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我思う、故に我あり

 “文字”を眺めていると、どうでもいいと思う節がありながら、突然に疑問が湧き上がってくる。答えが簡単に出ないと分かっていつつ、意味を捻り出そうとする。例えば、「あ」を何故「あ」と書いたり、読んだりするのか。こんな根本的なことを思考し始めると泥沼にはまる。当たり前といえばそれまでだが、歴史的にみても長い年月の末にそうなってきたのである。そんなことを巡り巡っていると、這い上がるのに時間がかかる。結局のところ、諦めることで無理矢理決着をつける。しかし、もしかしたら、これは哲学的かつ探究的な活動というか、自分の中での未知なる発見となり得るかもしれない。
 とはいえ、この「ひらがな」一文字にも意味がある。一つ例を挙げると、「いのち」は“生きるための力”である。たかが平仮名、されど平仮名。これを思うと、古文を読みたくなる。読めないが…。でも、文法なんてどうでもよくて、感性で捉えることも一興だと思う。好きこそものの上手なれ、か。
 “我思う、故に我あり”は、デカルトが『方法序説』で述べた命題(言葉)である。自分はなぜここに今あるのか、と考えること自体が自分が存在する証明であるという。でも、人間にとっても不可能なことがある。それは自分が自分自身を観ることである。鏡で見ているのは、自分ではなくて、鏡に映る(不思議な状況で反転している)自分であって、本来の自分とはいえない。そういうことも相まって、意外にも自分のことを知らないことが多い。性格なんていう曖昧なものは、他人に言われて、認識し出す程度でしかない。あなたは綺麗好きだねと言われると、そうなんだなんて自分にとっていい汲み取り方を自ずとして、それを自分の性格だと思い込み始める。
 面接試験に向けての支援をしているが、履歴書のプロフィールに書く長所、短所、そして趣味は悩んだ。自分自身を肯定するのも、否定するのもどうもむず痒い。それが果たして自分自身を表現できているのかは分からない。そもそも、自分が自分を認識できていないのだから。そういう意味でも、哲学的対話はおもしろい。対話といっても、他人とは限らず、自分自身とでも勿論いい。しかも、“答え”なんて出なくていい。そもそも答えなどない。正解はないのだ。教育の流れ上、“正解”をすぐに求めてしまいがちだが、人生において絶対的な“正解”は存在しない。だから、問題集に載っているような模範解答はあるはずがない。当てにしない方がいい。たくさんのノウハウ本が世に出回っているが、儲けるための代物だからなるべく読まない方が身のためだろう。そう簡単に人生の答えが手に入るはずがないし、簡単に手に入ったものはつまらないし、血肉にならない。これは世の鉄則だ。そんな正解だらけに拘った人生にどれほど価値があるのだろう。私は数学を解く際にも模範解答は当てにしない。自由に解けばいいではないか。ソクラテスが遺したとされる言葉に“汝自身を知れ”がある。これは、傲慢にならずに、自分の無知を自覚することの大切さを教えてくれる。“正しく知る”ことは、教科書や解答を鵜呑みにすることでは決してない。考える、思う力がある以上、知ることを追究し続けていきたい。
 EGOISTの『BANG!!!』という曲を聴きながら、こんなことを思い耽る。はて、自分とは何ぞや。

♬M.M. の「哲学対話P4S」コーナー♬
第2回<人を好きになるにはどうすればいいと思いますか。>
 第1回の反響がなかなかでしたから、続きから書き始めます。まず、くだらない回想です。
 高校生のとき、自分の受験が一段落してから、とある女子の3月の短大受験に向けて、なんとこの私が英語(とくに英文法)を教えました。ずっと一緒にいて、ボーリングにも行ったりして楽しかったから想いを伝えたら、このままでは付き合っているとは言えないよねと一撃必殺、撃沈…。とりあえず、彼女は合格したから良かったですけど。
 大学生のとき、一人ぼっちは淋しいので、高校の同級生と手紙のやり取りをしていて、突如思いつきで会おうと決意し、京都へ行きます。朝、新幹線に乗り、京都へ。どこに行きたいと言われ、全く思いつかず、なぜかSNOOPY TOWN梅田店に連れていってもらいました。草食男子の極みで、気の利いたところに行く発想がありませんでした。そして、結局泊まるところも確保しておらず、悲しいかな、何も想いを打ち明けることができず、日帰りで千葉へ戻ることに。真夜中にアパートへ辿り着きました。虚しいけど、新幹線での旅は楽しかったです。鉄道大好きです。でも、新幹線のぞみは速くて酔います。
 おっと、私は何をカミングアウトしているのでしょう。でも、思い出は振り返るものではなく、作るものです。所詮過去のことですから、いいも悪いもありませんよ。すべてが美しいのです(笑)
 閑話休題。人を好きにならなければいけないのかというと、その必要はありません。好きになろうと思って、無理矢理こじつけて好きになるのもおかしな話。例えば、私はこれから旬になる野沢菜漬が大好きですけど、“好きになろう”と思って食べ始めたわけではありません。誰かに問われれば、確かに好きだよなと認識するものであって、好きなものは好んで食べます。勿論、苦手なものは手に取ろうとしませんよね。勉強でも同じことだと言えます。フェロモンを無意識に感じ、キュンキュンしてしまうような、ときめく人が目の前に現れていないだけかもしれませんから、好きになろうと思うこと自体を慌てる必要はないです。いつの日か、好きになる人が自ずと現れますから気にしないでいいのです。どこまでを身近と捉えるかは難しいですが、身近にいる人で妥協していると言われると夢のない話ですけど、自分をあるがままに受け入れてくれる人が必ずや現れます。受け入れてくれない時点ではただの恋です。愛ではありません。“like”ではなく、“love”でいてほしいですよね。相思相愛、いい言葉です。
 「結婚して子どもを産んで人口を減らさないように」と、ある政治家は言いますが、究極的に言えば、子どもの数が増えずに、ヒトという種が滅んでも仕方がないことなのです。生物学的にいっても、絶滅した動物は数知れないのですから、ヒトだけが永遠に途絶えないという考え方には無理がある気がします。生きる意味が、子孫を残すためだけだとは思いたくないです。でも、誰しも死から逃れることはできません。だからこそ、子どもたちにはよりいい未来を歩んでほしいとは思います。そのためにも、よき世界にしてあげるのが現代の努めのようにも考えますが、なかなかうまくいきません。先人も志高く、住みよい世界にしようと思っていたことでしょう。そうありたいものですね。
 最後に、私は匂いに敏感なので、香水のような科学を駆使した類いは少々苦手です。“無香料”という表記は無臭ではないので、いつも騙されます。無論、自然の香りには好きなものが多いです。それにしても、外国人のように強い香水を使っていたら、人間はフェロモンを認識でき得るのでしょうか。香りという要素で恋愛感情を惑わせている気がしてなりません。素の方が魅力的だと思うのですが。

2021.11.5

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