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高野山旅行 11【高野参詣起点の地1  慈尊院】

高野山を出て、九度山に来て一泊した私たちは、翌朝一番に、慈尊院に行きました。

慈尊院は、弘仁7年(816)年、弘法大師が庶務を司る政所として建立したお寺です。

弘法大師のお母さんは、弘法大師の姿を一目見たいと、82歳の高齢でありながら、香川県より参られました。
しかし、高野山は女人禁制です。
母親の身を心配した弘法大師は、ここ慈尊院に留まらせ、月に9度やってきたという。
その事から、この地を九度山というようになったと言われています。

835年、母親は83歳でこの世を去りました。
お大師様は、母のお墓として弥勒堂をたて、弥勒菩薩を安置したとのことです。 

当時慈尊院は、今の場所より北にあったのですが、1540年の大洪水で流出してしまったそうです。
しかし、弥勒堂だけは、幸いれ以前1474年にこの地に移していたため、無事でした。大師様が守ったのかもしれないなあ、なんて思いました。

さて、慈尊院は、高野山詣りの玄関と言われていて、慈尊院の弥勒菩薩をお詣りしてから山上に登るのが、高野山の本詣りとされているそうです。

山を下ってから来てしまった・・・

入ってすぐに目についたのは、ハート形のかわいい絵馬

しかしその先、弥勒堂の手前には、驚くべき絵馬があったのです。

わかりますか?
目玉? 饅頭? それとも・・・

乳房型絵馬(おっぱい絵馬)です!
御堂自体が、弘法大師のお母様のお墓ということで、お母様にお願いしたら、何でも願いが叶うという信仰があり、のちには弥勒菩薩がその母公の化身であると崇められ、高野山に上がれない女性の信仰を集めました。
そして、本堂前に女性の象徴である乳房を作り絵馬にして奉納すると願いが叶うと言われ、子授け・安産・乳がん平癒などの祈願をする人が多いそうです。

この絵馬、どんな形でいただくことができるかというと

自分で張り付けるんですね…
ちょっとドキドキしそう・・・。

小説「紀の川」の一節が書かれていました。

さて、弥勒堂にお参りして・・・
って、弥勒堂の写真、撮ってないじゃないか!
けして、おっぱいにばかり目を奪われていたからではありません。

弥勒堂の扉は閉まっていて、周りに色々あって、建物を撮るのが難しい感じだったのは覚えています。
この中の木造弥勒仏坐像は平安時代のもので国宝です。秘仏ということで、21年に一度しか、御開帳されないそうです。

パンフレットでは、弥勒堂と秘仏の弥勒菩薩坐像を見ることができますが、弥勒菩薩坐像は、パンフレットの写真も、写してはいけないとのことで、お見せできません。

弥勒堂の拝堂は、撮影しました。

お庭の方には、修行大師と高野山案内犬ゴンの碑があります。

ゴンとは、昔このお寺で実際に飼われていた雑種犬です。
高野山まで片道24キロを歩いて登る人が迷わないように8時間かけて案内していたそうです。
昔弘法大師様が高野山を初めて訪れた際、犬に導かれたという伝説もあります。
ゴンは、その生まれ変わりか、後継ぎ犬だったのかもしれません。

ここには、その他、大師堂はじめ、稲荷大明神などもあります。

大師堂

さて、先ほど門から見えた多宝塔が、こちらです。

こちらの多宝塔、平成24年に解体修理が行われたのですが、その時すごいことがわかりました。
実はこの塔の初重(1階?)部分は、室町時代に三重塔として作られていました。しかしなぜか途中で中断して、 仮屋根をかけた状態で置かれていた。そして、寛永元年(1624年)にこの部分を使って上部を作り上げ、多宝塔にしたらしいのです。
今はきれいに塗装されてしまっていてわかりませんが、時代の異なる複雑な建築構造になっているそうです。

さて、この多宝塔の横に、上に登る階段が見えます。
これが丹生官省符神社への階段です。

ということで、丹生官省符神社への119段の階段を登ります。
階段を登った最初の鳥居の脇に、180町石ちょういしがありました。
右側の、塔のような石です。

慈尊院本堂を0として、高野山根本大塔まで20キロ。そこから奥の院まで4キロの間、109メートル(1町)毎ごとに、町石が置かれています。
その最初の町石が、この180町石です。
ここから、町石道が高野山まで続いているのですね。

実はこの時、途中道が崩れたらしく、高野山までの町石道は、通れなくなっていたそうです。

階段を登っていくと、丹生官省符神社の赤い鳥居が見えてきました。

青空に、赤い鳥居が映えます。
まだ、朝なので、元気に階段を登ります。

そんなに大きな神社ではありません。

実は、現在は別々になっている慈尊院と丹生官省符神社ですが、もともとは、萬年山慈尊院という一つのものでした。

弘法大師さまが、政所として慈尊院を開いたとき、参道中央上段に丹生高野明神社を創建し、この地を天と神に通じる地として、神通寺の壇としました。
そして現在の慈尊院のところを慈氏寺の壇とし、併せて「萬年山慈尊院」と称したとのことです。

明治の神仏分離令によって分けられたのだと、丹生官省符神社の方が言っていました。
紀伊名所図会でも、一つの物として描かれていますが、現在とあまり変わらない様子がちょっと嬉しくなります。

先ほど、慈尊院の案内犬ゴンの話の時に、少し触れましたが、漁師の姿で現れた狩場明神様が、白と黒の二頭の犬を放ち、空海(弘法大師)を高野山に導いたと伝えられています。

高野山旅行3(壇上伽藍2)の記事にも書いていますが、
狩場大明神(高野明神)は、丹生都比売大神ニウツヒメノオオカミの子供です。
丹生都比売神社は、空海が金剛峯寺を建立するにあたって神領を寄進したと伝えられ、丹生都比売大神と狩場大明神(高野明神)は、高野山の地主神です。
この丹生官省符神社の第一殿のご祭神は、このニ神と、丹生都比売大神の姉、天照御大神アマテラスオオミカミです。

本殿三棟は、室町時代(1541年)再建されたもので、国指定重要文化財になっています。

本殿の正面に、拝殿かと思いきや、忌明清祓社いみあけきよはらいしゃといわれる建物があります。
家族が亡くなって51日又は101日後、ここに参拝し、祈祷を受けることにより、喪が明け、神社に参拝したり、慶事等に参加することができるということです。

正面から見ると、後ろの本殿が少し見えます。


実は、この本殿、社務所の人に言われて、右の奥の方に入っていくと、もう少しよく見えました。(こちらからでも全景は見えない)

柵があって、これより先には近づけず

ああ、なんということでしょう・・・
もう2500文字超えてしまいましたが、最後まで書けませんでした。

次で最後と言っておきながらすみません。
次こそは最後です。
最終回の記事はこちら↷


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