大森が考えるようなかたちで視覚世界に現れる.その向こう側の存在を予測するとセットで壁が現れ,壁が現れる=向こう側があるということとして,私の意識は認知,そして,行為の準備をするだろう.それはこれまでの体験の総体から得られた推論込みで構成された予測モデルから導かれる必然的な現われであろう.「上っ面は上っ面ではない」ということが意味するのは,上っ面がこれまでの体験からの予測モデルとともに現れ,向こう側が必ずあるということを意味しているのである.上っ面の向こう側がないということは,世界の果てということになり,そのような状態を体験したら,私の予測モデルは大幅な修正が求められるだろう.

大体,「障子」が見えているということが既に「向こう側を遮っている障子」の風景なのである.向こう側,を抜き去り切り取った障子はもはや障子ではなく,壁は壁でなく,そして上っ面は上っ面ではない.障子や壁の視覚風景には必然的にその「向こう側」が登場しているのである.なるほどその向こう側は「直接見えている」という形では登場していない.だがそれは「思われる」という形で登場しているのであり,そして退場することはありえないのである.それは「直接見えている」障子の姿の中に「思い籠め」られて出ずっぱりに登場している.その「思いこめ」なくしては障子は障子としても,紙の拡がりとしても,その他何であれ要するに「向こう側を遮っているもの」として「直接見える」ことができないのである.「直接見えていない向こう側がある」,そのことがとりもなおさず「そこに何か遮蔽物が見えている」ことに他ならない.向こう側が見えていないことこそ一つの「表面」が見えていることだからである.何かが見えておれば必ずそれは,その向こう側を遮蔽するものとして見えているからである.p. 73

「切り身の視覚風景とは不可能な視覚風景なのである」と同様に,予測モデルとして構築される視覚世界もまた切り身の状態では現れない.私と世界との相互作用は生まれたときからずっと続いている.ある視点=座標にくるのがはじめてだとしても,その視点=座標は,私が生まれてからずっと存在している地球に,さらに言えば,宇宙にあるものとして体験済みなのである.太陽は上にあり,重力があるなど宇宙,地球の物理条件は変わらないので,そこから予測モデルは組み立てられる.全く知らない状態になったとしても,唯一変わらない私という視点=座標があるので,何にしても「カマボコの一切れのようにそれだけで完結した視覚風景」にはならないのである.大盛りの視覚風景の興味深いところは,視覚風景そのものが未来を持っているところだと書いたとで,私が考えている視覚世界も予測モデルしてあるのだから,未来を常に含んでいると言えるだろうと思った.しかし,大森の視覚風景がもつ未来は,視覚世界がもつ予測が及ぶ未来よりも射程が広い感じがする.私は視覚世界を私よりに考えすぎているのかもしれない.

更にこの空間的表面に,現在というものがいわば時間的表面として対応する.過去はいわばその内部であり未来はいわばその向こう側なのである.いうまでもなく,現在は過去と未来に前後されての現在であり,この前後から離れて宙に浮き上がった現在などはありえない.だから現在(点的時刻ではない持続としての現在)の視覚風景もまた,その過去と未来とから切り取られての視覚風景ではありえない.カマボコの一切れのようにそれだけで完結した視覚風景などはありえない.切り身の視覚風景とは不可能な視覚風景なのである.それは,上の流れも下の流れもない,ただ眼前数センチ幅だけの川の流れの視覚風景が不可能なのと同じである.たとえ木立ちや岩にさえぎられて,直接見えるのはその数センチ幅の水流だとしても,それが流れ来て流れ去る川上川下の思いを抜いては,それは「流れる水」の視覚風景ではない.さらに,たとい澱んだ水の風景だとしても,それを包む周囲の思いがなくては風景であることはできない.それと同様に,現在風景はその前後を包む時間的周囲があってはじめて現在風景なのである.p. 73 

私が考える視覚世界が私と世界との相互作用で生成する予測モデルであり,その視覚モデルをひとつの視点が持つ視野で切り抜いたものが視界として見えている.とすると,私が視界に見ているのは私と世界との相互作用が生成した視覚世界だからそこには否応なく私が入り込んできて,それゆえにそこには私を基点とした過去と未来の風景が入っているとことになる.同時に,大森が考えるように世界の側=視覚風景もまた過去と未来を持つのだろう.私が考える視覚世界に視覚風景が持つ過去と未来とが含まれているのかどうかは,まだ考えたことがない.世界も過去,現在,未来と続いていくものであり,私もそうである.私は私の過去を履歴としてもち,未来も予測することができ,想像することもできる.過去には世界があり,未来もまた世界抜きでは予測も想像もできない.このように考えると,私は私を基点にして,視覚世界に過去と未来とが含まれているとしたが,その過去と未来とは世界がなければ生じないものであるから,その過去と未来とは私のみではなく,私と世界との相互作用を基点として生じる過去と未来とが視覚世界に含まれているということになると言える.

