見出し画像

242:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える08──7章 空間の時間性

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.



7章 空間の時間性

1 空間位置の指示

固有名を持った事物は世界に世界点として存在しているのではなく,時間とともに点が移動して,連続する無数の点からなる世界線と存在している.時刻を指定することで,世界線から一つの点が選択される.大森の考察を読みながら,予測モデルのなかに現われるオブジェクトは点ではなく,線で現われていると考えたほうが効率が良さそうだと考えた.座標というと点で考えてしまいがちだけれど,座標の連続としての線や面で予測モデル内のオブジェクトは形成されている.今,予測モデル内のオブジェクトは,私の視界に現われているかたちとは異なる形態をしている.ワイヤフレームと書いてけれど,もっと時間的に流れていくようなもの.グリッチされた表象のように時間的に溶け出した形態で予測モデルに格納されていると考えみたらどうだろうか.外界とリンクする予測モデルのデータが格納されているアドレスは特定の座標は時間を指定されていない状態で,私とともに世界を移動しながら,線の形状になる.座標に格納されたデータが私ともに世界を移動することで,予測モデルのなかには無数の線が絡み合ったネットワークが生じて,それが外界から時間を指定された点群データをキャッチして,視界をレンダリングしていくと考えられないだろうか.外界と私とは時間を指定しながら動き続けるが,予測モデルには時間がなく,点は線になり,面になっていく.

一つの位置指定が完成するためには,二つの座標系どころか任意の無数の座標系での位置指定でもなければならないのである.そしてそのためには時刻指定が不可欠なのである.そして時刻指定を加えればそれで十分なのである.反駁者が「浜松駅」というだけで位置指定が完成すると思いこんだのは,たまたま彼が撰んだ地球座標系では浜松駅は時間を通じて「同一位置」(前章では「座標内同一」と呼んだ)にあるからである.しかし,それが時間を通じての位置連続であること,すなわち一つの世界線であることには変わりはない.すなわち一つの運動,居坐りの運動の世界線である.彼が時刻指定を必要としないのは,どの時刻でもそれが彼にとっての「同一位置」を通る位置連続だからである.それが位置連続ではなく一つの位置の指示であるからではない.大体,浜松駅は時間を通じて持続する一つの物体である.「浜松駅」とはまずその持続する物体の名であり,その名によって今度は「位置」を指示しようとするならば,何時の浜松駅かを指定しなければ「位置」の指示にはならない.時刻抜きではそれは物体の持続に応じて連続する無数の「位置」,すなわち運動世界線の指示となるのである.p. 213

世界の事物は私と関係なく動いている運動世界線であるが,それが私の視界に現れるときに時刻が指定されて,世界点となる.外界の事物が運動世界線であり,予測モデル内のオブジェクトも運動世界線としてあり,時間とともにある私という視点がそれらの世界線から一つの座標を指定して,特定の時刻における視界を構成する現れがレンダリングされていく.大森が書くように,外界の事物が最初に視界に現われたときは,その時刻の世界点から入力されるデータとそれに類似した予測モデルからデータをもとに,その事物が視界にレンダリングされていく.一度レンダリングされると,そのデータに基づく予測モデルの現れは次の時間指定,つまり,私という視点による視界のレンダリングまでは,私の移動とともに線的に「伸びた」感じで予測モデルに漂い続ける.世界線だけでなく,予測モデルにおける格納されているデータから生じるモデルが点なのか,線なのか,面なのかを考える必要がある.グリッチのように色情報の点が溶けだした表象の気持ちよさは,予測モデルにおいても同じようなモデルの溶解が起こっていることに由来すると考えられないだろうか.アドレスに格納されたデータは,データモッシュされた現れのように予測モデルにおいてジワーと広がっている.点ではなく,線・面で外界と対応するから,私の視界のレンダリングはスムーズであり,時に,見間違いも起こるのではないだろうか.

始めに述べたように,位置指定はその根本において事物固有名によってなす以外にはない.そしてその事物が持続物体である場合は,その固有名によって指示されるのは一つの世界線である.「富士山頂」はその運動世界線を指示する.太陽系ではそれは自転しつつ楕円を描く世界線であり,地球系では同位置に居坐わる世界線である.世界点を指示するにはそれに時刻指示を与えねばならない.それが与えられたならば,座標系に無関係に一つの空間位置が確定的に指示されるのである.だがこのことは,世界線によってはじめて世界点が指示される,ということではない.その逆である.「富士山頂」はもともと世界点の連なり(持続物体)として了解されていたのである.時刻指定によってその連なりから一つの世界点がピックアップされるのである.p. 217

