「特殊性癖」と「社会の正しさ」


朝井リョウさんの「正欲」を皆様は映画や小説でご覧になられましたか?

主人公は〝水に欲情する〟特殊性癖を持ち、
故に強い疎外感を抱いており、社会を蚊帳の外から見つめる描写も描かれていました。

メッセージ性に共感する作品でした。

正直私には〝水に特別な感情を抱く〟この心の動きがさっぱり分からず、興味が止まらなくなりました。とても悔しかったです。

噴水を見に行ったり、コップの水を揺らしてみたり、とにかく水がまとうエロスを心で感じ取ろうとだいぶトライしました。


水道水をひたすらコップに溜めたり
出先で見つけた水槽、30分近く眺めたり

しかし難しかった…

私が知りたかったのは水の魅力ではなく、

「水に欲情する人たちの心の状態」
「この社会に何を思うのか」「社会が彼らをどう見ているのか」
でした。

なにか1つを学ぶ時は、その対象ことだけでなく、
真逆の価値観や、対象の外側の世界を同時に知った方が本質を捉えられるのではないかと思ったので、

「特殊性癖」と「社会が求める正しさ」ふたつのテーマで勉強を始めました。

本、ドキュメンタリー映像を観たり、
直接話を聞きに行ったり、

生の情報を取り入れながら、8ヶ月前から勉強に励んでいます。

「動物性愛」「対物性愛」にピントを当て、
様々な人の心を知ろうとしている最中です。

本当にいろんな団体があったり、
団体の中にも更に考えの違いがあったり、国によっては「性」と「社会」が様々な距離感にあったりして、本当に興味深いのですが…

ちゃんと書くと本が1冊出来上がってしまうので
「結局私が今何を思っているか」端的に書いて終わりにします。

﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏

○「理解しよう」することをゴールに人と向き合うのは時に間違えなのだと知る


なぜならば、目的が「理解すること」だった場合、理解できなかった場合には「理解できなかった」という事実と「やっぱり理解できない人達なんだ」という明確な亀裂がそこに生まれてしまうからです。

明確な亀裂が発生すると、相手の言葉を咀嚼することよりも、自分の心をガードすることにエネルギーを費やすことになります。
そうなると、コミュニケーションの形をした戦争を起こすことになり、理解からも程遠くなります。

「理解できるかわからないけど知りたい」という素直でやわらかい姿勢が、人の心と向き合う時の最たる姿勢なのかもしれません。

そしてマイノリティな人には必ず「否定」がつきますから、最後に否定について書いてみますね。


﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏

否定の必要性


人が人を否定する時、

そこには「他人を否定することで自分のパーソナルを守り、確立させたい」という意識が働いていると考えます。

何かを守りたい時、差別化したい時に用いられるのが否定/拒絶反応で、それらは本能であり、自己を保つ上で必要性が生じるのでしょう。

この感情自体は愚かなことではなく、守りたいものがある証であると考えます。

しかし、学校や社会では「意味がわからない人」=「気持ち悪い、おかしい」という結び付きからいじめを受けるケースも多いはずです。

これは自身の「らしさ」を守る上で、
「あいつはおかしい」→「あいつのおかしさを認めたらこっちまでおかしくなる」→「自己崩壊の危機」→攻撃 (正当な行為)

という心の状態であると私は思うのです。
とても簡単に、だいぶ色々省いて説明しました。

私はマジョリティ側でもマイノリティ側でもなく、
否定を否定することも、肯定を肯定することもないのですが、否定は時に必要であると、このテーマの学習を経て感じています。
なぜなら否定派の主張があって、初めてマジョリティ側とマイノリティ側が共存するための規約やマナー、在り方が問われるからです。



否定と共に生きる場合

(やや話が脱線します。)

そしてこうしたことは、狭い社会でほど起こります。狭いからこそ確立させないと崩壊してしまうので、当然のことですね。

インターネットも広いようで狭すぎる世界ですから、否定のお祭りのような光景を日々目にします。

他人や社会からの否定に悩む方がいたら、外の世界に旅に出たら答えが見つかるかもしれないですね。

宇宙から地球を見下ろして初めて、地球の小ささや美しさや愚かさを知るように、自分という存在を知るにはその大枠を視野を広くして捉える必要がありそうです。

旅費がない…!宇宙行けない…!という遠い話では無く、

普段話さない人、やりたかったけど放置してたことに踏み込むのも、立派な心の旅です。
すぐ近くに世界があって、答えがあるかもしれませんよね。

最後に

現在「特殊性癖」について学ぶ中で、
様々な愛の形があることを知りました。肌と肌のコミュニケーションだけでなく、ただそばに居ることが最たる愛情表現であるという考え。
魚に恋をする人は、共に泳ぐことが愛であるという考え。

暴力を用いて愛を表現する人も何人も確認しましたが、私自身「その対象」を愛している故の暴力でなく、残念ながら紛れもなく自己愛であると感じました。
自分よりも弱く儚い という事実が、暴力を振える正当性と化しているのだと。それは特殊な性癖などではなく、心の弱さのカモフラージュです。


さて…私は理解できないことに直面すると、自分の小ささや狭さを知り、ガッカリし、同時に興奮を覚えます。
きっと何を学ぼうが、なにを得ようが、人間である限りは狭くて小さなままな気すらします。

それでも知らない世界や理解不能領域には、一生をかけてどんどんと手を伸ばしていきたいです。

なのでこういう唐突なテーマをこれからもたくさん投稿します。
興味のある方には楽しんで頂き、ない方にはドン引きして頂けたら嬉しいです。

若菜みさ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?