それはその「かくかく」が前後の状景によって「影響される」ということではない.影響を受けるべき何ものか,影響を受ける以前の何ものか,そのようなものが土台何もないからである.過去と未来とから切り離された現在の視覚風景というものがあって,それが過去と未来の風景の影響をうけて「かくかく」に「見える」のではない.現在の視覚風景の「かくかく」の中に過去と未来が否応なしに思いこめられているのである.老人の顔に風雪が刻みこまれ,年輪に星霜が刻みこまれているように,そしてまた,今終わった午前とこれから始まる午後の思いがなくては正午という時がないように.p. 76

私は四次元宇宙を絶えず異なる視点から見ている.四次元宇宙は絶えず存在していて,私と相互作用して,視覚世界という予測もでるをつくる.その際に,私と四次元宇宙との相互作用からあらたな情報が生じる.あらたに生成される情報は,私とともに生成して,私の死とともに消失する.四次元宇宙にとって情報を保存する術はなかった.しかし,ヒトはその情報を文字やイメージで保存してきて,最近ではコンピュータを使って膨大な量の情報を保存するようになり,四次元宇宙の情報量は増している.私と四次元宇宙は情報を増やすために存在しているのではないだろうか.私は視点を変え続けることで,予測モデルという情報源を構築し続け,その一部を何らかのかたちで残し,世界の情報を増加させる.四次元宇宙は誕生からこれまでのあいだ,情報を示し続けてきた.しかし,その情報からあらたな情報をつくる存在がいなかったので,情報量は変化しなかった.しかし,生命があらわて,あらたな情報が生成され,のちに,それが記録されて残るようになり,あらたな情報を取り込んで,四次元宇宙の現れにも変化が現れてきた.私が宇宙を見るとき,四次元宇宙であるはヒトが生成してきた情報を透して見えている.「宇宙の切り身」を見るのではなく,これまでのヒトが生成した情報も合わせた全宇宙を,私という視点から見ている.

われわれの全生活は常にこの四次元全宇宙の中にある.ただこの全宇宙が絶えずその姿を変えてわれわれに立ち現われている.われわれが移動し姿勢を変え視線を移すにつれてその姿が変わる.色メガネをかけたり眼を半眼に閉じたり涙ぐんだりするにつれてもまたその姿が変わる*.しかし,その姿がいかに様々に変わろうと,立ち現われているのは常に全宇宙であってその切り身ではない.宇宙の切り身とは意味をなさぬものであるからである.p. 78

3 視覚風景の誤り

「集団的合理・錯雑した合意というのは予測理論における多くの予測とその屍というか使われなかったデータ・推論を経て,予測が精緻化していく=世界と「合意」すると考えられるのかもしれない」と過去の私は書いている.予測モデルに私と世界との相互作用の全履歴が入り,今,私の視界に現れているものの正誤の集団的合意が決定されていく.その際に触覚が特権的とされるけれど,今では触覚を騙す技術は多くある.とすると,触覚が特権的な地位から下される.しかし,この触覚に錯覚を与える技術の多くが,コンピュータのインターフェイスで使われていることを考えると,そこには動物的生存がかかっていないからから,触覚の錯覚が容認されているということもでくるだろう.触覚の錯覚が容認されている情報世界と私とがつくる視覚世界は,私と世界=四次元宇宙の関係とは異なるかたちで現れてくるのかもしれない.しかし,この情報的視覚世界は今のところ,四次元宇宙的視覚世界に含まれる状態だと言えるだろう.

視覚風景の正誤の構造もその根幹においてはこれと同じく集団的合意である.しかしまた,単純な測定グラフなどにはない錯雑した合意なのである.その集団的合意には単に短期間の視覚風景系列ではなくこれまで生きてきた全経験,これまで集積してきた全知識,特に[[触覚]]が参与する.さらにそれは自分ならびに他人の命のかかった合意なのである.或る一つの見誤りのために命を落とすことも稀ではない.この正誤の集団的合意は動物的生存のかかった,苦痛と快楽のかかった,安楽と危険のかかった実践的合意なのである.p. 81

「見誤り」や「見間違い」は,確かにその現れに触れられない.けれど,「見誤り」や「見間違い」としての現れは,私の視界にそのように現れたということは確かである.となると,視界というのは,どこかに世界とのつながりが欠けているものになってしまうと考えてしまう.つまり,触覚が欠けているから「見誤り」や「見間違い」という間違えが起こる.しかし,情報的観点からゆうと,触覚情報に追加されることで「見誤り」や「見間違い」という現れが消去されて,情報が減ってしまうとも言えるだろう.視覚のみだからこそ「見誤り」や「見間違い」というかたちで,四次元宇宙に情報を増やすことができる.世界に現れを増やすことができる.そして,四次元宇宙とのみ相互用していた私が,コンピュータというもう一つの情報提示装置と関係を持つようになって,そこからあらたな現れを増殖させていると考えてみるとどうだろうか.情報的視覚世界においては,聴覚も触覚も思うようにつけられて,四次元宇宙とは別の現れをつくることができる.現れは聴覚も触覚なしでも存在することができるようになっている.四次元宇宙との関係のみで生成される情報だけではなく,四次元宇宙の中に入れ子のように情報的視覚的世界をまずは生み出し,情報を増やしていくことで,情報的宇宙と言える存在が四次元宇宙を呑みこんでしまうということは考えられないだろうか.

