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「ジャニーズ」という箱庭

「喜多川」を中心とした性加害に対し、直接的に触れるのは今回を最後にする。

この事件について思うことは、この事件ほど「社会」または「人間関係」において、縮図となるものはないのではないかということだ。

他人と自分のパワーバランス。劣等感と優越感。憧れや羨望。妬み、嫉み。
売れる、チヤホヤ、将来。密室、圧迫、現在。
成り上がるためには、馬鹿になるか、攻撃性を帯びるか、斜に構えるか。
いじめられない側はいじめる側。サクセスした暁には、女性アイドルとせめてもの乱交を——。

と、まあ「芸能界」ならではにも踏み込む表現となってしまったが、これはやはり、どの現場にも通ずる、汎用性を持った“社会の縮図”だと思う。
だが、だからこそ思うのだが、この事件を、小学生にレクチャーすることは出来ないのだろうか……?
「性」という部分さえ弾ければ、これほど小学生、または中学生の児童にとり、有用な教材はないと思う。

「オウム事件」とか「福島第一原発の事故」とか、性犯罪で言うなら「大久保清」や「宮崎勤」などもいるが、こと“人間関係”という意味においては、今回の事件ほど適した事件はないだろう。
人死にが出ず、結果、加害者が消えるまで事件が連綿と続いてきたという“バランスの取れた歪み”が、皮肉にも丁度よい。
率直に言い、理解し易い、小学生にとっても、“当事者”として理解し得る題材だろう。

それだけに、「性」を伝えない部分も含め、どう伝えるかというハードルをどう扱うべきか——だけという。
間違いなく為になるし、むしろ教えなければいけないことだと思うだけに悩ましい。

「喜多川」も、自分が“最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物”、そして“最も多くのコンサートをプロデュースした人物”としてギネスに載るタイミングでは、公式に出してこなかった写真をのこのこと提供したわけで、“極悪下劣な反面教師”として「道徳の教科書」に載るにはぴったりなのではないか。

とまれ、繰り返しになるが、これ以上見る人、見る立場、角度によって、異なった意見や気持ちを抱く、議論百出する教材はない。
また、その意味において、糾弾される側にもなっているマスメディア——メディア一つとっても叩かれる角度が違う——側の立場や見方をも学べる。

個人的には、それがその記者の感想や長広舌な意見表明であったとしても、“更問い”が出来ないよりは、出来た方がいいと思う。が、それとは別に、思い出すことが一つ。
当時、コロナ禍の中でジャニーズ事務所から離脱する話し合いを、飲食店で行っていたとされる手越祐也さんが、『ワイドナショー』で批判的にコメントされていたが、その中で女性の芸能レポーター(駒井氏ではない。名前が思い出せない)が、「(ジャニーズを)辞めるにしても、どうしてこのタイミングなんですかね?」と述べていたが、会社を辞めるタイミングの一次的理由は、“当人の気持ち”だけで十分だろ?と思っている自分にとり、そもそも違和感ありありだったのだが、今回の事件が明るみになったことで、あんな事務所“一秒一生”が如くいつ辞めてやったとしても、誰に文句を言われる筋合いもないことが露見されたわけだ。
にもかかわらず、普通に考え、一般人より「喜多川」の噂をリアリティーを持って受け止められる立場にあった芸能レポーターが口にするというのは、一体どういう神経だったのだろうか——?
風の噂によれば、女性タレントとのゴシップが出るくらいなら、「喜多川」に飼われ続けていた方がマシだと思うのが“ジャニヲタ”心理らしいのだが、そういう人たちはどの程度いるのだろう。いたのだろう。

また、その時はまだ番組に出演していた松本人志さんは、今、どう思っているのだろうか。現在、中居正広さんとレギュラー番組で共演しているのだけど。
希望的観測としては、「喜多川とジャニーズ」の事、または「喜多川と中居」の事を、中居さん本人から直接耳にしていた上で、公に明かすことではないと、口にするのを控えているのだと思いたい。
もし、今自分が芸能人であったならと想像すると、「ジャニーズ事務所」に所属、または所属していたタレントとは、共演をNGにするだろうから。
これは、何も「人権」がどうとか、“スポンサー受け”のためとかではなく、単純に接し方がわからないからだ。

はっきり言うと、“腫れ物”なので「松本さんと中居さん」や「さんまさんと木村拓哉さん」というような、すでに関係性のある立場ではない限り、相手方が上手く“助走部分”を作ってくれないと、接することが難しい。
そして、「助走」は「助走」——「助走」=“歩み寄り”——だから、こちら側が強制することでもないだろうし、ならば会わない方が健全だよね、ということになる。

また、やはりその時の放送回で、新進気鋭のイケメン落語家として、元ヤンの噺家が出演していたのだが、あくまで“コロナ禍”における会合であったことが騒動の本質だったとはいえ、「俺がそこ(の会合)にいたら、(手越さんを、強めのツッコミといったニュアンスで、事あるごとに)殴ってますよ」としていたのだが、この方も、今どう思っているのだろう。
仮に、落語界ではなく、「ジャニーズ一門」の暖簾をくぐっていたなら、「喜多川」にパンツを摺り下ろされた瞬間に、「喜多川」をど突き回して、その時点で、事件の全貌が明るみになっていたということでいいんだよな――?

一昨日来やがれ!!  ……いや、「山に埋めんぞ!!」か?

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