237.追悼・赤松良子氏

2024年2月7日赤松良子氏の死去が報じられました(NHK日経)。94歳でした。

男女雇用機会均等法の成立に尽力し、「均等法の母」と呼ばれた赤松良子氏が亡くなりました。赤松さんのたぐい稀な能力と行動力なくしては、日本に男女雇用機会均等法ができることはなかったか、あるいはできたとしても、それはあと10年か20年遅れていたことと思います。

私はこれまでに、このnoteにおいて赤松良子氏の活躍に何度か触れてきました。今回はこれまでに発表した内容を編集して、追悼の思いを込めて投稿したいと思います。

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1986年4月1日朝、私はフランスの地方都市の学生用アパートの台所で、ルームメートのアンヌと共に、いつものようにバゲットとカフェオレの簡単な朝食をとっていました。

「それでは、次のニュースです」 ふたりとも聞くともなしにラジオのニュースを聞いていると、「日本では、本日より男女雇用機会均等法が施行されることになりました。この法律によって日本でも性別による差別が禁止されることになりました」というニュースが聞こえてきました。

苺ジャムをのせたバゲットを口に入れようとしたアンヌは、動きを止め、目を見開き、私の名を呼んで「日本って…。あなたは一体どんな国から来たの?」とたずねました。彼女の、緑がかった茶色い瞳を今も忘れることができません。

これは私が2020年6月に投稿した「046.就職活動」の冒頭の一節です。あの日のアンヌの驚いた表情を、私は40年近く経っても忘れることはできません。まるで私が未開の国から来たとでもいうほどの彼女の驚きようでした。

先日、たまたま21歳の若者と話をしていた時、その若者に私の時代の「就活」について教えてくださいと言われました。私の時代の就活? 大学の就職課に行くと当時は幾重にも可動式の黒板が並べられていてそこに企業の募集要項が貼ってあったのだけれど、私の通っていた四年制大学には女子の求人は一枚も貼られていなかった、正式な募集はほぼゼロで、当時は親や親戚のコネを探して就職するものだったと説明したら、若者はきょとんとしていました。

そこで改めて、1990年代半ばから10年位「就職氷河期」って呼ばれる時代があったけれど、四年制大学の女子は大昔から就職氷河期だったのよと話しても、21歳の若者には自分が生まれる前の「就職氷河期」自体も知らないようで、まるで異星人と話しているようでうまく話が通じませんでした。

昨今は物価も株価上がり始め、若者が就職氷河期も男女差別もわからないというのは世の中が良い方に向かっていることだと思うことにしました。

しかしアンヌが目を丸くした、1986年4月1日に施行された「男女雇用機会均等法」こそ、このような社会に変えていくために、赤松良子氏が万難を廃して成立させた法律だったのです。この法律ができたおかげで、女性の労働条件は大幅に改善されていきました。

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1982年4月、新卒で就職した会社の入社式の当日、人事部長から「女子社員の給与は短大卒並みとします」と言われたのが、社会に出て最初に受けた男女差別の洗礼でした。私たちは男女共新入社員全員、四年制大学の卒業生でした。

前年の秋に内定が出て顔合わせがあった時、ある男子内定者と女子内定者が互いに互いを指差しながら、「え〜、なんでここにいるの〜」と驚き合っていましたが、このふたりは同じ大学の同じ学部でした。共通の友人も何人もいるようでした。

入社式のあと、彼女は「なんで〇〇くんとお給料が違うのかまったく納得いかない」と憤慨していましたが、その気持ちは私たち新入女子社員に共通する思いでした。

これは、私が2020年8月に投稿した「054.会社の男女差別」の冒頭の一節です。私たちは、ほぼ皆無といってよい求人の中、親や親戚のコネを探し回って(私の場合はアルバイト先での知人の紹介で)ようやく就職に漕ぎつけましたが、入社式の当日にいきなり男女差別の洗礼を受けました。あの日の自分を思い返してみると、そのような扱いに対し「抗議」をしようという気すら起きませんでした。

もしも、短大並みのお給料やお茶汲みコピー取りの仕事に不満があるなら「いつ辞めてもらって構わないんだよ」と言われるのは、確認するまでもないことでした。それに今の条件よりも良い会社など、どこにもないことは明白でした。

私は新卒で入った会社には憧れて入社しましたが、入社したその日から少しずつ少しずつ、やる気が削がれていきました。仕事を覚えれば覚えるほど、仕事に対する欲が出ていきましたが、同時に頑張る女性への「懲罰的な人事」もたくさん見てきました。

四年生の女子学生にはほとんど就職口のない時代に、希望する会社に入社できたというのに、これからどのように生きていこうか日々考えるようになりました。

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私がこのようにもがいている間、1985年に国会で成立することになる男女雇用機会均等法の生みの親と呼ばれる赤松良子氏は、1982年9月に国連公使としての三年間のニューヨーク任期を終え、労働省婦人少年局長のポストに就き、いよいよ職場での男女平等を実現させるための法律を作るために奔走しようとしていました。

