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サブカル大蔵経897鎌田東二『呪殺・魔境論』(集英社)

一種の共犯責任みたいなものを強く感じたのです。p.314

オウム真理教と酒鬼薔薇聖斗という未曾有の事件に対し、同時代の宗教学者として責任を感じながら、見識や経験を総動員した鎌田東二の魂の代表作と感じられる本書。しかしこの17年前の単行本も、後に文庫化された『呪いを解く』(文春文庫)も絶版。

その原因は本書でオウムの一次文献の徹底的な検証の中での麻原彰晃の性技関連の引用や、30歳で自慰行為をやめたことを突如吐露する著者の逸脱した真摯さか。

麻原彰晃と対談したことをあまり悪びれず語る山折哲雄に、巻末の鼎談で一歩も引かない不穏さもお蔵入りの原因か。

一番根本にある「最終解脱」とはいったい何なのか、といったことをクリティックすることがあまりにも弱かった。p.330

宗教とは、解脱とは、魔とは。その善悪や境界とは。麻原すらも魔に魅入られて止められなくなったとする視点は、優しく、厳しく、いまだ解決していない現在を生きる私たちにも向けられています。

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麻原が説いた「真理」が「真理」ではなく虚妄であることの明確な検証が必要なのである。そのためにも「魔」や「魔境」の問題認識が必要なのだ。p.9

イメージや装飾だけでなく、オウムの「内的な解決」のため、鎌田先生が立ち上がった。そうでないとまた悲劇が繰り返されるとの危惧であり、机上だけでない宗教学者として、自分が麻原の思想の誤りをきちんと論証する必要を感じられたのだと思う。

この阿部の指摘で見逃せないのが、呪いが社会的弱者や不具者の攻撃あるいは反撃の手段であり装置であると述べている点だ。p.21

文化人類学者阿部年春の指摘は、まさに今のSNS問題をも現しているよう。

呪術的世界観は暴力を容認する。p.47

 ブッダが呪術を否定した理由。私も音楽や踊りが苦手なのは、そこにトランスが絡み、自分が不自由になることが怖いから。それは暴力だと感じています。

「事実」は、「魔物」は、「普通」の親兄弟以上に「普通」に「見える」し、そのように「振る舞う」と。p.64

 酒鬼薔薇聖斗の手記も引用し検証。本当の魔物は普通の姿をしているという卓見。

ブッダは「悪魔」と対話し、「悪魔」の認識と誘惑を退ける。p.77

 悪魔から逃げないブッダ。逆に悪魔の誘惑というアシストがあって、悪魔との共同作業の中で仏教は生まれた気もします。

鈴木大拙は、親鸞の言う「横超」と禅の突然の悟りの「頓悟」を結びつける。/だが、この言い方は危うい。p.263

「煩悩即菩提」の超越性の危険性を注意。

平田篤胤の「思い込み」の強さは尋常ではない。そしてその「思い込み」の「論証」にかける情熱と努力もまた半端ではない。p.277

 自虐的に自身と篤胤を重ね合わせるくだりが最高。私も篤胤の著作を読んだ時、同じことを感じたので、それがさらに鎌田東二への信頼に繋がりました。

平田篤胤はこの「呪殺」という語を「マジゴロし」と訓ませている。「マジナイ」による殺しと言う意味である。p.283

 山口貴由作品を想起。篤胤のセンス。

行を重ねれば重ねるほど、「自分がこの行をしたのだ」と言う己の体験的事実にのみ執着し、とんでもない方向に自分を連れ出そうとする状況が待っている。p.286

 日蓮宗の荒行の伝師・戸田善育師。仏教における〈否定〉という自省装置を評価。


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