見えるだけで触れえないもの,蜃気楼とか虹とかホログラム像とかは何か影の薄い存在に感じられる.さらに,特定の人間にしか見えないものは幻と呼ばれて公認の存在を拒まれる.蜃気楼や虹は少なくとも手に触れ写真に写せるのに幻はそれすらできぬものだからである.そして「見誤り」や「見間違い」もまた幻同様に触覚との接続を欠いている.p. 18

情報的宇宙はまずは情報的視覚世界から構成されるため,触覚が「生きる、ということが「正しさ」の最終的根拠」にならない.見えることが生きることであり,正しさになっている.見えていることに聴覚や触覚が追加されて,四次元宇宙の世界のような感じが与えられる.情報的視覚世界ではなく,視覚世界を考えよう.視界に現れているものに関する触覚は予測されたものでしかない.実際に触れることで,予測が確かめられる.そして触れるということは生きることに直結していて,正しさに結びつくというのも納得である.正しさを決めるのは,生き抜けるかだろうかが決める.このように書く,情報的視覚世界から生じる情報的宇宙における正しさを決めるものは何だろうかと考えてしまう.生きることの正しさのなかで,別の正しさが情報的宇宙にはあるのではないだろうか.生きることとは関係なく,ただ単に情報を増やしていくこと.それは生きることが生殖に結びついているように,情報的宇宙ではより多く情報を増やすことが正しさとなる.そのためにはまず生き抜いてもらう必要がある.もちろん生殖もしてもらうのがいい,しかし,それ以外にも単にどんどん情報を増やしていってもらえればいい.だが,情報を増やすには人類という種が続くことが効率がいいのではないかと考えたところで,人工知能というか情報そのものが情報を生み出すようになった方が,効率がいいのかもしれないし,その際にはヒトが邪魔になるのかもしれないと思った.

それに対して、触覚的幻を語る人はいない。痛みの幻、やけどの幻、さむ気の幻、味覚の幻、これらは意味をなさぬものである。体に蟻の這う感覚は蟻が見当たらなくとも幻ではないことは、焼ごてをあてられたような胃の痛みが幻でないのと同様である。幻とはその根底においては、触覚に対する幻であるゆえに触覚の幻はありえないのである。しかし、歯が痛むということと、幽霊が見えるということ、あるいは角塔が遠くからでは丸く見えるということとは共にまぎれもない事実である。それらは事実であるということにおいては甲乙はない。それなのに後者のような視覚風景に或る非現実性を与えるのは全く実践的動機によるのである。生きる、ということが「正しさ」の最終的根拠なのである。そして、生きるとは何にもまして、触覚的に生きることなのである。p. 82

上っ面に見えるもの=触れられるものという表現が面白い.確かにそうなる.だが,「「直接に見える」ものは「直接には見えぬ」時空的周囲に囲まれ」ということを考えると,触れ得ない部分の厚みを考えてしまう.触覚を基本的感覚とするから,私と世界との関係が上っ面になってしまうのではないだろうか.直接には見えぬ時空的周囲こそを第一に考えるべきなのではないだろうか,生きることを最終根拠とする正しさから離れて,別の根拠のもとで直接には見えぬ時空的周囲を考えて見たらどうなるだろうか.その一つの試みとして,私と世界との相互作用から生成される予測モデルとしての視覚世界を触覚が欠落したものとして考えるのではなく,それ自体の現れの可能性を広げる考えをしてみる必要がある.

視覚風景とは「直接に見える」上っ面の風景であると思われがちなのも,この直接に見えるもの,眼前に見えるものが最も安定して[[触覚]]につながるというわれわれの経験からであると思われる.障子をあけて直接に見える人間には触れることができる.接近して見える角塔のかどに触れることができる,これがわれわれの通常の経験だからである.しかしそのことに目をとられて,「直接に見える」ものは「直接には見えぬ」時空的周囲に囲まれる,いやそれに相貌的に貫通されないでは「直接に見える」こともできないことを忘れてはならない.p. 82

このように考えるとAppleのVision Proが触覚フィードバックを持たないのは,真剣に視覚世界と視界を考えた結果,触覚に満ちた今の世界の現れとは異なる情報的視覚世界とその視界がつくる可能性を求めた結果なのかもしれないと思った.


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