赤松良子氏の著書の一章には「鬼の根回し1983年夏」というタイトルが付いていて、法制化のために労働大臣・次官経験者を始め、財界のトップたちへの働きかけ、労働組合や婦人団体へのアプローチと、それはそれは精力的に活動される様子が描かれています。しかし、とても一筋縄ではいかない交渉ばかりでした。

経団連会長・稲山嘉寛氏とのすれちがい
 労使関係については日経連が担当ということになっていたから、経団連の会長はこういう場には出てこられなかったが、時の稲山嘉寛会長は重鎮で影響力の大きい方だから、話をしておくべしというアドバイスをうけて、私が経団連会館を訪問したのは、一九八四年の四月一〇日だった。日付まではっきり覚えているのは、この日が婦人週間の第一日であったからである。婦人週間は、日本の女性が初めて参政権を行使した一九四六年の四月一〇日を記念して、翌年から労働省婦人少年局が主唱して、女性の地位向上を目的として全国的に展開したキャンペーンで、戦後早い時期から、毎年のスローガンやポスターなどよく浸透していた行事であった。
 この日に経団連会長と会うというのは、たまたまその日にアポイントが取れたという偶然なのだが、私はちょうどいいかな、と思い、話の切り出しに、婦人週間についてふれ、婦人参政権についての会長の感想を聞いてみた。女性が参政権を行使するようになってすでに四〇年近く経っており、そのことは当然のことと受けとめたうえで、次のステップを考える段階にあると、私は考えていたのだが、会長の答えは全く別だった。
 「参政権なんか持たせるから、歯止めがなくなってしまっていけませんなあ」と言われ、私は気勢をそがれてしまった。この方は八〇歳過ぎとは思えないスマートな洗練された紳士だったが、やはり明治生まれの日本男子だったのだ。それにしても参政権にさえ反対の人に雇用平等の話は距離がありすぎて、容易ではない。なにか架け橋はないものかと、私は女性の職場での貢献の話をしてみた。すると、彼は「たしかに、ちゃんと仕事をする女性はいる。私の前の秘書もとてもよくやってくれ、感心していました」とおっしゃる。私はふむふむ、ちょっといい方向にいくかなと期待して聞いていたら、「彼女にはよい後妻の口を世話してやりました」となり、これには開いた口がふさがらなかった。立派な秘書に報いるのに、責任あるポストに就けたのかと思いきや……である。
 今日は成果があがらなかったね、と同行の課長と話しつつ帰途に就いた。ずっとあとになってから聞いたが、この方は総理大臣に、雇用平等法はよくないと言明されたということである。難攻不落の堅城だったというわけだ。

赤松良子著『均等法を作る』勁草書房(2003)p.75−6より(太字は引用者)

豪腕の労働省の局長から新入社員の私まで、日本中の女性がみんな男女差別に腹を立て、つらく悲しい思いをしていましたが、それでも時代は、大きな変換点に差し掛かっていました。

しかし、そんなこととは知らない私は、悶々とする日々の中、仕事も何もかも一旦忘れて、本当にやりたかったこと、本当に好きなことは何なのだろうかと考え、自分の人生を根本的に考え直そうと思うようになっていきました。

こうして、私は3年4ヶ月勤めた会社を辞めて、子どもの頃から憧れていたフランスへ行きました。そしてその約半年後にアンヌと一緒にあのラジオを聞いたのでした。

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昭和58年(1983年)(私が新卒で就職して2年目の年)、当時の労働省婦人少年局長の赤松良子氏は男女平等法の制定のために日々奔走していましたが、その二十年後の2003年に当時を振り返って、その頃の日経連の反対について著書の中で次のように語っています。

 1983年の夏が終わり、秋風が吹き出した頃、私たちにとって大変なニュースが飛び込んできた。日経連が男女平等法の制定に反対声明を出す動きがあるというのである。(中略)
 日経連では、加盟企業や地方組織、各県の経営者協会などから意見を聞いて対応すべしということになり、アンケートを出したところ、法制化に反対という意見が多かったという。当時の経営者のかなり多くが「平均勤続年数は男女間で明らかな差がある。男子労働者は生涯同じ企業で働くが女子はそうではない。その違いを基に企業の賃金体系、労務管理方法を組み立てている。男子は基幹労働、女子は補助労働を原則として日本の(世界に冠たる)終身雇用制度が維持されている。これを変えることは望ましくない。また男女平等に女性の待遇をあげれば人件費があがり、企業の競争力が低下する。一方女子労働者は勤労意識が低く、労働保護法規に甘えている。すべからく女子保護規定をなくすことが先決である」等々と考えており、他の先進国がどうあれ、わが国の雇用慣行や意識を変えるべきではないとの主張も少なくなかった。

