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わたしはゴリラ


高校で美術を3年間学び、大好きだったものづくり以上に人を喜ばせる事を好きだと感じた私は幼児教育の道を志した。

高校ではちゃらんぽらんだった私も、人の命を預かる責任ある仕事を志した以上短大の授業は真剣に臨もうと決めていた。短大のシステムは高校とあまり変わらず、振り分けられたクラスで2年間同じクラスメイトと勉学を共にする事となった。
そこで私はまたしても感性に優れたパワフルなクラスメイトたちに出会う事となる。

幼児教育と切っても切り離せない学問、それは音楽だ。私はお調子者だったので歌や踊りは大好きだったが、必須科目でもあったピアノはまるで経験がなかった。そもそも楽譜が読めないので大量のおたまじゃくしをチマチマと一つずつ数えて、初めてその音が何かを知るという途方のない作業を繰り返しながらピアノに齧り付いた。

練習室に篭り毎日練習に励むが、集中が途切れると気分転換に友達の練習室に遊びに行き、アドバイスをもらった。
ピアノがうまい友人はたくさんいた。彼女たちの細くしなやかな指が奏でる楽しいピアノの音色が大好きだった。

ある日、いつものようにクラスメイトの友人リリコの練習室に遊びに行くと、彼女は聞いた事のないメロディを弾き始めた。

「あ、なんかいいの出来たかもしれん。」

どうやらオリジナルの曲を思いついたらしい。
彼女は伴奏もつけながら更に曲の奥行きを出してゆく。楽しいメロディに耳も心も心地よかった。作曲もできるなんてすごい、私も楽しくピアノが弾けるようになれたらなぁと素直に感動した。満足いく仕上がりになったところで彼女はその曲に歌詞を乗せ題名をつけた。

「どんな曲?歌ってみてよ!」
園児のようにねだる私のリクエストに答え、彼女はピアノを奏でながら歌い始めた。

「 エムコはゴリラ エムコはゴリラ
 ウッホウッホ エッホエッホ
 エムコはゴリラ
 寝ても覚めても
 エムコはゴリラ 」

後に我がクラスで一大ムーブメントを巻き起こす事となった大ヒットナンバー「エムコはゴリラ」が誕生した歴史的瞬間である。

童謡でよく使われるハ長調のそれは耳にすぐなじみ、私扮するゴリラがドラミングしているだけの単純な歌詞故に瞬く間にクラスに広がってしまった。一度聞けば分かってもらえると思うが、頭にこびりついて離れない実にキャッチーな曲なのだ。
18才のいたいけな乙女がゴリラ呼ばわりされるのは全くもって遺憾だったが、心当たりがある上に楽しそうに歌う友人たちを見るのは嬉しかったのでタイトルと歌詞については不問とした。私はその曲に振り付けをつけ、友人の演奏に合わせて練習室の中で飽きるまで踊った。

数日が経った。「エムコはゴリラ」はクラスメイトにたいそう愛され、教室移動の間にハミングしたり、ピアノの練習の合間の息抜きに弾き語ったりと日常生活に浸透していった。最初は遺憾だった歌詞も全く気にならなくなった。



ある日、私はロッカーへ荷物を取りに行った。ロッカーは短大の同じ保育科の学生全員が使用する場所だ。珍しくガランとしていたその場で次の授業で使う教科書を探していると、後ろの方から「エムコはゴリラ」が聞こえてきた。まーた誰かが歌ってるなと苦笑しながら振り返ると、そこに居たのは他のクラスの顔も名前も知らない学生だった。

どちらさまでしょうか。

時が止まった。
その学生は唖然とする私のことなど気にも止めず、ご機嫌な鼻歌を歌いながら教科書を選んでいる。
そう、私が彼女を知らないように彼女も私を知らないのだ。
あなたが気持ちよく歌うそれは私の曲で、そのゴリラは私です。と喉の奥まで出かかったが意味不明な上に説明があまりに面倒くさいので飲み込んだ。
「エムコはゴリラ」は私の知らない所まで、それはもう歌詞の通りにウホウホと独り歩きしてしまったのだ。私は経験したことの無い感情に包まれ、教科書を取る事も忘れて教室に戻ってしまった。


あれから9年が経った。「エムコはゴリラ」の作詞作曲者であるリリコのもとに待望の第一子が生まれた。珠のようにかわいらしいその男の子には、音楽を愛する彼女らしく、音楽にちなんだ名前が授けられた。

彼と一緒にエムコはゴリラを踊る日が待ち遠しい私は、彼が健やかに成長し、名前のようにそして母のように、音楽を愛してくれることを願わずには居られないのだった。

いただいたお気持ちはたのしそうなことに遣わせていただきます