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サブカル大蔵経786小島信夫『アメリカン・スクール』(新潮文庫)

第三の新人、小島信夫の作品。

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私は、『利他とは何か』(集英社新書)に寄稿されていた磯崎憲一郎→保坂和志→小島信夫と遡っていきました。

私は、あまり小説をたくさん読んではいませんが、小説にはいろいろな文体、内容があることをあらためて実感しました。

私は、漫画と比較すると、不条理系になるのだろうかと連想しました。榎本俊二の先達になるのでしょうか。

ちなみに本書は、「私は」の多い作品で、異様な迫力にも繋がっているようです。

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「眠ったり、ご不浄したり、あんたは何のために汽車に乗ってるの」(汽車の中)p.64

 汽車とは何か。概念や意味の剥奪を、女からツッコまれる。この設定をつらぬく。漫画的とはいえる。

「みんなくるがいい。みんな可哀想、私より可哀想、みんな日本の別々のところから私のところ集る、剣をさげて。おかしい。可哀想よ」(「燕京大学部隊」)p.117

 山田風太郎の女ボスのよう

僕はなぐってから、息子の笑いがいっこうに止らずにやがて眼から涙がおちかかり、オチンチンをおさえてからだをふるわせだしたのを見た。(「微笑」)p.208

 パラリンピックの放映中に出会った文。

「そりゃあなた、殺される態度が違いますね。やはり精神は東洋精神というところですな」「それでよくひっかからなかったですね」「軍の命令でやったことです」(「アメリカン・スクール」p.249

 突き詰めると、コントか?残虐と笑い。

それは年上の女に可愛がられる男、という主題である。(江藤淳解説)p.375

 ここに着目して書く江藤淳という存在。

自分が置かれている状況の外に出たら、どんな悲惨が書かれているものでも「美しい情景を見て、涙を流す」文学にしかならない。だから小島作品では主人公はいつ終わりがくるのか見当もつかない事態から逃れられない。(保坂和志解説)p.387

 『ゴールデンラッキー』を想起。

引用した三つの文は明らかに日本語としておかしい。(保坂和志解説)p.389

「は」の力。「僕は」文学。

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