赤松良子著『均等法をつくる』勁草書房(2003)p.69より(太字引用者)

しかし、このような社会情勢の中でも、赤松良子氏は幾多の苦難に挫けることなく、遂に、昭和60年(1985年)5月17日、衆議院本会議で男女雇用機会均等法を成立させました。長きに渡って、国論を二分した法律の成立でした。

そしてこの法律は翌年1986年4月1日に施行されました。しかし1989年に毎日新聞社から発行された『昭和史全記録』の1986年4月1日の箇所には、たった一文、次のように書かれています。

男性だけだった深夜のタクシー乗務が、男女雇用機会均等法で女性にも認められ、女性ドライバーの深夜タクシーが東京や埼玉県で走る。

男女雇用機会均等法施行日の紹介がこのような一文だとは、これは先の日経連の「一方女子労働者は勤労意識が低く、労働保護法規に甘えている。すべからく女子保護規定をなくすことが先決である」を受けての文章なのかと皮肉のひとつもいいたくなります。女性ドライバーによる深夜タクシーは、それまで女性を時間外・休日労働・深夜業から守ってきた規制の撤廃を象徴していました。

ある意味、1989年当時の男女雇用機会均等法への大手新聞社の意識レベルがわかる貴重な「昭和史の記録」です。

しかしながら、記念すべき男女雇用機会均等法施行をたった一文、女性ドライバーの深夜タクシーについてだけでまとめたというのは、当時の社会の受け止め方を見事に伝えているとも言えました。

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実際、男女雇用機会均等法案は、まず参議院の社会労働委員会で審議され、さらに落としどころを探りながら修正案を取り入れ、最終的に本会議で賛成多数で可決されるのですが、その成立した時の受け止め方を赤松良子氏は著書で次のよう述べています。

 長い戦いを終えた瞬間の私の表情は、NHKのカメラに捉えられている。衆議院本会議の傍聴席で、深々と頭を下げるひな壇の労働大臣を見つめる顔は、感慨深けでむしろ残念そうに見える。責任を果たして喜びを押さえているということもあるが、あるべき姿と思い描いていたものとは大きなへだたりがあるものしかできなかったという無念さも、あの時頭の中を去来していたこともたしかである。しかし、落着いて考えれば、あそこまで妥協したから、成立させることができたのであり、遠からぬ将来に必ずや改正されてよりよい形のものになるであろうと思うことができた。(中略)
 法律成立直後に報道関係者の質問で、この法律成立の意義を聞かれたときの私の答えもそういった内容のものであった。たしか私は、正しい評価は歴史の判断をまつことになると答えていた。

赤松良子著『均等法をつくる』勁草書房 p.168-9より引用

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今、私の目の前に赤松良子著『均等法をつくる』と共に、もう一冊、赤松良子監修の岩波ジュニア新書の『新版 女性の権利 ハンドブック 女性差別撤廃条約』があります。

この『女性の権利』という本は、1946年国際連合第1回総会で、米国の第32代大統領夫人エレノア・ルーズヴェルトが「女性たちの国連参加の必要性」を世界に向けてアピールする「公開状」を読み上げるところから始まります。

そして、この第一回国連総会は「女性に男性と平等な政治的権利を与えるべきである」という決議を採択しました。これを受けて女性の地位委員会がイニシアティブをとって草案をつくり、1952年12月20日第7回国連総会において「女性の参政権に関する条約」が採択されました。

さらにいくつかの段階を経て、1967年の第22回国連総会で「女性差別撤廃宣言」が採択されますが、これはあくまで「宣言」であって「条約」ではないので、国に法的な義務を与えるものではありませんでした。しかしその後、1975年を「国際女性年」とするとともに、「女性差別撤廃条約」の起草に向けて舵取りがなされました。そして遂に、1979年の第34回国連総会で「女性差別撤廃条約」が採択されたのでした。

本書には、「国連公使としてこの条約の審議にかかわった赤松良子は、総会で条約が採択されたとき、各国の代表たちと文字どおり抱き合ってよろこんだけれど『ああ、でも、日本はこの条約を批准できるだろうか』と思わずにはいられなかったといっています。当時の日本の社会は、とてもこの条約を受け入れられる状況ではないと思ったからでした」とあります(p.7)。

1984年4月の段階で、経団連会長が「(女性に)参政権なんか持たせるから、歯止めがなくなってしまっていけませんなあ」などと発言をしているのですから、推して知るべしです。

本書には、戦前から女性参政権運動の先頭に立ってきた市川房枝(1893-1981)が、女性の権利が国際条約に書きこまれることの重要性を説いてきたとも記されています。市川房枝は、政府にプレッシャーをかけ、日本の条約署名を実現させた功労者でした。署名の翌年亡くなった彼女の柩には、条約のコピーが入れられたそうです(p.7-8)

