モノより思い出
子供の頃からわりとモノやお金への執着がなかった。
弟妹がいたので欲しいものを簡単に主張できなかったのも、理由のひとつにある。
しかしそれとは逆に、年を重ねるごとに経験や思い出、大切な人たちとの繋がりはわたしにとって価値が高くなっていった。
大人から見ればこだわりが強い子だった。
モノやお金では釣れない可愛げのない子供。
親はさぞわたしに手を焼いただろう。
この価値観はわたしという人間を形成している。
子供のころに考えていたこと
父の仕事の都合で、小学生のときに1回、中学生のときに1回転校をした。
正直さみしい思いをすることもあった。
入学した学校と卒業した学校は異なる。
卒業式に思い出を振り返るスライドショーが流されると、いつも入学当時の写真にピンとこなかった。
入学式は別の学校でおくっていたから。
そして幼なじみがいる子の話を聞くと羨ましかった。
転勤族の家庭に生まれた子、特有の憧れではないだろうか。
同じ地域で腰を据えて長く住むってどんな感じだろう?
幼なじみがいたらどんな気持ちだろう?
幼少期の思い出を友人と共有できたら見える世界は変わったかな?
10代のときはそんなことを考えることがよくあった。
誰にでも別れは必ずあるが、わたしの人生はそのスパンが早かった。
目に見えるモノだけが全てではない
この世のなかは何かの対価をお金で表わすことが多い。
モノやサービスを得るとき、お金を払わないといけない。
労力の対価にはお金を用いる。
だから一部の人は
お金をたくさん持っているから優れている
お金があるから人として偉い
お金がたくさんあると必ず幸せになれる
そのように思っている人が一定数いるように思えた。
だけどね、お金では
命や健康は買えないし
過ぎ去った時間に戻ることもできないし
人の心だって買うことはできない
わりとお金でできないことはたくさんある。
だけどお金に執着しすぎて大切なことを忘れている人が多くいるように思えた。
わたしがモノやお金よりも経験に価値を見出すのは、一時的な目先の幸せよりも、積み重ねた経験によって将来の豊かさを信じていたから。
ライフステージが変化しても同じ考えのままでいられる?
では、もしわたしが子育て真っ盛りで養育費に頭をかかえる毎日を送っていたら、お金より経験や思い出なんて綺麗ごと言えるだろうか?
もちろん生活をしていくためにお金は必要。
ただ子供たちと一緒に居れる時間は限られている。
たとえ金銭的に余裕がなかったとしても、心だけは子供たちと寄り添い一緒に成長していきたい。
きっと子育てはわたしの人生にとって一番いいときになるだろう。
お金に支配されて心を貧しくしたくない。
また不自由ない裕福な生活をさせているからといって、コミュニケーションが不十分な環境は幸せな家庭とは違う。
そんな家庭に限って外からみえる体裁はいい。
だから気づくことができない。
よくドラマなんかで
「不自由ない生活をさせているのに一体なにが不満なの」
こんな親子の口論を目にすることがある。
たいていこういった場面での不自由とは金銭的不自由を指す。
幸せはお金やモノなんかじゃないんだよ。
だけどお金が絡んでくるとそういった判断を鈍らせる。
親だからといって人間として完璧なわけではない。
どんな状況になったとしても大切なことを忘れたくない。
もし子育てできるチャンスに恵まれることがあったら、この気持ちを忘れないでいよう。
当たり前の日常のなかにある宝物
ハタチのときに実家を出てひとり暮らしをすると決意。
そこから一年近く、休みの日も遊びにもいかず友人とも会わず、必死に貯金に明け暮れた。
21歳のときに晴れてひとり暮らしを実現。
待望のひとり暮らしはわたしの羽を大きく伸ばした。
深夜、近所のびっくりドンキーでよく友人と語り明かした。
夢のことだったり
恋愛のことだったり
将来のことだったり
きっと今のわたしがそのときの話を聞いたら恥ずかしくなるだろう。
それくらい若かったし
それくらい夢に溢れていたし
それくらい世間は未知だった
ユニットバスの1Kに住み、社会人経験も浅く、だれにも羨ましがられることのない平凡な日々だった。
でももうあの家には住んでいないし
わたしは世間に無知な少女ではないし
友人たちと深夜に集まることも難しくなった。
あのとき、夢を追うことや社会を知ることに必死で、仲間と共に自分の可能性を信じてがむしゃらに生きることがどれほど美しく輝かしいときだったか。
もうあの頃に戻りたくても戻れない。
なんでもなかった日々が大きな財産となっている。
だからどんなときも今この瞬間を生きなければいけない。
今日のお昼、あのときよく友人と語り明かしたびっくりドンキーに行った。
わたしがいつもオーダーするのはチーズバーグディッシュ。
あの頃が懐かしいわ。
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