2 幾何学と世界点

「ぼけていない幅とは予測がされた仮想世界がつくるものではないか? ぼけていない幅と物理世界のぼけた幅とが最小誤差で重なり合う.」と過去のメモで書いている.ここで「仮想世界」と書いているのは,私が今使っている言葉だと「予測モデル」ということになる.予測モデルは「ぼけていない」端をつくると考えていたけれど,これまでの考えだと予測モデルをデータモッシュと書いたから「ぼけている」ような感じなのかもしれない,今の私は思っている.網膜に届く視覚情報=世界テクスチャの方が「ぼけていない」状態で見えている.いや,データモッシュは「ぼけている」というよりは色情報が動いていくような感じで,世界のある点が溶けていく感じであって,あるときに取得した世界のある点の情報が,今の私の動きとともに点から溶け出しつつ,網膜からの世界テクスチャ情報と合流していき,高精細な視界を形成していく.「ぼけている/ぼけていない」ではなく,動きのなかでリアルタイムで視界を形成していくには,線に幅がある/ないは大した問題ではないのかもしれない.ぼけた/ぼけていないというよりは,端の解像度の問題かもしれない.高解像度か低解像度化によって,端の表れはだいぶ異なってくるだろう.

幅のある線が見える,これには誰も異存がないであろう.だが幅がある,ということはその幅を挟む両側の縁または端があるということである.だがその端には幅がないはずである.それは幅のない線なのである.だから幅のある線が見えるということは,その幅のない端が見えるということを含みはしないか.いやしかし,現実に見えるのは「ぼんやりぼけた」端であって幅のない端が見えているわけではないといわれよう.だがしかし,「ぼけた」端がどんなものかを了解しているということは,その否定,「ぼけていない」端がどんなものかをまた了解していることである.或ることの否定を了解せずしてはそのことを了解できるわけがないからである.だからわれわれは「ぼけた」端のある幅を見ているとき,「ぼけない」端が見えてはいないが,それがどんなものかを了解しているのである.そして「ぼけない」端とはまさに幅のない線なのだから,幅のない線のことを了解しているのである.p. 219

世界テクスチャを構成する点が時間を圧縮していると考えると面白い.「時間的に拡がる世界点群をいわば「一点」に圧縮した」情報を網膜は受け取る.網膜の世界テクスチャの情報が持つ時間が解凍されて溶けていき,同時に,予測モデルはデータモッシュのようにその点に対応するモデルが溶け出している.1体1対応で情報が高精細化されて視界ができるのではなく,もっとジワっとした情報の流れがあって,それらが面で合流しながら,ジワジワと混じり合って,視界が形成されていく.網膜の情報も点として低解像度かもしれないが,その点は時間が圧縮されていて,時間を解凍していく情報量が多くなり,それと予測モデルとが合わさって,視界が立ち現れていく.視界が立ち現れるときに解凍された情報がまた圧縮されていく.圧縮というと低解像度になりそうだが,膨大な情報量が私という視点にギュッと圧縮されていき,視界をミチミチに埋めていくようなプロセスがあるのではないだろうか.圧縮された情報が解凍され,予測モデルによって処理されて,一つの視点から世界を切り取る視界に対して,膨大な情報が圧縮されていく.私という視点にこれまでの私と世界との相互作用の履歴である予測モデルの情報と世界線の圧縮としての世界テクスチャの点の情報とが圧縮されて,点を覆うかたちで展開されていったものが視界となる.予測モデルと世界とは点ではなく線や面で相互作用すると考えた方がいい.私だけが視点という点であり,予測モデルと世界という面と線なのである.そして,私という視点を媒介にして,予測モデルと世界テクスチャとは解凍と圧縮をしながら,点を包み込む点のような面として視界をつくるのである.視点は点だが,視界は視点にまで圧縮されたあとに点を包み込むように展開された面なのである.

この「 tの如何に関わらず S‐同一な空間位置をもつ」一つの世界点集合(例えば上の,すべての tを通じる一つの格子点)の中からどれでもよい,一つの世界点をとってその空間位置を指示する.この空間位置こそ幾何学の「点」なのである.その「点」の指示は「 tの如何に関わらず」に同一位置をもつ世界点群によってなされるがゆえに,時間と「関わりなく」なしうるのである.幾何学の「点」が非時間的なのはこの事情による.それは時間的に拡がる世界点群をいわば「一点」に圧縮したのである.だから非時間的なのである.まず,あらゆる tの値に対しての世界点群( p, q, r, t)が S‐同一な空間位置をもつと宣言され,次にその S‐同一な空間位置が tを抜いた( p, q, r)によって表示(指示ではない)されるのである.それゆえ,時間とは無縁独立な幾何学的「点」があるのではなく,したがって時間とは独立な「空間位置」があるのではない.それは,まず世界点指示があって,その下でのみ表示可能なのである.( p, q, r)という時間抜きの表示は( p, q, r, t)という世界点群(世界線)指示によってのみ可能なのであり,それはその時間的圧縮なのである.p. 223

そしてここでもまた,幾何学がまずあり,それに時間が加わることによって運動学となるのではなく,世界点の学たる運動学があり,その中で初めて幾何学が可能となるのである.足し算ではなく引き算なのである.幾何学は運動学から運動(動き)そのものを引きさった運動の痕跡学なのである.そしてその痕跡上の各「点」はこれまた一つの運動世界線( S‐居坐り運動)の圧縮表示なのである.p. 224