私にとっては、中学、高校、大学生の頃、市川房枝が参議院議員として活躍されていた姿が今も忘れられません。国会での力強い発言を聞きながら、何度も胸を熱くしたことをよく覚えています。87歳の時に全国区でトップ当選を果たした時、大勢の支援者に囲まれていた姿を見ながら、私は選挙に希望を感じました。

数年前、たまたま代々木の街をひとりでふらふら歩いていたら、市川房枝記念会という建物を発見したことがあります。約束もない飛び込みでしたが、中に入れていただけるかと聞いてみたら「展示室があるので、良かったらどうぞ」と言っていただけたので見学をしたことがあります。

その時印象的だったのは、戦前の録音なのか、展示室に繰り返し流れていた市川房枝の演説でした。趣旨は「女性に参政権をというと、反対もあるだろう。子育てや、洗濯や、食事の支度をしながらではとても投票などに行っている暇などないというかもしれない。でも子どもを背負ってほんのわずかな時間、候補者の名前を書く時間で済むのだから、是非女性にも参政権を!」という叫びでした。

今のこの世界で私が生きているのも市川房枝のこの演説があったからこそ、そして赤松良子がいたからなのだと、体の奥深くから感慨が湧き上がってきました。私は現在3つ目の職場で働いていますが、名簿は男女混合です。小学校から出席簿は常に男子が先、女子はあとと決まっていましたから、初めて男女混合の名簿を見た時、心の底から感激しました。

この岩波ジュニア新書版『女性の権利』の「新版の発行にあたって」として、国際女性の地位協会会長赤松良子の次の文章があります。

 この本の初版が世に出たのは、1999年、男女共同参画社会基本法が制定された年でした。男女共同参画社会の形成を21世紀わが国の最重要課題と位置づけた基本法によって、日本は包括的な男女平等に向けた法律を持つことになりました。また、同じ年、女性差別撤廃条約批准(1985年6月)のため、必要とされた男女雇用機会均等法が大幅に改正され、施行されたのでした。
 それから早くも6年の歳月が経ちました。その間、時代は20世紀から21世紀へ移行し、たくさんの変化が起こりました。1999年10月、女性差別撤廃条約は採択20周年を迎え、その実効性を飛躍的に高める選択議定書が国連総会で採択されました。(中略)
 (2005年に再確認された国連女性の地位委員会ハイレベル会合の)北京行動綱領の国内実施のためにも、法的枠組みとしての女性差別撤廃条約が重要であることが再認識されました。
 私たちは、こうした様々な変化を踏まえて、このたび新版を出版することにしたのです。アップトゥデイトされた新版が、若い皆さんに愛読されることを期待しています。

赤松良子監修の岩波ジュニア新書の『新版 女性の権利 ハンドブック 女性差別撤廃条約』

以前、2021年2月に投稿した「077.女性蔑視発言」にも引用したのですが、赤松良子氏は次のようにも書いています。

 本書の執筆中に、しばしば私を励ましてくれるフレーズがあった。それは「男女平等実現のための長い列に加わる」という言葉である。幸い、私の前には具体的に多くの優れた先輩たちの姿が見えた。私の時代よりもずっと苦難の多い時代に、迫害や中傷に屈せず闘ってこられた方々である。その方々の努力があったからこそ、私の時代に、女子差別撤廃条約ができ、男女雇用機会均等法を論議できるようになったことを忘れてはならないと思った。

赤松良子著『均等法をつくる』勁草書房(2003)p.iiiより (太字引用者)


私自身は、能力も才能も行動力も何もかも遙かに及びませんが、それでも男女平等実現のための長い列に加わり、及ばずながらもできることをひとつでもやっていこうと思っています。

赤松良子
1929年(昭和4年)8月24日大阪生まれ。
大阪府立夕陽丘高等女学校卒業後、神戸女学院専門学校(病気中退)を経て、津田塾専門学校英語学科を卒業。
1950年4月東京大学法学部政治学科入学、当時3年制であったため1953年3月卒業。在学中に国家公務員6級試験に合格。4月より労働省婦人少年局入省。
1970年労働省婦人課長に就任、以後、婦人労働課長、山梨労働基準局長、総理大臣官房審議官、国連代表部特命全権公使、労働省婦人少年局長、同省婦人局長などを歴任
1986-89年 ウルグアイ特命全権大使
1993-94年 文部大臣
2008年 日本ユニセフ協会会長
2024年2月7日 訃報発表 94歳


赤松良子氏の高い能力とたゆまぬ努力と、そして何よりその「志」によって、世の中が大きく変わりました。心からの感謝を込めて、謹んで哀悼の意を表します。ありがとうございました。



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