3 視覚風景に露出する世界点

この節は全くわからなかった.唯一わかったというか興味深かったのは,この地図の記述.地図の上の座標を「現地」の座標点とするか,地図そのものの世界点指示とするかということ.この記述を読んだときに,藤幡正樹の「現実空間,仮想空間,イメージの空間という三重の空間を無意識のうちに行き来している」という記述を思い出した.この記述を大森を経由した私の視界の理解で考えると,現実空間における世界点の指示と予測モデルにおける世界点が圧縮された世界線とから,視界における現れが生成されるということになるだろう.予測モデルが地図のようになるのだろう.地図を持って現地に行ったときに見える風景が,私の視界となる.現地に行く前に私そのものが地図のように消えてしまえば,予測モデルの世界点指示は無意味になる.一度行ったことがある座標であった場合は,予測モデルが過去のその座標の現れを生成しているが,その現れは現地の座標に行くことで,アップデートされる.藤幡のイメージの空間というのは,視界における「現れの空間」ということになるだろう.

この,同時に時刻指示でも空間位置指示でもある世界点指示( x 1, y 1, z 1, t 1)は座標点( x 1, y 1, z 1)に を添書することで表現される(今一つの表現法は前節で触れた t軸使用である).この方式では,同一の座標点に異なる時刻をいくつ添書してもかまわない.それらはすべて異なる世界点の指示である.またこの表現には二種類の読み方がある.紙上の座標点( x 1, y 1, z 1)が地図の場合のように「現地」の座標点の表現である場合.このとき( x 1, y 1, z 1, t 1)は現地世界点を指示する.今一つはその紙そのものの上の世界点指示である場合である.このとき がもし明日正午であるとすると,それは明日正午のその紙上にある世界点を指示する(それは引出しの中,ポケットの中,あるいは紙くず箱の中でありうる).その紙がそれまでに燃えてしまえば,この世界点指示は無意味になる.何も指示しないのである.p. 226

コンピュータ・ディスプレイ上の写真イメージは,画面内の特定の場所にしか表示されないわけではなく,画面内の自由な場所に置くことができる.イメージとディスプレイのピクセルは一対一対応する必要がない.見ている対象であるディスプレイ・メディアと,その内部に表示されているイメージは,写真の印画紙や印刷物のように,一対一対応している必要ない.コンピュータの内部に仮想の空間があることを理解しなくてはならない.つまり,現在のわれわれは,現実空間,仮想空間,イメージの空間という三重の空間を無意識のうちに行き来しているのである.p.215

藤幡正樹『不完全な現実』

4 視覚風景はその人の運動に関せず

この節を含めて,七章で行われた物理学的記述はほとんど理解できなかった.けれど,大森が使う言葉にはとても惹かれている.理解できるできない以前に,言葉の響きとして惹かれているような気がする.私という視点がある場所は世界に時刻込みの座標で指示される.時刻込みの世界点にある私という視点から見えるのが視界である.視覚風景と世界点指示が「重ね描き」されるように,私の視界も世界点の情報と視点に位置する私の予測モデルが生成する情報とが合流=「重ね描き」されることで視界が形成される.世界点は点にこれまでの時間が圧縮されているの対して,私の予測モデルはデータモッシュのように世界点に重ねられた視点から溶け出すようになっている.前者は時間が圧縮されているた,後者は時間が解凍されている.圧縮された少し過去の世界点と予測されて展開している少し未来を含んだ予測モデルとが合流して,私が今見ている視界が形成されている.

その相対論が指摘したことは,時間関係が空間座標系に依存するということであった.それに対してこの章で私が述べたのは,その空間の位置指示が時刻抜きでは完成しない,ということである.四次元世界点の指示においてのみ空間位置の指示が可能であり,そのことは物理学以前の「運動の相対性」からの必然的帰結だ,ということである.そして視覚風景がその世界点指示とどう「重ね描き」されるか,あるいは逆にいえば,視覚風景の中の諸事件の世界点をどう同定するか,ということである.そしてその同定の中で特に,視覚風景の「見透し線」が必ずしも直線ではないことを確認したのである.そして更に特に,視覚風景に現在只今露出している(見えている)世界点は光円錐表面上の過去世界点であるという解釈の整合性を確かめた.すなわち,視覚風景は過去透視であるということ(六章)の整合性をあらためて確かめたのである.p. 239

この章に書かれた大森の言葉から私の考えを辿っていっているときに,児嶋啓多の作品を思い出していた.大森の「世界線」という言葉が,予測モデルと世界とのつながりを点から線に変え,そこからデータモッシュの表象が思い浮かび,最終的に児嶋啓多の作品が私の意識の片隅にあり続けた.なので,今回のカバー画像は児嶋啓多の写真「404 Not Found City」から.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?